ブログ小説 過去の鳥

淡々と進む時間は、真っ青な心を飲み込む

出発 6

2006-10-31 07:28:45 | 小説

「今、あなたは決して幸福ではない。どう、当たっているでしょう」
 女は人のこころが読めるかのように言う。が、そういわれればそうでもあるようで、言われなきゃそうでもないようで。
「わからない」
 そう答えるしかないような気がした。それに、僕には、幸福か不幸か考えるよりも、出発することが差し迫った課題。
「あなた、自分が幸福かどうかわからないの?」
「あなたは分かりますか?」
「ええ、そりゃ分かります」
「どちらですか」
「幸福です。だから、そのおすそ分けをしようと考えたのです」
 なんと言う自信。その自信のおすそ分けなら欲しいかも。しかし幸福の押し売りはどうも。おせっかいというもの、のような気がする。
「僕は幸福なんていただいたら不幸になってしまいそうだな」
「どうしてなの?」
「そんな気がするのです」
「それじゃ理由にならないわ」
「じゃあ、理由はないのです」
 他人は何でも理由を聞きたがる。お寝小したらその理由。学校休んだらその理由。食事を残したらその理由。で、考えてみるが、せいぜい理由にならない理由しか思いつかず、馬鹿にされたり叱られたりの過去。
「理由がないなんておかしいわ」
「そうですか、じゃあ、僕はおかしいんでしょう。よく言われましたよ。友だちからも母親からも。お前はおかしな奴だと」
「ほんとにそう思うの?」
「分からない」
「もう、こんな話はやめましょう。そうだ、リンゴの歌うたいましょうか」
「けっこうです」
「歌ってもけっこうということ? それとも歌そのものがけっこうと言うこと?」
「どちらでもけっこうです」
「じゃあ、歌うわ。聞いてね。
  むかしむかし リンゴが泣いた
  こころが寒いと 頬ふるわせて
  高いこずえの てっぺんで
  涙ぽろぽろ リンゴが泣いた
 どう、哀しい歌でしょう」
「リンゴは孤独だったんだね」
「でもリンゴより孤独なのが、イワシ雲よ」
「イワシ雲にも歌があるの」
「歌はないわ。ただ空に浮かんでいるだけ。そしてやがて消えていくの。消えればみんなが忘れてしまう。ただの空の旅人」
 旅、という言葉で、また気付く。僕は出発をしなければならない。なのに、まだ玄関先でこの体たらく。
「そうだ、僕は出発しまきゃ」
「まだ話はあるのよ」
「あとで聞きます」
「冷たいのね。そうだ、記念にプレゼントをあげるわ」
 女は手に持った赤いバッグから、緑色の紙箱を出した。
 大きさは10センチ四方程度。
「これは?」
「中に何が入っているか分かる?」
「ええ、まあ分かります」
「えっ? ほんとに分かるの?」
「幸せがはいっているのでしょう」
「まあ、なんてこと。よくわかったわね」
「あてずっぽうです」
「天才的あてずっぽうですね。中には、七色の幸せが詰まっているのですよ。ほんとなら、この幸せ、5000円で販売しているんだけど、あなたには無料でいいわ。プレゼントよ」
「でも、いりません。あっても、このバッグに入りそうにないし」
「無欲なのね。あなたの気持ち、よくわかる。幸せの押し売りが気に入らないのじゃないかしら」
「それもあるけど、出発したいので」
「あっ、そうそう、いいこと思いついたわ。一緒に出かけましょうか」
「一緒に?」
「旅は道連れよ。私、隣町の小林さんのお宅に伺おうと思っていたところなの。小林さんは、手品が上手なの。そうだわ、一緒に行けば、トランプの手品を見せてくれるかも知れないわ。ほんとにお上手でびっくりするんだから」
「手品は苦手なんです。それに、女の人と一緒だなんて」
「わかったわ。そこまでおっしゃるなら。じゃあ、私だけで小林さんの家に行ってくる。記念にこの箱置いていくから。それに名刺も置いていく。何かあったらご連絡してね、すぐに奉仕にお邪魔しますから」
「わかりました。お気をつけて」
 女は、急に開き直ったように会話を打ち切り、箱を置いて出て行った。隣町の小林さんの家で、また奉仕活動をするのか。軽快な靴音が遠ざかっていく。
 名刺を見る。『鈴木花子』という名前のようだ。電話とEメールアドレスはあるが住所がかかれていない。
 箱と名刺を下駄箱の上に置く。
 手に黒いバッグを持つ。
 さあ、今度こそ出発だ。

