杉並のアパート 84歳男性病死 認知症の妻1週間気づかず(産経新聞) - goo ニュース
この記事を目にし、以前書いていた小説が頭をよぎった。発表していない小説。おいらにしては、ちょっと軟弱なストーリー。
で、この記事のこころの背景を思いながら、アップさせていただく。ブログにしては長めだけど、気が向いたら最後までどうぞ。
老いの風景 前編
カーテンの隙間から差し込む光の帯が、正二郎の目の上にかかった。正二郎は、それをうるさそうに手で払いながら、目を開いた。
二、三度まばたきをして、顔を横に逸らす。
「ああ……」
ため息とも叫びともつかない声をひとつ発した。
体を硬くして耳をそばだてる。
『起きましたか、お父さん』
と、妻の志津子の声が、台所の方から聞こえてくるはずだった。
しかし声はない。道路を行き交う車の音や、裏の公園の方からヒヨドリの引き裂くような鳴き声が聞こえるだけだ。
「ああーっ」
もう一度叫んだ。
耳を澄ました。やはりどこからも反応はなかった。
顔を起こし、横に敷かれたままの布団に目をやった。志津子の姿はなかった。
首をもたげて足元の先に視線を向けた。襖は閉じられたままだった。
襖の向こうはダイニングキッチン。志津子が台所にいるのなら、せわしなく動きまわる足音や、食器の触れ合う音が聞こえてきてもいいはずだ。しかし、人の気配はない。
正二郎は、布団の上に上体を起こした。
「お母さん、起きてるのかい」
呼びかけて、また耳を澄ましてみる。
二十秒ほど待ったが返事はなかった。
「なあ、ばあさんや。志津子……」
別の呼び方で声をかけてみる。しかし、静まり返ったままだった。
立ち上がった。布団を踏みつけて進み、襖に手をかけた。居間にいる相手を驚かそうとするかのように一気に開けた。力を込めて。
ダイニングには、だれもいなかった。テレビは点いていない。キッチンでお湯も沸いてはいない。
正二郎は、いつも腰をおろすソファーに目を向けた。置かれているはずの朝刊が見当たらない。
食卓のいすに腰を下ろした。この時間はいつも、好物の納豆と味噌汁の椀が食卓に用意されていた。ガス台には鍋があって、正二郎が起きると、志津子は暖め直し、熱い味噌汁をよそってくれる。だが、食卓には何も用意されておらず、ガス台に鍋もなかった。
「母さんや、どこだね。隠れているのかね」
正二郎は、また呼んだ。
壁の時計に目をやった。八時半を回っている。ふだんの日は七時に志津子に起こされる。だが、今日は起こしてはくれなかった。
正二郎は、食卓の椅子に座った。
志津子は、何も言わずに出ていくわけがない。買い物に出かける時だけでなく、ごみを出す時も、隣に回覧板を届けに行く時も、必ず声をかける。
正二郎は、病院の待合室で待つように、ただじっと待った。
時間は過ぎていく。しかし志津子はなかなか姿を現さない。
十五分ほど待ち続けていると、尿意を催してきた。いったん感じると、膀胱に神経が集中し、すぐにこらえられなくなる。
立ち上がり、廊下に出た。トイレのドアが半開きになっていた。正二郎はノブに手をかけ、ドアを開いた。
「おおーっ」
その瞬間、正二郎は、調子っぱずれの声を上げた。
志津子は、便器を抱え込むようにして倒れていたのだ。
「なんだ、こんなところにいたのか。どうしたんだ」
正二郎はしゃがんで、志津子の肩を揺すった。
「おい、起きろ。布団で寝ろよ。風邪をひくぞ」
だが、反応はなかった。頬を触ってみると冷たい。半ば開いた目は、うつろに中空を見つめ、顔は土色に変わっていた。小さく開いた口の端からは、嘔吐物が糸を引いている。
「おい、身体が冷たくなってるぞ。死んでるのか? 困ったなあ。まだおれ、朝めし食ってないんだけどなあ」
次に何をすればいいのか、正二郎の頭には浮かばなかった。しかし、便所で倒れたままではまずい、ということは理解できた。目を見開いたままなのも見苦しい。
