平家物語に込められた暗喩とは?!

平家物語という作品は、何故これほど日本人に愛され読みつがれてきたのでしょう。その理由について少しばかり考えてみたいと思います。
平家物語は、単純に言ってしまえば、平清盛という武者が大志を抱いて政権を奪取しかけたが、結局は急激な政策が祟って、世の混乱を招き、結局一族郎等ことごとく滅んでしまったという「政権奪取失敗物語」です。
それがこれほど読まれてきた背景には、おそらく平家物語に日本人を惹きつける何らかの理由があったものと考えられます。第一にこれほどに浮き沈みの激しい政治劇を見たことがなかったこと。第二に、その中に、ヒーローの義経を生み出した源平合戦が含まれていること。第三に、あれほど栄えた清盛という人物が、まさに真っ逆さまに地獄の底に叩き落ちた「ざまあみろ」という痛快さなどが挙げられます。
考えてみれば、平家物語は、映画でいえば、恋あり政治あり、戦争ありの大スペクタクルドラマです。しかも滅びといっても半端な滅びではありません。一族郎等、本当にことごとく滅びさってしまうのです。悪人を演じる清盛の大悪党振り、そして運命の皮肉、ライバル源氏の頼朝と軍事の天才の義経など。物語のあらゆる要素が含まれています。しかしそこで、待てよと考えてみます。何故作者は、この物語を書いたのか、という単純な動機です・・・。
平家物語の痛快さの奥には、ひとつの教訓が潜んでいると思われます。それは「奢り高ぶるな、平家に非ずば人に非ず、などと世の中の形を壊すような言葉は吐くな」という暗喩です。この暗喩こそが動機だったかもしれません。しかし日本人は、そんな暗喩(動機)などまったく意識することなく平家物語を愛してきたのです。
平家物語を創造の翼として生まれた歌舞音曲の類は、数え上げたら切りがありません。その意味で、平家物語は、日本人の発想の源泉になってきたということもできるでしょう。当然ながら平家物語という著作は、鎌倉政権に対する警告の書でもあったと推測されます。
それはいったいどんな意味でしょうか。元々、大化の改新以降、清盛の生きた時代、日本という国は、藤原氏の国になっていたといっても過言ではありません。天皇家と言えども、天皇に実質的権力はなく、摂政という形で、藤原氏が全てを取り仕切っていました。それが日本という国家の形でした。さらに言えば天皇家の血脈そのものが長い年月を経て藤原氏によって形成されていたのです。そこに清盛は割って入ろうとしたことになります。
「氏素性」という言葉があります。特に平安期には、日本という国は、この藤原氏という一族が文字通り、国家中枢の末端まで巾を利かせていて、右を向いても左を向いても、まさに「藤原氏で非ずば人の非ず」という状況でした。
奥州藤原氏の祖である藤原清衡が、清原姓から、父の氏であった藤原姓を名乗ったのも、中央の藤原氏とのネットワーク構築のための改名であったと推測されています。元々安倍氏の婿となった藤原経清は、奥州の政庁である多賀城に赴任した役人でありましたが、安倍頼時(~1057)にその「氏素性」を見込まれて娘婿となったのです。これもまた奥州の安倍氏が画策した血縁の洗浄とも云えるような政略結婚でした。こうして奥州にも藤原の血は入ったのです。
まさに「藤原に非ずば人に非ず」という状況が、日本中に蔓延していました。清盛に始まる武士たちの登場は、そんな藤原氏中心の政治の終焉をもたらす可能性があったのです。藤原氏にとっては、大変な危機感があったはずです。その危機感こそが、「平家物語」執筆の最大の動機ではなかったかと思うのです。つまり源氏政権への警告の書という意味はここから類推されます。藤原氏は頼朝に警察権こそ渡しましたが、日本の基層としての藤原一族の支配権を放棄したわけではありません。平家物語は、単純化にみれば、「天下の理に反して平清盛のような行動は取るな」という暗黙の威しであると思います。
日本人は、そんなこととはつゆ知らず、清盛の悪逆を憎み、義経の獅子奮迅の活躍に目を見張り、清盛の一族が、次々と非業の死を遂げる姿に涙を流しながら、「もののあわれ」などという極めて曖昧模糊とした無常観なるものを見出してきたのです。しかしそれが本当に日本人独特の滅びの美学なのでしょうか。果たしてそれが日本精神の神髄なのでしょうか。創作時の意図と離れて一人歩きを始めた平家物語の評価を、あの世にいる作者は、こんな見方もあるのか、と「クスッ」と笑い出すかもしれません・・・。
