中尊寺の義経の肖像の秘密

【中尊寺に伝わる「源義経公東下り絵巻」と「源義経公肖像」の関係について】 中尊寺に義経の肖像といわれる有名な画が伝わっています。お世辞にも、日本の歴史上最大の軍事の天才の面影は微塵も感じられないやつれ果てた義経像です。髪は、ほつれ、着物も寝起きに薄物を羽織ったような感じです。でも目だけは、爛々と光っています。 この肖像を、二年前の夏に中尊寺で、まじまじと見た洋画家の村山直儀氏は、とっさに「この . . . 本文を読む
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弁慶伝説の奥を覗けば

茅ヶ崎の弁慶塚にとても興味が惹かれ、12月23日に行きました。そのレポートは以下にありますので、興味があればお読みください。 茅ヶ崎の義経伝説 1 弁慶塚 思うに平泉でも、弁慶の墓と称する墓石が中尊寺の山門の入口付近に立っています。そして月見坂を登るとすぐに弁慶堂があります。しかもこの弁慶堂は、塔頭(たっちゅう)に当たる中尊寺の中では特に重要な位置に配置されています。塔頭とは、本堂の東南の位置 . . . 本文を読む
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平泉雑記から義経渡海説を探る

ここに、安永二年に相原友直(1703-1782)という人物が記した「平泉雑記」(1773)の一部を現代語訳し掲載します。義経渡海説に当たる部分で、主に加藤謙斎という人物が書いた「鎌倉実記」(1717年)という本について批判した部分が大半です。 この「鎌倉実記」という本で、著者加藤謙斎は、「金史別本」という本をタネにして、義経が北海道を越えて中国大陸に渡ったという説を主張しました。この本の内容は、 . . . 本文を読む
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判官贔屓 9

【頼朝贔屓の人が判官贔屓を評すれば・・・1】 ある新刊本を読みながら、こんなことを感じました。 「判官贔屓とは、本来比較対象物があっての贔屓の心情ではない・・・か?」と。それはズバリと言えば、「義経が好きか、それとも頼朝が好きか?!」というアンチノミー(二律背反)な心境ではないかということです。二位(にい)に叙せられた頼朝を「二品」(にほん)と呼びことがあります。ですので、「判官贔屓」に対抗し . . . 本文を読む
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鎌倉の義経邸はどこに?

 <腰越の満福寺から江ノ島を遠望する> 源義経の鎌倉邸跡について考えてみます。皆さまご存じのように、義経は、物心がついた時から9才(ないし11才)までは、京都の一条長成邸で母と暮らしたと思われます。それから鞍馬山に稚児として預けられて、16才まで鞍馬山の僧坊で暮らします。 京都で過ごした年月は、一ノ谷の勝利後、翌年の屋島、壇ノ浦合戦のの二年(この時は六条堀川邸)を入れて、合計18年にも及びます . . . 本文を読む
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判官贔屓 8

【河合隼雄氏の「中空構造説」と義経が討たれた深層】 今日は何故、日本において、義経や聖徳太子、菅原道真のように出る杭は打たれる傾向となるのか?ということについて日本人の深層心理を踏まえて少し考えてみたいと思います。 もちろん「嫉妬」や「やっかみ」という感情は、日本に限らず世界中いたる所に存在します。しかし日本ほど、出る杭をバッシングする国はないと思います。中国には、「天子の思想」というものがあ . . . 本文を読む
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判官贔屓 7

【日本人のタテマエとしての判官贔屓】 源義経という人物にしろ、聖徳太子(574-622)にしろ、菅原道真(845-903)にしろ、日本では常人を遙かに凌ぐ才能をもって生まれてきた人間を、どうも叩いて叩いて、潰してしまう傾向があるのは否定できません。 聖徳太子の十七条の憲法の一条は、以下のようなものです。 「一日、以和爲貴、無忤爲宗、人皆有黨、亦少達者、是以、或不順君父、乍違于隣里、然上和下睦 . . . 本文を読む
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義経と静の恋愛論 3

ところが、運命は思うようには行かないものです。ふたりの恋に決定的な障害が立ちはだかります。後白河法皇の義経追捕の院宣(文治元年11月11日)でした。将棋で言えば、逆王手をかけられたようなものです。それが14日の夜か15日には吉野に到着する。さて義経を匿おうと思っていた吉野の高僧(執行)たちも、これには「どうしたものか?」と悩んでしまったでしょう。 「院の命令に逆らえば、朝敵にもされかねない。義経 . . . 本文を読む
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義経と静の恋愛論 2

昨日、吉野に行ってきました。ご存じのように吉野は、義経と静にとっては、永遠の別れとなった思いで深い場所です。文治元年(1185)11月12日、ふたりは大物浦での難破(11月6日)した後、鎌倉方の執拗な追手を逃れるため、離ればなれとなって、吉野の吉水院で再会を果たします。夜だったと伝えられます。やはり昼は人目もあって、容易には姿を見せられなかったのだと思います。 吉水院は、金峯山寺の治める身分の高 . . . 本文を読む
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義経と静の恋愛論 1

今夜は、義経と静の恋愛について考えて見たいと思います。ふたりの出会いは、義経が一ノ谷で平家軍を破って、京に意気揚々と凱旋をした後(1184年2月9日以降)のことと推測されます。 おそらく源氏軍は、京の義経が住居とした六條室町邸ないしは堀川邸で大々的な凱旋式典もしくは戦勝祝賀会のようなものが催されたものと思います。その時に、供応の宴で呼ばれた白拍子の中に、京で一番の美女静がいたのであろうと思います . . . 本文を読む
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