正二郎は、志津子の目を閉じてやり、トイレットペーパーを引っ張り出して口元の汚れを拭ってやった。
「どうしよう。困ったなあ。布団へ連れて行くか?」
正二郎は、志津子の両脇に腕を通して抱えた。持ち上げようとするがなかなか力が入らない。それでも渾身の力を込め、引きずりながら布団まで運んだ。
志津子の布団は、まだ敷きっぱなしだった。その上に寝かせ、掛け布団をかぶせてやった。
息が切れた。
ひと息つくと、尿意を催した。用を足していなかったことに気づき、もう一度トイレにむかった。
尿はしっかり出た。手をよく洗い、居間に戻った。
空腹感がよみがえってきた。何かを口にしたい衝動にかられる。
しかし、テーブルには、何も用意ができていない。
「おい、ばあさん、どこだ。おなか減ったよ」
台所を見回してもいない。
洗濯をしているのかもしれない、と思い、洗面所の洗濯機置き場へ行ってみた。
「志津子、どこだ?」
洗濯機のそばに姿はなかった。洗濯機の蓋を開けて、中を覗いてみた。下着類が何枚か放り込まれていただけだった。
浴室に入り、浴槽の蓋をとって確かめたが、やはりいない。玄関にも見当たらなかった。首を傾げながら、居間の隣の寝室をあけた。敷かれたままの布団に横たわった志津子がいた。
「おお、なんだ、まだ寝ていたのか。なあ、母さん、起きてくれよ。腹、減ったぞ」
正二郎は、妻を起こそうとして布団の脇に座った。その時、顔の異変に気づいた。
「おい、死んでるのか? 困ったなあ、生き返りなよ」
肩を揺すってみたが、反応はない。
「こんなに冷たくなって、寒くないのか」
正二郎は、妻のすぐ脇に身を横たえた。冷たくなった身体を抱いた。
「どうだ? 温かいだろう? 目が覚めてこないのか」
志津子は返事をしない。体の反応も全くない。
「困ったなあ。生き返ってくれよ」
何度か言葉を変えて話しかけてみるが、答えは返ってこない。
電話がなった。
「なんだ、電話か、母さん、電話だけど」
志津子は動かない。
「どうしたんだ。わたしが出るのか、しょうがないなあ。母さん、わたしは電話が嫌いなんだけどなあ」
正二郎は、しぶしぶ起き上がり、電話のある居間に向かった。
志津子は、一年ほど前に心筋梗塞の発作で倒れたことがあった。手術をしたりして一ヶ月あまり入院したが、幸い予後は良好だった。ここのところ発病以前と変わりのない生活を送っていた。しかし、血圧は依然高めで、心臓に爆弾を抱えていることには変わりはなかった。
由美は、毎朝、義母の志津子に電話を入れてご機嫌を伺う。子どもを学校に送り出し、洗濯と台所の片付けを済ませた後だから、おおむね九時過ぎになる。買い物や通院などの用がないかをたずね、もし用事があれば車で迎えにいって一緒にでかけることにしていた。
「どうしたのかしら」
由美は首をひねった。ふだんは呼び出してだいたい三回以内に出るからだ。トイレにでも入っているのかもしれない。もう一度かけ直そうかと思ったところに、相手が出た。珍しく義父の声だ。
「はいはい」
「もしもし、由美ですが」
「はい、遠山ですが」
「お義父さん、お早うございます。あの、お義母さんはいらっしゃいます?」
「おかあさんですか? あの、どちらのおかあさんですか?」
「いやですわ。おばあちゃんですよ」
「おかあさんと違うのですか。おばあちゃんですか?」
「そうです。真菜のおばあちゃんで、正樹さんのお母さん」
「そんな人、いませんよ」
「じゃあ、お義父さんの奥さんは?」
「いますよ。志津子です」
「その志津子さんですよ。代わってもらえますか?」
「はいはい、ちょっと待って下さい」
電話の向こうでは、子機を持ったまま、家の中を探している様子である。由美は、最近の義父の様子が奇怪しいのに気づいていた。それがますますひどくなっている気がする。
