大河ドラマ「義経」 覚え書き 第三十九話 下8

【吾妻鏡と平家物語の腰越状の冒頭と末文の異同について】
腰越状について、吾妻鏡と平家物語を比較すると次のような異同が見られる。
1.吾妻鏡収載の腰越状には、自身の名の前に「左衛門少尉」という官位を冒頭に持ってきていること。但し「平家物語」においては、官位を入れず、「源義経」とのみ記している。
2.吾妻鏡が「元暦二年六月 日」と、日にちを抜いているのに対して、平家物語では「元暦二年六月五日」と明記していること。
3.吾妻鏡が「因幡前司殿」の「前司」と現職を前職と官位を間違えたこと。平家物語では、「因幡守殿へ」と誤りなく表記している。
以上の三点を考えてみると、特に私には、吾妻鏡が「因幡前司」と大江広元の役職を間違えるという致命的なミスを犯していることに大きな意味があるように感じられる。そもそも、この腰越状というものが、義経の心情を慮って中原信康のような右筆が撰文したとすれば、現役か「前司」のチャックは、公式文書のイロハのイであり、誤記することなどあり得ないと思う。であるとすれば、吾妻鏡編集時点で、何らかの作為が働いて、手直しを加えた可能性が浮上する。
同じことは、三点全体でもいえる。つまり、仮に平家物語に掲載された腰越状が、中原信康の所有する腰越状の写しあるいは日記のようなものをベースにして出来上がったものであるとすれば、先の三点の異同は、吾妻鏡の編集時点で、やはり何らかの作為が働いて改変されたということができる。平家物語は、とくに義経の記載が多いことについては知られているが、何も義経贔屓とは言えない。平家物語に義経の記録が多く散見されるのは、やはり義経の右筆の史料が、平家物語の作者によって多く使用された結果であろう。
さてでは、この「何らかの作為」とは何か。
「吾妻鏡」は、「叙述の基調があくまでも北条氏執権政治擁護の立場の上におかれている」(石井進「鎌倉武士の実像」平凡社選書 1987年刊)ことは周知の事実である。その成立に大江広元は、加わらなかったと言われるものの、政所別当であったこの人物の書庫に集まっていた様々な歴史史料が編纂者によって使われ引用されたと思われている。その史料の中に「腰越状の原史料」も入っていたはずだ。
吾妻鏡の記載した冒頭の「左衛門少尉」、それから最後の「因幡前司殿」のミスを考えると、これは明らかに義経不利の表記である。
このことを考えるならば、吾妻鏡の表記には、義経の評判に対して、これを成敗した鎌倉方の意思が働いていると考えられるのではないだろうか。ある意味では、編集者は北条氏という権力の役人な訳だから、民衆のヒーローとなっている源義経という人物の評判を表立っては批判するのではなく、歴史史料としての吾妻鏡の一部に改ざんを加えた「腰越状」を、そっと掲載したのではないだろうか。
それに対し平家物語では、冒頭に、ただ「源義経」のみ筆記し、鎌倉の頼朝に気を遣った書き方をしている。また「因幡守」と大事な現職を前職とするような恥ずかしいミスは犯していない。平家物語の作者が、義経を特に良く表記してやろうなどという意図ははじめから無い。だから別に腰越状を改ざんするような意思が働く訳がない。
とかく義経を批判する人間は、この吾妻鏡版「腰越状」の「左衛門少尉」という冒頭の表記をもって、「義経という男は、兄の気持などなにも分かっていなかったのだ。よって彼は政治的には無能である」というレッテルを貼ってきた。末文の「因幡前司」もやはりおかしい。この「因幡前司殿」という表記は、現在の総理大臣に対し、「前総理大臣」との敬称を付けて、詫び状を出したに等しく、そのようなあり得ないミスを右筆の中原信康のようなプロが犯すことは考えにくい。
以上のことを考え合わせ、さらに義経物語としての成立が平家物語→吾妻鏡→義経記という流れできたとすれば、平家物語と吾妻鏡の腰越状の異同の中に、北条権力の編纂過程における作為の痕跡を視ることは容易であると思う。
