「今、あなたは決して幸福ではない。どう、当たっているでしょう」
女は人のこころが読めるかのように言う。が、そういわれればそうでもあるようで、言われなきゃそうでもないようで。
「わからない」
そう答えるしかないような気がした。それに、僕には、幸福か不幸か考えるよりも、出発することが差し迫った課題。
「あなた、自分が幸福かどうかわからないの?」
「あなたは分かりますか?」
「ええ、そりゃ分かります」
「どちらですか」
「幸福です。だから、そのおすそ分けをしようと考えたのです」
なんと言う自信。その自信のおすそ分けなら欲しいかも。しかし幸福の押し売りはどうも。おせっかいというもの、のような気がする。
「僕は幸福なんていただいたら不幸になってしまいそうだな」
「どうしてなの?」
「そんな気がするのです」
「それじゃ理由にならないわ」
「じゃあ、理由はないのです」
他人は何でも理由を聞きたがる。お寝小したらその理由。学校休んだらその理由。食事を残したらその理由。で、考えてみるが、せいぜい理由にならない理由しか思いつかず、馬鹿にされたり叱られたりの過去。
「理由がないなんておかしいわ」
「そうですか、じゃあ、僕はおかしいんでしょう。よく言われましたよ。友だちからも母親からも。お前はおかしな奴だと」
「ほんとにそう思うの?」
「分からない」
「もう、こんな話はやめましょう。そうだ、リンゴの歌うたいましょうか」
「けっこうです」
「歌ってもけっこうということ? それとも歌そのものがけっこうと言うこと?」
「どちらでもけっこうです」
「じゃあ、歌うわ。聞いてね。
むかしむかし リンゴが泣いた
こころが寒いと 頬ふるわせて
高いこずえの てっぺんで
涙ぽろぽろ リンゴが泣いた
どう、哀しい歌でしょう」
「リンゴは孤独だったんだね」
「でもリンゴより孤独なのが、イワシ雲よ」
「イワシ雲にも歌があるの」
「歌はないわ。ただ空に浮かんでいるだけ。そしてやがて消えていくの。消えればみんなが忘れてしまう。ただの空の旅人」
旅、という言葉で、また気付く。僕は出発をしなければならない。なのに、まだ玄関先でこの体たらく。
「そうだ、僕は出発しまきゃ」
「まだ話はあるのよ」
「あとで聞きます」
「冷たいのね。そうだ、記念にプレゼントをあげるわ」
女は手に持った赤いバッグから、緑色の紙箱を出した。
大きさは10センチ四方程度。
「これは?」
「中に何が入っているか分かる?」
「ええ、まあ分かります」
「えっ? ほんとに分かるの?」
「幸せがはいっているのでしょう」
「まあ、なんてこと。よくわかったわね」
「あてずっぽうです」
「天才的あてずっぽうですね。中には、七色の幸せが詰まっているのですよ。ほんとなら、この幸せ、5000円で販売しているんだけど、あなたには無料でいいわ。プレゼントよ」
「でも、いりません。あっても、このバッグに入りそうにないし」
「無欲なのね。あなたの気持ち、よくわかる。幸せの押し売りが気に入らないのじゃないかしら」
「それもあるけど、出発したいので」
「あっ、そうそう、いいこと思いついたわ。一緒に出かけましょうか」
「一緒に?」
「旅は道連れよ。私、隣町の小林さんのお宅に伺おうと思っていたところなの。小林さんは、手品が上手なの。そうだわ、一緒に行けば、トランプの手品を見せてくれるかも知れないわ。ほんとにお上手でびっくりするんだから」
「手品は苦手なんです。それに、女の人と一緒だなんて」
「わかったわ。そこまでおっしゃるなら。じゃあ、私だけで小林さんの家に行ってくる。記念にこの箱置いていくから。それに名刺も置いていく。何かあったらご連絡してね、すぐに奉仕にお邪魔しますから」
「わかりました。お気をつけて」
女は、急に開き直ったように会話を打ち切り、箱を置いて出て行った。隣町の小林さんの家で、また奉仕活動をするのか。軽快な靴音が遠ざかっていく。
名刺を見る。『鈴木花子』という名前のようだ。電話とEメールアドレスはあるが住所がかかれていない。
箱と名刺を下駄箱の上に置く。
手に黒いバッグを持つ。
さあ、今度こそ出発だ。