胸騒ぎがした。
「いませんねえ。トイレも風呂場もいませんね。どこへ行ったのでしょうか。もっと探して見ますか?」
「ええ、寝室はどうですか?」
「寝室ねえ、まだ寝てますかねえ」
義父は寝室へ向かっている様子だった。ややあって、喜々とした声が返ってきた。
「いました、いました。よかったです。いましたよ」
「ちょっと代わっていただけますか?」
「あの、代われないと思うのですが、ちょっと待って下さい……」
正二郎は、子機を持ったまま、妻の志津子の側で見下ろした。肩を揺すってみる。だが、むろん起き上がろうとしない。
「やはり駄目です。死んでるようですね」
「えっ、死んで……」
「ええ、ええ、死んでるんです、たぶん。わたし、まだ、ご飯を食べてないもんで、お腹が減って。あなた、ごはんはどうしたら食べられますか?」
「ほんとに、お母さんは死んでるんですね。お医者さんに電話しましたか?」
「死んでるのに、お医者さんは変でしょう。あの、納豆もかけて食べたいのですが、どうしたものでしょう?」
「わかりました、正樹さんに連絡して、私もすぐにそちらへ行きますから」
由美の夫の正樹は、都内の高校で生物を教えていた。一時間目の授業を終え、生物準備室へ戻ってみると、机の上の携帯電話の液晶画面が点滅していた。
由美からのメールだ。
『お義父さんたちの様子がおかしい。すぐに電話をください』
正樹は、電話を入れた。由美は、すぐに出た。
「あっ、今運転中なの。すぐに横に寄せるから」
車をあわてて停めようとしている様子が、受話器の向こうから伝わってくる。
「……お義母さんが、死んだって、お義父さんは言ってるのよ」
「えっ、親父の様子も、変なんだろう?」
「ええ、かなりぼけてるみたいで。わたし、今向かっているところだけど、あなたも帰ることはできないかしら?」
「なんとかする。すぐに出るにしても、ここからだと一時間はかかってしまうから、とりあえず親父を見ててくれ」
「わかった」
「それに、おふくろのかかりつけの、中村先生だっけ、あの先生にも電話しておいてくれ。おれは教頭に頼んで何とかすぐに帰れるようにするから、何かあったら携帯に頼むよ」
「いいわ。急いでよ。真菜は今日、午前中で学校から帰って来るから」
正樹は、由美からの電話を切ると、正二郎に折り返して電話を入れた。
「お父さん、由美から聞いたけど、お母さんが死んでるって、本当ですか?」
「ああ、死んでるようだ。どうしたものかね」「医者には電話をしてないのだね」
「死んでても治してくれるのかね。医者に電話しても、助からないと思うし、わたしは電話が嫌いなんだよ」
正樹は、父親の様子が何か奇怪しいとは感じていた。
十日ほど前に訪ねた時も、父親はとんちんかんだった。食事の時間や料理の内容など、何度も同じことを訊ねたりするし、以前は夢中になっていた釣りの話に、全く興味を見せない。それに、ぼうっとテレビを見ているだけのことが多く、口数が極端に減っていた。ただ、アルツハイマー症のように、人の名前を忘れてしまったりするようなことはなかったし、ただの老人性の記憶力の低下だと思っていた。
母親は、そんな父をしっかりフォローしていた。母親のいいなりの子供のようだった。
「わかった、中村先生には、由美の方から連絡してもらうから。それにぼくもすぐにいくよ」
正二郎は、空腹だった。それを癒すことがさしあたっての急務であった。
炊飯器の蓋を取ってみた。中にはご飯があった。
「おお、ごはん……」
へらがなかった。お茶碗は、炊飯器の横の食器棚にあるのが見えた。取り出して、茶碗を炊飯器の中に突っ込み、ご飯をすくった。茶碗のふちに付いたご飯が、ぼろぼろと落ちたが、正二郎はかまわずにテーブルの上に置いた。冷蔵庫には、白菜の漬物が小鉢にラップにくるまれていた。正二郎の大好物である。鍋には、大根の煮つけもあった。
