大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十七話 上

【何故弁慶というキャラクターは創作されたのか!?】

第17話を観た。創作とは言え、余りに稚拙な筋にまともに論評をする気も失せてしまった。今回はまず「弁慶の泣き所」という題で、「女嫌いという設定の弁慶が恋」をするということだったが、事もあろうに、「義経記」では、紀伊国は田辺の出自(島根の出雲説もあり)という弁慶が、「カナズチ」で、海辺で体を洗っていたら足を滑らせて溺れ、女性に救われるというものだった。

お笑いにもならないような、こんな台本を書く作者の神経はいったいどこから来るのだろう。私は余りのことに、「某お笑いタレントの出番をこしらえろ」というNHK側の強制に、作家がワザとシナリオを崩して、NHKに抵抗でも示したのかとも思った。そうでなければ、あんな台本をプロが書くわけがない。何しろ、あの大豪傑の弁慶が、不注意で溺れ女性に救われる。さらには、その女性がエロ仕掛けで、弁慶に迫るというのだから、前代未聞の弁慶像になってしまった。大河ドラマ史上でも最低の下品なシーンであると断言しておく。関係者は、歴代の先輩たちに伺いを立ててみられればよい。

さて、ここで大崩の大河「義経」を少し離れて、武蔵坊弁慶という人物について考えてみたい。そもそも、武蔵坊弁慶の実像と現在の私たちがイメージしている弁慶の虚像との間には、天と地ほどの違いがあることを理解しておく必要がある。

現在あるイメージは、長い年月をかけて形成されたものである、結論からズバリと言えば、弁慶像は、判官贔屓を形成する過程で創作された人格である。だから今日の私たちが思っているような弁慶は存在しなかったのである。「平家物語」において弁慶は、以上の7回ほど登場しているが、どれも「義経記」とは違ってまったく、生彩を欠いた存在として描かれている。

1.巻第九の「三草勢揃」で場面で名前のみ紹介。
2.巻第九の「老馬」のシーンで、鷲尾三郎の父の猟師を連れて来る。
3.巻第十一の「継信最期」での名乗り。
4.同上で、能登守教経の矢弾から義経を守るために集まる。
5.巻第十一の「鶏合、壇浦合戦」で義経と梶原景時が先陣を争った時に名が末尾に登場。
6.巻第十二の「「土佐坊被斬」で京の館に土佐坊を連れてくる。
7.同上で、土佐坊と戦った郎等の末尾に登場。

この7回の登場の中で、配役らしい行動と言えば、2の一ノ谷への道案内を探して鷲尾三郎の老いた父を連れてきた下り、それから6で頼朝の刺客の土佐坊を義経の前に連れてきた二度である。これが現実の弁慶の存在感なのである。

この平家物語の記載から割り出されるイメージは、義経死後200年を経て成立したと思われる「義経記」の大豪傑の弁慶とは余りにもかけ離れている。

弁慶に関しては、平家物語と同時期に成立したと思われる信頼に足る史書(「愚管抄」、「玉葉」、「百練抄」)など)では、まったく取り上げられていない。

弁慶というキャラクターは、義経伝説の成長過程で、物語を一層面白くするために創られたキャラクターとと言わざるをえない。義経記における弁慶の使命は、運命の反転した哀れな子羊のような義経を助けることである。したがって弁慶は最後の最後まで義経に寄り添って奮闘する。彼はあくまでも強くあらねばならない。

義経記の作者たちが、弁慶を異形の豪傑にした意図は、壇ノ浦以降の兄との不和で運命の反転した義経の哀れさを強調するためである。そこでは義経は、稚児のような姿に戻って、弁慶とは逆にどこまでも弱くなくてはいけない。その意味で、義経記は、「義経と弁慶の物語」なのである。ふたりのキャラクターを練り上げたのは、おそらく「義経記」の巻第三の「弁慶物語」を創作し、「義経記」に挿入した熊野の修験者たちであろう。(義経が奥州に逃亡する行路は、彼らが山伏姿で辿る道である。その意味で、義経記は、熊野詣に諸国の民を誘うための物語であり、観光案内のような役割も担っているという説もある。)

確かに「義経記」という物語から弁慶というキャラクターを取ってしまうと、現実味は増すであろうが、物語は非常につまらなくなる。物語を受け止める民衆も、史実や現実味よりは、判官贔屓に通じる面白さを取る。その結果、義経記から、判官物と言われる数多くの能や舞が派生してくる。江戸期になると更に大仕掛けな浄瑠璃や歌舞伎となって民衆の人気を博すのである。

義経記においても弁慶の活躍は、やはり義経が逃亡する状況に至って一層生彩を放ってくる。大物浦では、波間から襲ってくる平家の亡霊に数珠を揉み真言を唱えて、これに対峙し、安宅の関では、主人義経を激しく打擲(ちょうちゃく)してまで、危機を救う。そして高館の自刃の折には、館の前で、死してなお、長刀を地面に付け眼を向いて、義経の遺骸を守るのである。

もしも今私たちがイメージするような武蔵坊弁慶は、元々存在しなかったと結論付けたならば、ショックを受ける人がいるだろうか。弁慶は、義経記の制作に介在した熊野の修験者たちによって意図的に作られたキャラクターであった。その結果、運命の反転によって、零落した義経が弱い稚児のような存在となって全国を流浪するのを助けるスーパーマンの役割を負わされたのである。もっと言えば、弁慶という存在は、判官贔屓が成立するための、必要欠くべからざる仕掛けそのものであったとも言えるであろう。
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前回の記事のコメントの件 (LYDIA)
2005-05-07 15:10:16
あのう、前回の記事のコメント欄を、ご覧いただけましたでしょうか。もし、お目にかかってないのではないかと思い、今一度、お目どうり願いたく改めまして、お願い申し上げる所存でございます。
 
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