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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第四十七話 上

勧進帳人気の秘密を探る

大河ドラマ第47話「安宅の関」を観た。弁慶一世一代の名場面である「勧進帳」であった。勧進帳は周知のように歌舞伎十八番の演目である。三世並木五瓶が、能の「安宅」を翻案し、天保十一年(1840)、第七代市川團十郎によって初演された作品である。流れから言えば、この「勧進帳」は、史実ではなく、フィクションと思われている。言ってみれば、「義経記」から発した義経に関わる伝説が時代を経ながら生成変化を遂げ、能の「安宅」、歌舞伎「勧進帳」と受け継がれた”義経伝説のハイブリット種”(雑種あるいは混合物)ということになる。

勧進帳の骨子は、安宅の関において、関守の富樫某により、義経一行が偽装したニセ山伏とのとの嫌疑がかけられたのを、弁慶がとっさの機転により、勧進帳を読むと称して主従最大のピンチをその剛胆な胆力によって切り抜けるというものである。またこの中で、家来である弁慶が、主君の義経を激しく打擲(ちょうちゃく)するという、およそ封建時代の世では考えられない行動を取るという意外性が受けて、江戸末期、第七代市川團十郎が演じて大人気を博した狂言(演目)であった。当時から「忠臣蔵」と並ぶ人気だったということだ。

この狂言の面白さは、富樫と弁慶の丁々発止の口合戦にあると私はみる。ある種独特の叙情性もあり、「旅の衣は鈴掛の・・・」と、地謡が流れるだけで、日本人の血が騒ぐようなところがある。もちろん100%のフィクションである。しかしながら義経伝説の中でも、特にこの「勧進帳」が日本人に人気が高い理由は、ふたつあると考えられる。ひとつは、主君を泣きながら叩くという弁慶の心情。もうひとつは、関守の富樫という人物が、目の前の山伏たちを義経一行と見破りながら、関を通すという関守富樫の「武士の情け」である。

筋としては実に単純なものであるが、日本人は主君義経を泣きながら叩くという弁慶の行為を舞台で観るだけで、パブロフの犬状態で涙腺がゆるんで涙があふれ出てしまうのである。

その意味で、
日本人にとって「勧進帳」という芝居は
、泣くためにあると言っても過言ではない。勧進帳の本質は、詮議する者と詮議される側の立場の違う二人(弁慶と富樫)の間のぴんと張りつめた緊張関係にこそある。しかも勧進帳には、能「安宅」の流れをくむ序破急のメリハリがある。

「旅の衣は鈴掛の・・・」と観客の旅心をそそるようにゆっくりとはじまり、やがて弁慶ー富樫の丁々発止の口合戦があり、富樫が弁慶のウソを見抜きながら、あっぱれなる弁慶の振る舞いに感じ入って関所の通過を許す。次の瞬間、弁慶が義経に泣いて詫びる。そこに富樫が入って酒を振る舞うという趣向である。予定調和とも言える筋であるが、そこは能の「序破急」の様式性が完璧に実現されている。

さて47話であったが、歌舞伎の様式美を盛り込むか、それともそこに多少のリアリティを入れるかという点で、演出姿勢に中途半端なものを感じた。今回では、どうしても、松平健の出来がすべてのようなところがあった。しかし彼の演技は納得できる水準ではなかった。まずセリフ回しであるが、力の入れ方、声の強弱、声のキレなど凡庸であった。また目線の切り方、巻物を扱う所作など上手いとは言えない。はっきり言って、松平健の気魄がまるで伝わってこなかった。

彼は役者としての、本当にこの回の勧進帳のこの一点に己の全役者魂というものを賭けて演技したのかと問いたい。チャンスではないか。しかし彼はチャンスを生かせなかった。「義経」というこの大河ドラマを離れても、松平健という役者が歴史に残るかどうかの瀬戸際にあったのに、それだけの演技は残念ながら残せなかった。以前の大河の
緒形拳の演技や歌舞伎の団十郎や吉右衛門がどのように弁慶を演じているかを研究し、もっとのめり込んで、この役に賭ければ、もっと強い感動を残す弁慶を演じられたはずだ。演出家に任せているのか、スケジュールに追われているのか、正直何か物足りなさを感じる。

それから、ビデオ編集上に付加したと思われる鈴などの効果音が白々し過ぎて気になった。数珠や錫杖の鈴などは、山伏が動く度に自然に発せられる音であるから、効果として入れるのではなく、録音段階で、演技者によって、取るべきではないかと思う。知盛の亡霊がでる「舟弁慶」に該当するシーンでも数珠をもむ弁慶役の松平健の読経の声の迫力、それから数珠の扱いもまったく冴えなかったが、弁慶役として当然クリアすべき所作の訓練がなされたいないのを感じる。もっとひとつの所作にこだわった演技をしてはどうか。

富樫役の石橋蓮司は貴種としての富樫役の既成概念からはずれていたが、なかなかよい味を出していた。ただし、登場の段階で、酔ってでもいるかのように酒を持参して登場するという演出に妙な違和を覚えた。何の意味があるだろう。後に一行に酒を差し出すためと思えるが、あのように関守が公的な場に酒の入ったヒョウタン持参するとは、よっぽどのウツケかバサラな者のようにも見えてしまう。この演出は無駄であった。台本もあるが口合戦の演出も丁々発止とは行かず、「破」から「急」へと展開するスピード感、ドライブ感もなく、ある種のジレンマを覚えた。

次に少し大河を離れて「勧進帳」が何故これほど日本人に受けるのかを探ってみることにしよう。

つづく
 
参考
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