ご飯を食べる時、必ずテレビをつける。ワイドショーをやっていた。正二郎は、食い入るように見ながら、ご飯を口に運んだ。
食べおわってお茶を飲みたくなった。湯はいつものポットに沸いていた。急須も、ポットのそばにあった。しかし、お茶の葉が見つからなかった。自分で葉を入れたことはない。どこにあるのか、さっぱり見当がつかない。キッチンの下の引き戸を開いて見た。引き出しも全部開き、中を覗いてみた。だが、茶の葉は見つからなかった。
由美は、正二郎の家に着くと、玄関のチャイムをならした。返事はなかった。ドアのノブを回したが、鍵がかかったままだった。いつも持っている合鍵でドアを開けた。
中へ入った。ダイニングの方でテレビの音が聞こえる。
ドアを開けた。義父は食卓に座ってご飯を口に運んでいるところだった。その目はテレビに釘付けになっていた。
「お父さん!」
由美は絶句した。姑が死んでいるにしては、あまりにものどかな表情である。
「ああ、いらっしゃい」
「お母さんは?」
「ああ、どうしたんでしょう。志津子、お客さんですよ」
正二郎は大きな声で呼んだが、返事はなかった。
「なんてお義父さんなの」
由美は、リビングの隣の襖を開けた。
敷いたままの布団には、静子が横たわっていた。首の辺りまで、ちゃんと布団も掛けられている。
「お義母さん……」
その表情をみれば、死んでいるのは明らかだった。
由美は気が動転していた。すぐに何をすべきかが分からなかった。死体の顔に、何かを被せるべきなのか、そのままでいいのかが分からない。それに、妻の死に感情的な反応をまるで示さない正二郎を、どうすべきかもわからない。
正二郎は、相変わらず食卓に座ってテレビを見ている。
自分の妻が死んだというのに、なんて冷たいおじいさん。
由美の姿を見ると、正二郎はまた聞いた。
「お茶を飲みたいのですが、お茶の葉はどこにあるんでしょう……」
「何を言ってるの、お母さんがこんなになってるのに」
由美は裏返った声を張り上げた。
受話器を取り、正樹の携帯電話の番号をプッシュする。
数回の呼び出し音で正樹が出た。
「わたしよ、大変、いまどこ?」
「電車の中だ。あと三十分はかかりそうだ」
「お母さん、やはり駄目よ。おとうさんは様子が奇怪しいし、早く来てよ」
泣き声になっている。
「急ごうにも、電車だ。大きな声で話せないよ。中村先生はまだかい」
「そろそろだと思うけど」
「親父のことも、まあ見てやってくれよ」
「うん、見るけど、ほんとに早く来てね」
由美は電話を切って台所へ向かい、義父の欲しがっているお茶の葉を探した。鰹節や煮干しなどのパックの横に、茶筒があった。中にはほうじ茶が入っていた。その葉を急須に入れていた時、チャイムが鳴った。由美は走って、インターホンに出た。
「はい、どなた様ですか?」
「中村です」
由美は、ほっとした。
玄関まで小走りに向かって、ドアを開けた。髪の薄い中村医師が、往診鞄を持って立っていた。
「お待ちしてました」
「奥さんはどちらで」
「ええ」
中村医師は、案内されるまでもなく靴を脱いだ。由美は、寝室へ案内した。
志津子は、頬が土色に変わり横たわっていた。医師でなくても死体になっていることはわかる。
「もう、私の出番じゃありませんね。たぶん心筋梗塞だと思いますが、どういう状況で亡くなられたのですかね」
「よくわからないのです。義父が少し奇怪しくなっているもので、事情が聞けなくて」
「ああ、そのようですね。で、警察には、もう連絡されましたか?」
「いいえ、こんな時、警察に、連絡するんですか?」
「いちおう変死になるんでね。まあ、病死であることは明らかだと思いますが、あとあとのこともありますし。それじゃ、私が電話しましょう」