つづく
腰越状について、吾妻鏡と平家物語を比較すると次のような異同が見られる。
1.吾妻鏡収載の腰越状には、自身の名の前に「左衛門少尉」という官位を冒頭に持ってきていること。但し「平家物語」においては、官位を入れず、「源義経」とのみ記している。
2.吾妻鏡が「元暦二年六月 日」と、日にちを抜いているのに対して、平家物語では「元暦二年六月五日」と明記していること。
3.吾妻鏡が「因幡前司殿」の「前司」と現職を前職と官位を間違えたこと。平家物語では、「因幡守殿へ」と誤りなく表記している。
以上の三点を考えてみると、特に私には、吾妻鏡が「因幡前司」と大江広元の役職を間違えるという致命的なミスを犯していることに大きな意味があるように感じられる。そもそも、この腰越状というものが、義経の心情を慮って中原信康のような右筆が撰文したとすれば、現役か「前司」のチャックは、公式文書のイロハのイであり、誤記することなどあり得ないと思う。であるとすれば、吾妻鏡編集時点で、何らかの作為が働いて、手直しを加えた可能性が浮上する。
同じことは、三点全体でもいえる。つまり、仮に平家物語に掲載された腰越状が、中原信康の所有する腰越状の写しあるいは日記のようなものをベースにして出来上がったものであるとすれば、先の三点の異同は、吾妻鏡の編集時点で、やはり何らかの作為が働いて改変されたということができる。平家物語は、とくに義経の記載が多いことについては知られているが、何も義経贔屓とは言えない。平家物語に義経の記録が多く散見されるのは、やはり義経の右筆の史料が、平家物語の作者によって多く使用された結果であろう。
さてでは、この「何らかの作為」とは何か。
「吾妻鏡」は、「叙述の基調があくまでも北条氏執権政治擁護の立場の上におかれている」(石井進「鎌倉武士の実像」平凡社選書 1987年刊)ことは周知の事実である。その成立に大江広元は、加わらなかったと言われるものの、政所別当であったこの人物の書庫に集まっていた様々な歴史史料が編纂者によって使われ引用されたと思われている。その史料の中に「腰越状の原史料」も入っていたはずだ。
吾妻鏡の記載した冒頭の「左衛門少尉」、それから最後の「因幡前司殿」のミスを考えると、これは明らかに義経不利の表記である。
このことを考えるならば、吾妻鏡の表記には、義経の評判に対して、これを成敗した鎌倉方の意思が働いていると考えられるのではないだろうか。ある意味では、編集者は北条氏という権力の役人な訳だから、民衆のヒーローとなっている源義経という人物の評判を表立っては批判するのではなく、歴史史料としての吾妻鏡の一部に改ざんを加えた「腰越状」を、そっと掲載したのではないだろうか。
それに対し平家物語では、冒頭に、ただ「源義経」のみ筆記し、鎌倉の頼朝に気を遣った書き方をしている。また「因幡守」と大事な現職を前職とするような恥ずかしいミスは犯していない。平家物語の作者が、義経を特に良く表記してやろうなどという意図ははじめから無い。だから別に腰越状を改ざんするような意思が働く訳がない。
とかく義経を批判する人間は、この吾妻鏡版「腰越状」の「左衛門少尉」という冒頭の表記をもって、「義経という男は、兄の気持などなにも分かっていなかったのだ。よって彼は政治的には無能である」というレッテルを貼ってきた。末文の「因幡前司」もやはりおかしい。この「因幡前司殿」という表記は、現在の総理大臣に対し、「前総理大臣」との敬称を付けて、詫び状を出したに等しく、そのようなあり得ないミスを右筆の中原信康のようなプロが犯すことは考えにくい。
以上のことを考え合わせ、さらに義経物語としての成立が平家物語→吾妻鏡→義経記という流れできたとすれば、平家物語と吾妻鏡の腰越状の異同の中に、北条権力の編纂過程における作為の痕跡を視ることは容易であると思う。
つづく

