大河ドラマ「義経」 覚え書き 第十六話 上

【政子と頼朝の夫婦げんかのリアリティ】

大河ドラマ「源義経」第16話を観た。何か、物語のほころびが大きくなって行くのを感じる。まず冒頭でプロローグで白拍子の説明があった。これはともかく、先の15話で、史実では富士川の戦いに参陣もしていなかったはずの義経が、鞍馬で知り合っていたという設定の白拍子静に再会する。およそあり得ない奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)なシーンであった。

院周辺や公家などの席にも出入りしていたであろう「静御前」のような格式の高い売れっ子白拍子が、よりによって、清盛の命を受けて、東国征伐の遠征軍に同行するという設定は無理がある。いかに若き総大将平維盛率いる平家軍だったとして、戦死の危険もある戦場に、物見遊山(ものみゆさん)でもあるまいに当代一流の舞の名手を随えて戦争に行くというのか。そもそも「武士」というものの「エートス」(生活信条あるいは心構え)から言って考えにくい話ではあるまいか。結局このシナリオの絶望的な失敗は、オママゴトのような義経と静の物語を繰り上げて描くという前提によって作られたことにあると思われる。

ひとつのウソが別のウソを産み、次々と増殖してゆく結果、もはや史実を知っている人たちだけではなく、「これはちょっと作りすぎではないのか?!」として、観るのを止め、あるいはチャンネルを変えてしまっていると聞く。

さて、義経と静の恋の話であるが、この悲恋の物語は、実は非常に短い期間で爆発的に燃え上がり、そして一瞬にして消えて行った恋物語である。私は義経と静の出会いの時期を、義経の活躍によって、源氏軍が一ノ谷で平家軍を破り、京に意気揚々と凱旋をした寿永三年(1184)2月9日以降のことと推測する。

出会った場所は、京都で義経が住居とした六條室町邸ないしは堀川邸の可能性がある。そこで凱旋式典もしくは戦勝祝賀会のようなものが催された席でのことだったと考える。

その供応の宴で、一躍時の人となった義経と天下一の白拍子の静が出会ったのである。また義経が後白河院より、左衛少尉検非違使門尉に任命された時期だったかもしれない。そうなると同年8月6日という説も考えられる。また昇殿を許された同年10月11日の可能性も浮上する。周知のように後白河院は、梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という本を残すほど今様に長けていた人物だから、義経と静の恋の裏にはこの人物がいたということも考えられる。そうなると、義経と静が吉野山で別れたのは、文治元年(1185)11月17日と明確になっているから、このようなことになる。

1.1184.02.09~1185.11.17(約1年9ヶ月)
2.1184.08.06~1185.11.17(約1年3ヶ月)
3.1184.10.11~1185.11.17(約1年1ヶ月)

要するに二人は知り合ってから、最長でも、1年9ヶ月という実にあっけない短い期間で時代によって引き裂かれたのである。だからこそ、二人の恋は、歴史的な悲恋物語として評価されうる要素を持っているのである。

今回の大河ドラマのように幼い頃からの知り合いという設定よりも、まるで出会った瞬間に雷にでも打たれてしまったように恋に落ちたという方がどれほど義経と静の悲恋物語に相応しい。事実は小説よりも奇なり、という言葉もあるが、歴史的事実の方がヘタな脚色よりは、よっぽどドラマチックな場合がある。

おそらく、うつぼ役の若い女優の順番で、本命の静を順番に登場させたということであろうが、私ならば、富士川の戦いに静が駆り出されてきたという荒唐無稽な話をでっち上げて二人を安易に出会わせるのではなく、運命の出会いの瞬間を史実に近くしかもドラマチックに練り上げたいと思うであろう。

何か、配役に媚びてシナリオを書いているのを感じてしまうのは私だけだろうか。来週はまた、亀の前の退場に伴って、女流漫才(?)コンビのもう一人の女性が、エロ仕掛けで女性嫌いの弁慶に迫るという品のない演出が予告編で流されていたが、実に馬鹿げた演出で、画面に「いい加減にしろ」と叫んでいた。弁慶は、ある意味「義経伝説」の民衆の想像力が生み出した人物だから、ある程度の脚色は許されると思うが、お笑いか、歴史ドラマか分からないような演出であれば、NHKの大河ドラマの歴史に泥を塗るようなものである。このようなおふざけなシーンは観たくない。