平家物語は、単純に言ってしまえば、平清盛という武者が大志を抱いて政権を奪取しかけたが、結局は急激な政策が祟って、世の混乱を招き、結局一族郎等ことごとく滅んでしまったという「政権奪取失敗物語」です。
それがこれほど読まれてきた背景には、おそらく平家物語に日本人を惹きつける何らかの理由があったものと考えられます。第一にこれほどに浮き沈みの激しい政治劇を見たことがなかったこと。第二に、その中に、ヒーローの義経を生み出した源平合戦が含まれていること。第三に、あれほど栄えた清盛という人物が、まさに真っ逆さまに地獄の底に叩き落ちた「ざまあみろ」という痛快さなどが挙げられます。
考えてみれば、平家物語は、映画でいえば、恋あり政治あり、戦争ありの大スペクタクルドラマです。しかも滅びといっても半端な滅びではありません。一族郎等、本当にことごとく滅びさってしまうのです。悪人を演じる清盛の大悪党振り、そして運命の皮肉、ライバル源氏の頼朝と軍事の天才の義経など。物語のあらゆる要素が含まれています。しかしそこで、待てよと考えてみます。何故作者は、この物語を書いたのか、という単純な動機です・・・。
平家物語の痛快さの奥には、ひとつの教訓が潜んでいると思われます。それは「奢り高ぶるな、平家に非ずば人に非ず、などと世の中の形を壊すような言葉は吐くな」という暗喩です。この暗喩こそが動機だったかもしれません。しかし日本人は、そんな暗喩(動機)などまったく意識することなく平家物語を愛してきたのです。
平家物語を創造の翼として生まれた歌舞音曲の類は、数え上げたら切りがありません。その意味で、平家物語は、日本人の発想の源泉になってきたということもできるでしょう。当然ながら平家物語という著作は、鎌倉政権に対する警告の書でもあったと推測されます。
それはいったいどんな意味でしょうか。元々、大化の改新以降、清盛の生きた時代、日本という国は、藤原氏の国になっていたといっても過言ではありません。天皇家と言えども、天皇に実質的権力はなく、摂政という形で、藤原氏が全てを取り仕切っていました。それが日本という国家の形でした。さらに言えば天皇家の血脈そのものが長い年月を経て藤原氏によって形成されていたのです。そこに清盛は割って入ろうとしたことになります。
「氏素性」という言葉があります。特に平安期には、日本という国は、この藤原氏という一族が文字通り、国家中枢の末端まで巾を利かせていて、右を向いても左を向いても、まさに「藤原氏で非ずば人の非ず」という状況でした。
奥州藤原氏の祖である藤原清衡が、清原姓から、父の氏であった藤原姓を名乗ったのも、中央の藤原氏とのネットワーク構築のための改名であったと推測されています。元々安倍氏の婿となった藤原経清は、奥州の政庁である多賀城に赴任した役人でありましたが、安倍頼時(~1057)にその「氏素性」を見込まれて娘婿となったのです。これもまた奥州の安倍氏が画策した血縁の洗浄とも云えるような政略結婚でした。こうして奥州にも藤原の血は入ったのです。
まさに「藤原に非ずば人に非ず」という状況が、日本中に蔓延していました。清盛に始まる武士たちの登場は、そんな藤原氏中心の政治の終焉をもたらす可能性があったのです。藤原氏にとっては、大変な危機感があったはずです。その危機感こそが、「平家物語」執筆の最大の動機ではなかったかと思うのです。つまり源氏政権への警告の書という意味はここから類推されます。藤原氏は頼朝に警察権こそ渡しましたが、日本の基層としての藤原一族の支配権を放棄したわけではありません。平家物語は、単純化にみれば、「天下の理に反して平清盛のような行動は取るな」という暗黙の威しであると思います。
日本人は、そんなこととはつゆ知らず、清盛の悪逆を憎み、義経の獅子奮迅の活躍に目を見張り、清盛の一族が、次々と非業の死を遂げる姿に涙を流しながら、「もののあわれ」などという極めて曖昧模糊とした無常観なるものを見出してきたのです。しかしそれが本当に日本人独特の滅びの美学なのでしょうか。果たしてそれが日本精神の神髄なのでしょうか。創作時の意図と離れて一人歩きを始めた平家物語の評価を、あの世にいる作者は、こんな見方もあるのか、と「クスッ」と笑い出すかもしれません・・・。