中村医師は、手慣れた様子で携帯電話で警察に連絡した。そして、事情を説明した。
続く
この記事を目にし、以前書いていた小説が頭をよぎった。発表していない小説。おいらにしては、ちょっと軟弱なストーリー。
で、この記事のこころの背景を思いながら、アップさせていただく。ブログにしては長めだけど、気が向いたら最後までどうぞ。
老いの風景 前編
カーテンの隙間から差し込む光の帯が、正二郎の目の上にかかった。正二郎は、それをうるさそうに手で払いながら、目を開いた。
二、三度まばたきをして、顔を横に逸らす。
「ああ……」
ため息とも叫びともつかない声をひとつ発した。
体を硬くして耳をそばだてる。
『起きましたか、お父さん』
と、妻の志津子の声が、台所の方から聞こえてくるはずだった。
しかし声はない。道路を行き交う車の音や、裏の公園の方からヒヨドリの引き裂くような鳴き声が聞こえるだけだ。
「ああーっ」
もう一度叫んだ。
耳を澄ました。やはりどこからも反応はなかった。
顔を起こし、横に敷かれたままの布団に目をやった。志津子の姿はなかった。
首をもたげて足元の先に視線を向けた。襖は閉じられたままだった。
襖の向こうはダイニングキッチン。志津子が台所にいるのなら、せわしなく動きまわる足音や、食器の触れ合う音が聞こえてきてもいいはずだ。しかし、人の気配はない。
正二郎は、布団の上に上体を起こした。
「お母さん、起きてるのかい」
呼びかけて、また耳を澄ましてみる。
二十秒ほど待ったが返事はなかった。
「なあ、ばあさんや。志津子……」
別の呼び方で声をかけてみる。しかし、静まり返ったままだった。
立ち上がった。布団を踏みつけて進み、襖に手をかけた。居間にいる相手を驚かそうとするかのように一気に開けた。力を込めて。
ダイニングには、だれもいなかった。テレビは点いていない。キッチンでお湯も沸いてはいない。
正二郎は、いつも腰をおろすソファーに目を向けた。置かれているはずの朝刊が見当たらない。
食卓のいすに腰を下ろした。この時間はいつも、好物の納豆と味噌汁の椀が食卓に用意されていた。ガス台には鍋があって、正二郎が起きると、志津子は暖め直し、熱い味噌汁をよそってくれる。だが、食卓には何も用意されておらず、ガス台に鍋もなかった。
「母さんや、どこだね。隠れているのかね」
正二郎は、また呼んだ。
壁の時計に目をやった。八時半を回っている。ふだんの日は七時に志津子に起こされる。だが、今日は起こしてはくれなかった。
正二郎は、食卓の椅子に座った。
志津子は、何も言わずに出ていくわけがない。買い物に出かける時だけでなく、ごみを出す時も、隣に回覧板を届けに行く時も、必ず声をかける。
正二郎は、病院の待合室で待つように、ただじっと待った。
時間は過ぎていく。しかし志津子はなかなか姿を現さない。
十五分ほど待ち続けていると、尿意を催してきた。いったん感じると、膀胱に神経が集中し、すぐにこらえられなくなる。
立ち上がり、廊下に出た。トイレのドアが半開きになっていた。正二郎はノブに手をかけ、ドアを開いた。
「おおーっ」
その瞬間、正二郎は、調子っぱずれの声を上げた。
志津子は、便器を抱え込むようにして倒れていたのだ。
「なんだ、こんなところにいたのか。どうしたんだ」
正二郎はしゃがんで、志津子の肩を揺すった。
「おい、起きろ。布団で寝ろよ。風邪をひくぞ」
だが、反応はなかった。頬を触ってみると冷たい。半ば開いた目は、うつろに中空を見つめ、顔は土色に変わっていた。小さく開いた口の端からは、嘔吐物が糸を引いている。
「おい、身体が冷たくなってるぞ。死んでるのか? 困ったなあ。まだおれ、朝めし食ってないんだけどなあ」
次に何をすればいいのか、正二郎の頭には浮かばなかった。しかし、便所で倒れたままではまずい、ということは理解できた。目を見開いたままなのも見苦しい。