出発 5

2006-10-30 04:19:16 | 小説
 左手にはバッグを持つ。着替えの詰まった黒いバッグ。
 けっこう重い。運動不足のためか、体力が低下している。それは感じる。まだ、僕は十分に若いはず。老人の域はほど遠いというのに、すでに老化が始まっているのか。
 ポケットにはハンカチと財布。
 腹は満腹だ。しばらく食事の必要はない、と思う。
 完璧だ。これでゆるぎない確信を持って出発できる。
 ドアのノブに手をかける。冷たい金属の感触。氷、ほどではないが、冷たい。このノブを回せば外の世界に通じる。

 外では。
 人の気配がする。
 誰かがいる感じがする。いったい何者。と、チャイムが鳴った。
 扉の覗き穴に目を近づけた。外には女が立っていた。知らない女だ。年齢は、よくわからない。30歳か40歳。50歳には届いていないだろう。若くはないが、年寄りではない。美人ではないがブスでもない。ごく普通。ありふれた女。片手には赤いバッグ。いったい何の用事だ。
「どちらさまですか?」
 ドアの内側から外に声をかけてみた。
「ホウシで参ったものです」
「ホウシ、ですか」
「ホウシ、です」
「なんですか、ホウシ、とは」
「ボランティア、の奉仕です」
「奉仕活動の奉仕ですね?」
「よくご存知ですね。ドアを開けていただいてよろしいでしょうか」
「どうぞ。カギはかかっていません」
「では」
 ノブが外側から回される。その直後、ドアが開き、女の軽い驚きの声。
「わっ」
「どうしました?」
「あまりに近い場所に、あなたの顔があったもので」
「邪魔ですか?」
「いえ、いいです。あら、かばんを持って、お出かけの予定でした?」
「ええ、出発するつもりでした」
「じゃあ、ご迷惑でしたかしら」
「そんなことないです。急ぎませんので」
「あのう、中に入ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「でも、そこに立ってらっしゃると入れませんわ」
「じゃあ」
 僕は、また後ずさり。
「あら、靴を脱がないのですか」
「ええ、もう出かけますし、脱ぐのは面倒で」
「どちらへお出かけのご予定ですか?」
 一瞬答えに詰まった。出発は決めていた。が、目的地を決めていなかった。そうなのだ。出発には目的地がなければならない。たぶん。
 もしかしたら決めていたのを忘れたか。最近は忘れっぽくなっている。
「答えなくちゃいけないですか」
「いえ、別に、ご無理には」
「じゃあ、出発します」
「どちらへ」
「あっちです」
 目の前を指差した。
「えっ、私はどうすればいいのです? もう、玄関に入ってきているのですが」
「あなたのことなんか知りませんよ。勝手にしてください」
「でも、私は奉仕のためにお邪魔しているのですよ」
「僕は出かけようとしているのです。問題ですか?」
「わかりました、お急ぎなのですね。じゃあ、手短にお話しましょう。あなたは今幸せですか」
「なんです、やぶから棒に。そんなことを聞いてどうするのです」
「不幸な方は幸せに、幸せな方はもっと幸せになるようにご奉仕する、そのために、お邪魔しているのです。で、あなたはどちらなのかとお聞きしたのですが」
「どちらだと思われますか?」
 そうなのだ。幸せか不幸か。あまり考えたことがない。考えたことがあったかもしれないが、忘れてしまった。いったいどっちなのか。
 幸せ。
 なんだろう。たぶん、昔の人たちも考えたこと。結論が出たかどうかはわからない。ともかく僕には考えの及ばない世界。
 が、下手な考え休むに似たり。こんなことでぐずぐずしていて、果たして出発できるのだろうか。 (つづく)

