平泉坂下の兼房の松

 
増尾十郎兼房の松
背後の里山は高館
佐藤撮影

中尊寺の山門の前には、有名な伝弁慶塚趾とされる五輪塔がある。そこから道(国道4号線)を挟んで反対側に平泉文化史館(平泉町平泉字坂下)が立っているが、その付近に義経配下の四人の郎等終焉の地と伝えられてきた場所がある。

文化史館前に入口の左方にあるのが、「兼房」の名で知られる人物の塚趾だ。自然石風の石塔が斜面に無造作に置かれ、傍らに板碑が立っている。曰く「源義経従臣増尾十郎兼房戦死の跡」。「増尾」は「ますお」ではなく、「ましお」や「ますお」ではなく「ましのお」と読む。

この人物は、義経記では、「十郎権頭」(じゅうろうごんのかみ)とも表記される。後に義経と高館で最期を共にする北の方の久我大臣の女(むすめ)の乳父(めのと=養育係)だったと言われる人物だ。義経記への初出は、巻第七の「判官北国落の事」である。時期でいえば文治二年正月の末。いよいよ義経主従が北国道を通って、奥州平泉へ向かう場面で、北の方となるこの女性を連れてゆく過程で登場してくる。この時、兼房は63歳の高齢であった。もちろん平家物語には登場はせず、義経記の作者によって創作された人物であろう。

久我大臣といえば、しばしば平時忠(1128-1189)に擬し創作された人物と言われる。つまり、清盛の妻時子の弟で壇ノ浦で死にきれず、娘を義経にやって罪を逃れて、能登に流されたあの時忠である。彼は「平家にあらずんば人にあらず」という平家の奢り(増長)に通じる言葉を遺したことでも知られる。平家に仕えていた者が最後には、手塩にかけて育てた姫の護衛をして奥州平泉にまでやってきて、平家を滅ぼした義経の最期を看取って亡くなったというのは創作とはいえ日本人の好む切なさという情緒が漂っている。

この場所の西側には「片岡八郎経春の戦死の跡」、更に小道を挟んで鈴木三郎重家戦死の跡」がある。また鈴木重家の弟、「亀井六郎重清戦死の跡」もある。鈴木重家の跡は、鉄塔の金網に囲まれてていて見た目にいっそう哀れである。

平泉文化史館周辺のある地域は、高館からみれば、かなりの距離になる。高館に西門あるいは西木戸というものがあれば、そこからでも有に二町(218m)ほどにはなるであろう。ということは、義経の郎等たちは、高館に籠もって持ちこたえていたものの、いよいよ最後となった時、敵のなかに切り込んで壮絶な死を遂げたということも考えられる。

弁慶の五輪の塔と松も含め、文治五年閏四月三〇日の泰衡の急襲によって、戦死した義経の郎等の戦死跡をそのまま塚にしたものだろうか。弁慶立ち往生したというものは、衣川の田畑の中にあるというが、往時の戦の記憶をとどめようと、そままの配置で地元の者が弔ったとすれば、実にあっぱれなことだ。そんなことを思いつつ、兼房の松に手を合わせると、松に降り積もった白雪が、音を立ててザァーっと落ちたのであった。

兼房の松の白雪落つる音潔(いさぎよ)しとて悲しかりけり
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