正二郎は、志津子の目を閉じてやり、トイレットペーパーを引っ張り出して口元の汚れを拭ってやった。
「どうしよう。困ったなあ。布団へ連れて行くか?」
正二郎は、志津子の両脇に腕を通して抱えた。持ち上げようとするがなかなか力が入らない。それでも渾身の力を込め、引きずりながら布団まで運んだ。
志津子の布団は、まだ敷きっぱなしだった。その上に寝かせ、掛け布団をかぶせてやった。
息が切れた。
ひと息つくと、尿意を催した。用を足していなかったことに気づき、もう一度トイレにむかった。
尿はしっかり出た。手をよく洗い、居間に戻った。
空腹感がよみがえってきた。何かを口にしたい衝動にかられる。
しかし、テーブルには、何も用意ができていない。
「おい、ばあさん、どこだ。おなか減ったよ」
台所を見回してもいない。
洗濯をしているのかもしれない、と思い、洗面所の洗濯機置き場へ行ってみた。
「志津子、どこだ?」
洗濯機のそばに姿はなかった。洗濯機の蓋を開けて、中を覗いてみた。下着類が何枚か放り込まれていただけだった。
浴室に入り、浴槽の蓋をとって確かめたが、やはりいない。玄関にも見当たらなかった。首を傾げながら、居間の隣の寝室をあけた。敷かれたままの布団に横たわった志津子がいた。
「おお、なんだ、まだ寝ていたのか。なあ、母さん、起きてくれよ。腹、減ったぞ」
正二郎は、妻を起こそうとして布団の脇に座った。その時、顔の異変に気づいた。
「おい、死んでるのか? 困ったなあ、生き返りなよ」
肩を揺すってみたが、反応はない。
「こんなに冷たくなって、寒くないのか」
正二郎は、妻のすぐ脇に身を横たえた。冷たくなった身体を抱いた。
「どうだ? 温かいだろう? 目が覚めてこないのか」
志津子は返事をしない。体の反応も全くない。
「困ったなあ。生き返ってくれよ」
何度か言葉を変えて話しかけてみるが、答えは返ってこない。
電話がなった。
「なんだ、電話か、母さん、電話だけど」
志津子は動かない。
「どうしたんだ。わたしが出るのか、しょうがないなあ。母さん、わたしは電話が嫌いなんだけどなあ」
正二郎は、しぶしぶ起き上がり、電話のある居間に向かった。
志津子は、一年ほど前に心筋梗塞の発作で倒れたことがあった。手術をしたりして一ヶ月あまり入院したが、幸い予後は良好だった。ここのところ発病以前と変わりのない生活を送っていた。しかし、血圧は依然高めで、心臓に爆弾を抱えていることには変わりはなかった。
由美は、毎朝、義母の志津子に電話を入れてご機嫌を伺う。子どもを学校に送り出し、洗濯と台所の片付けを済ませた後だから、おおむね九時過ぎになる。買い物や通院などの用がないかをたずね、もし用事があれば車で迎えにいって一緒にでかけることにしていた。
「どうしたのかしら」
由美は首をひねった。ふだんは呼び出してだいたい三回以内に出るからだ。トイレにでも入っているのかもしれない。もう一度かけ直そうかと思ったところに、相手が出た。珍しく義父の声だ。
「はいはい」
「もしもし、由美ですが」
「はい、遠山ですが」
「お義父さん、お早うございます。あの、お義母さんはいらっしゃいます?」
「おかあさんですか? あの、どちらのおかあさんですか?」
「いやですわ。おばあちゃんですよ」
「おかあさんと違うのですか。おばあちゃんですか?」
「そうです。真菜のおばあちゃんで、正樹さんのお母さん」
「そんな人、いませんよ」
「じゃあ、お義父さんの奥さんは?」
「いますよ。志津子です」
「その志津子さんですよ。代わってもらえますか?」
「はいはい、ちょっと待って下さい」
電話の向こうでは、子機を持ったまま、家の中を探している様子である。由美は、最近の義父の様子が奇怪しいのに気づいていた。それがますますひどくなっている気がする。
胸騒ぎがした。