さて、今回の亀の前の家を焼くシーンであるが、まず何故、あそこで、義経が花を摘んでいなければいけないのか。せっかく静を登場させているのだから、あのシーンをもし作るのであれば静に花を摘ませて、政子という女性への共感を描いた方がよかったのではないだろうか。そうすれば、後に鶴岡八幡宮の舞殿で、義経の子を身籠もりながら義経をしたう女心を隠さずに謡い舞った静に対し、怒り心頭に達した頼朝を諫めたのは、政子だから、この創作のシーンが生きることになる。

但し政子の亀の前の家を打ち壊して恥辱を与えたというエピソードを描くと、現代にもありがちな家庭不和の昼メロドラマに成り下がる傾向があるので注意を要するが、これだって、史実の方が大河の作る虚構よりも、はるかに面白い。

頼朝が、亀の前の寵愛するようになったのは、政子の妊娠から長男出産の期間に当たり、現代でもよくある話だ。それからその浮気の告げ口をしたのが、北条時政の後妻の牧の方である。怒った政子は、牧の方の父である牧宗親に命じて、亀の前の家を打ち壊させる。そのことで、頼朝は大河ドラマとは違って引き下がらず、激怒して、牧の方の父宗親を呼び出し、尋問の末に、武士の髻(もとどり)を切るという恥辱を負わせたのである。すると頼朝の舅である北条時政も黙っていない。怒って伊豆に本拠に引き上げてしまう。それでも頼朝は、意地を張って、ますます亀の前を寵愛する。それに対して政子は、亀の前に家を提供し護ってきた伏見広綱という人物を遠江(とうとうみ:静岡)に流したというのである。

まあ、こんな具合であった。だから、義経が花を摘んでいて、兄頼朝の浮気シーンを見ているところに唐突に政子が現れ、気まずくなって義経が摘んでいた花をこともあろうに兄嫁の政子に渡すというのは、首が180度ほど回ってしまうほどの驚きであった。平家打倒、父の仇への復讐心に燃える義経が、少女のように花を摘むなどというシーンを思い描く作家の感覚を正直疑わざるを得ない。これを読んで「このシナリオのここはどうしてもダメですよ。書き直すべきです」というチームスタッフが居ないとしたら寂しい限りである。

つづく
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コメント
 
 
 
第15話下を読んで (LYDIA)
2005-04-29 11:50:46
第15話下の文末のところに、義経を軍事部門で

生かせていたならという記事に共感しました。

清盛から、流人に処せられたときより、財なし、家来なし、社会的地位も、それ以上は望めぬ立場で、衣食住は、どうにかなっていた、

頼朝にとっては、肉親の家臣がやはり必要であったと思います。

後に、頼朝がそして源氏がどのような道をたどるかという事からすれば、特にその思いをつよくします。

それが、色々の事象があるでしょうが、なかでも法皇の策にはまり、仲違いとならざるをえないとなるのが、口惜しくもあるだけにそれも、なおさらです。

 
 
 
Unknown (LYDIA)
2005-04-30 14:27:44
以前、鳥羽殿の読みでこのぺーじにありましたが、それと、全く、意を同じうするとは、申しませんが、試練の時の回に、誤りではないかと、される所が2度ほど出てきたと思われる読みが、ございます。

土肥実平ですが、読みでは、「といのさねひら」ではないでしょうか。「どひのさねひら」と、読み上げておりました。これは、古典仮名遣いの読み方が、問題になると、私は思います。ただ、「どいのさねひら」という読みは聞いたことはあります。

 
 
 
氏名の「土肥」の読みに関して (佐藤)
2005-05-08 00:14:09
LYDIA さん



コメントありがとうございます。



さて土肥実平についてですが、「どひ」で良いと思いますが、古典仮名遣いというよりは、「土」(ど)と「肥」(ひ)で、「どひ」と素直に音にしたということではないでしょうか。その家のこだわり「とひ」、「どい」、「とい」と読ませるかは、それぞれだと思います。



JR湯河原駅の前に、土肥実平の銅像があり、あそこの説明版には、どのように表記していたかは忘れましたが、広辞苑でも「どひ」と読ませておりますね。
 
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