「いませんねえ。トイレも風呂場もいませんね。どこへ行ったのでしょうか。もっと探して見ますか?」
「ええ、寝室はどうですか?」
「寝室ねえ、まだ寝てますかねえ」
義父は寝室へ向かっている様子だった。ややあって、喜々とした声が返ってきた。
「いました、いました。よかったです。いましたよ」
「ちょっと代わっていただけますか?」
「あの、代われないと思うのですが、ちょっと待って下さい……」
正二郎は、子機を持ったまま、妻の志津子の側で見下ろした。肩を揺すってみる。だが、むろん起き上がろうとしない。
「やはり駄目です。死んでるようですね」
「えっ、死んで……」
「ええ、ええ、死んでるんです、たぶん。わたし、まだ、ご飯を食べてないもんで、お腹が減って。あなた、ごはんはどうしたら食べられますか?」
「ほんとに、お母さんは死んでるんですね。お医者さんに電話しましたか?」
「死んでるのに、お医者さんは変でしょう。あの、納豆もかけて食べたいのですが、どうしたものでしょう?」
「わかりました、正樹さんに連絡して、私もすぐにそちらへ行きますから」
由美の夫の正樹は、都内の高校で生物を教えていた。一時間目の授業を終え、生物準備室へ戻ってみると、机の上の携帯電話の液晶画面が点滅していた。
由美からのメールだ。
『お義父さんたちの様子がおかしい。すぐに電話をください』
正樹は、電話を入れた。由美は、すぐに出た。
「あっ、今運転中なの。すぐに横に寄せるから」
車をあわてて停めようとしている様子が、受話器の向こうから伝わってくる。
「……お義母さんが、死んだって、お義父さんは言ってるのよ」
「えっ、親父の様子も、変なんだろう?」
「ええ、かなりぼけてるみたいで。わたし、今向かっているところだけど、あなたも帰ることはできないかしら?」
「なんとかする。すぐに出るにしても、ここからだと一時間はかかってしまうから、とりあえず親父を見ててくれ」
「わかった」
「それに、おふくろのかかりつけの、中村先生だっけ、あの先生にも電話しておいてくれ。おれは教頭に頼んで何とかすぐに帰れるようにするから、何かあったら携帯に頼むよ」
「いいわ。急いでよ。真菜は今日、午前中で学校から帰って来るから」
正樹は、由美からの電話を切ると、正二郎に折り返して電話を入れた。
「お父さん、由美から聞いたけど、お母さんが死んでるって、本当ですか?」
「ああ、死んでるようだ。どうしたものかね」「医者には電話をしてないのだね」
「死んでても治してくれるのかね。医者に電話しても、助からないと思うし、わたしは電話が嫌いなんだよ」
正樹は、父親の様子が何か奇怪しいとは感じていた。
十日ほど前に訪ねた時も、父親はとんちんかんだった。食事の時間や料理の内容など、何度も同じことを訊ねたりするし、以前は夢中になっていた釣りの話に、全く興味を見せない。それに、ぼうっとテレビを見ているだけのことが多く、口数が極端に減っていた。ただ、アルツハイマー症のように、人の名前を忘れてしまったりするようなことはなかったし、ただの老人性の記憶力の低下だと思っていた。
母親は、そんな父をしっかりフォローしていた。母親のいいなりの子供のようだった。
「わかった、中村先生には、由美の方から連絡してもらうから。それにぼくもすぐにいくよ」
正二郎は、空腹だった。それを癒すことがさしあたっての急務であった。
炊飯器の蓋を取ってみた。中にはご飯があった。
「おお、ごはん……」
へらがなかった。お茶碗は、炊飯器の横の食器棚にあるのが見えた。取り出して、茶碗を炊飯器の中に突っ込み、ご飯をすくった。茶碗のふちに付いたご飯が、ぼろぼろと落ちたが、正二郎はかまわずにテーブルの上に置いた。冷蔵庫には、白菜の漬物が小鉢にラップにくるまれていた。正二郎の大好物である。鍋には、大根の煮つけもあった。
ご飯を食べる時、必ずテレビをつける。ワイドショーをやっていた。正二郎は、食い入るように見ながら、ご飯を口に運んだ。
食べおわってお茶を飲みたくなった。湯はいつものポットに沸いていた。急須も、ポットのそばにあった。しかし、お茶の葉が見つからなかった。自分で葉を入れたことはない。どこにあるのか、さっぱり見当がつかない。キッチンの下の引き戸を開いて見た。引き出しも全部開き、中を覗いてみた。だが、茶の葉は見つからなかった。
由美は、正二郎の家に着くと、玄関のチャイムをならした。返事はなかった。ドアのノブを回したが、鍵がかかったままだった。いつも持っている合鍵でドアを開けた。
中へ入った。ダイニングの方でテレビの音が聞こえる。
ドアを開けた。義父は食卓に座ってご飯を口に運んでいるところだった。その目はテレビに釘付けになっていた。
「お父さん!」
由美は絶句した。姑が死んでいるにしては、あまりにものどかな表情である。
「ああ、いらっしゃい」
「お母さんは?」
「ああ、どうしたんでしょう。志津子、お客さんですよ」
正二郎は大きな声で呼んだが、返事はなかった。
「なんてお義父さんなの」
由美は、リビングの隣の襖を開けた。
敷いたままの布団には、静子が横たわっていた。首の辺りまで、ちゃんと布団も掛けられている。
「お義母さん……」
その表情をみれば、死んでいるのは明らかだった。
由美は気が動転していた。すぐに何をすべきかが分からなかった。死体の顔に、何かを被せるべきなのか、そのままでいいのかが分からない。それに、妻の死に感情的な反応をまるで示さない正二郎を、どうすべきかもわからない。
正二郎は、相変わらず食卓に座ってテレビを見ている。
自分の妻が死んだというのに、なんて冷たいおじいさん。
由美の姿を見ると、正二郎はまた聞いた。
「お茶を飲みたいのですが、お茶の葉はどこにあるんでしょう……」
「何を言ってるの、お母さんがこんなになってるのに」
由美は裏返った声を張り上げた。
受話器を取り、正樹の携帯電話の番号をプッシュする。
数回の呼び出し音で正樹が出た。
「わたしよ、大変、いまどこ?」
「電車の中だ。あと三十分はかかりそうだ」
「お母さん、やはり駄目よ。おとうさんは様子が奇怪しいし、早く来てよ」
泣き声になっている。
「急ごうにも、電車だ。大きな声で話せないよ。中村先生はまだかい」
「そろそろだと思うけど」
「親父のことも、まあ見てやってくれよ」
「うん、見るけど、ほんとに早く来てね」
由美は電話を切って台所へ向かい、義父の欲しがっているお茶の葉を探した。鰹節や煮干しなどのパックの横に、茶筒があった。中にはほうじ茶が入っていた。その葉を急須に入れていた時、チャイムが鳴った。由美は走って、インターホンに出た。
「はい、どなた様ですか?」
「中村です」
由美は、ほっとした。
玄関まで小走りに向かって、ドアを開けた。髪の薄い中村医師が、往診鞄を持って立っていた。
「お待ちしてました」
「奥さんはどちらで」
「ええ」
中村医師は、案内されるまでもなく靴を脱いだ。由美は、寝室へ案内した。
志津子は、頬が土色に変わり横たわっていた。医師でなくても死体になっていることはわかる。
「もう、私の出番じゃありませんね。たぶん心筋梗塞だと思いますが、どういう状況で亡くなられたのですかね」
「よくわからないのです。義父が少し奇怪しくなっているもので、事情が聞けなくて」
「ああ、そのようですね。で、警察には、もう連絡されましたか?」
「いいえ、こんな時、警察に、連絡するんですか?」
「いちおう変死になるんでね。まあ、病死であることは明らかだと思いますが、あとあとのこともありますし。それじゃ、私が電話しましょう」
中村医師は、手慣れた様子で携帯電話で警察に連絡した。そして、事情を説明した。
続く