出発 4

2006-10-29 06:26:47 | 小説

 と、また手が止まる。忘れていた。空腹だったことを。食事を摂ることを。
 出発を決めた当初、空腹であることに気付いていた。食べておくつもりだった。それが準備の途中で心そこにあらず。肝心なことを失念するのはいつものこととは言え、こんな大切なときに情けない。先が思いやられる。
 むろん、外食という方法もある。街に出れば食堂に不自由しない。駅前には、たくさんの食堂がある。牛丼屋も立ち食い蕎麦屋も。中華料理店もフランス料理店も。
 が、出発していきなり食堂に駆け込む、というのも変だ。食堂には、妙な料理しかない。変な煮こみ方、味のつけ方、盛り付けの仕方。素材を大切にした食品がないのだ。
 一方の我が家。
 冷蔵庫には、大根、キャベツ、竹輪、牛乳などが常備品。そう、大根とキャベツ。ヘルシーな野菜。その朝食を摂ってから出発だ。

 もういい、靴のままで。脱いだり履いたりするのは面倒。
 バッグは玄関に置いたまま、冷蔵庫の前へ。中を開ける。いつものように大根が入っている。ただし半分。上半分をすでに食べてしまったため、下半分だけ。
 青クビ大根だった。上がなくなっているから断言は出来ないが、形状から見てそうだ。最近はほとんどが青クビ。
 大根は好きな食べ物。白くて健康的。キャベツもいいが、大根はもっといい。いかにも野菜という感じ。
 ひと口に野菜と言ってもいろいろある。イモ類は野菜とも主食ともつかない曖昧さがあって好みでない。トマトも曖昧だ。野菜とも果実ともつかない。それに比べ、大根、キャベツは毅然とした野菜。八百屋の店頭でも、はっきりと自己主張している。
 まあ、ニンジンも野菜的だ。ニンジンはセリ科の植物。同じセリ科でも、パセリになると微妙である。セロリも。
 カリフラワーは野菜というにはなんとなく加工食品っぽい。そうだ、モヤシも野菜とは言いにくい。貝割れ大根も加工食品。野菜ではない。
 シイタケは野菜というのか。まあ、キノコであるから、菜ではないと思うが、野菜と言わない確信はない。
 確信などもてるものは何一つない。あるのは、僕がいつか必ず死ぬこと。これは100パーセント確実。
 だが、むろんまだ生きている。そうは簡単に死なない。生きていてよいと言うことはないが、死んだ方がよいとも思えない。曖昧模糊。優柔不断。それが僕の4字熟語。

 半分の大根を手に取り、水道でさっと洗う。で、まな板の上にのせ、カットする。適当な大きさ。この適当が、また微妙に適当なものだ。ひと口サイズ。
 もちろんサラダだ。サラダは簡単。野菜を切ったり葉をむしったりして、皿に盛るだけ。あとは食塩を振っておしまい。素材の味の真骨頂。
 大根サラダは、母のもっとも得意とする料理だった。
 僕も、ひと口サイズの、とは言え不ぞろいの大根の塊を10個ばかり作る。
 子どもの頃、包丁が怖かった。手を切ると言う強迫観念。見るだけで、身体が硬直し、さわるなんてもってのほかだった。それが今、さわるだけでなく、こうやって大根を切ることもできる。成長した結果なのか、感覚が鈍磨したせいなのか。
 キャベツも葉っぱをむしって数枚並べる。これで料理は出来上がり。ヘルシーな大根とキャベツのサラダ。食塩をささっと振り掛けて食べる。

 大根をかじる。なんともいえない歯ごたえ。大根おろしにすると、この歯ごたえが味わえない。それなのに、大根おろしなどという邪道の食べ方。僕は大嫌い。大根はひと口サイズに限る。
 口に広がる野菜臭さ。これがまた格別。
 キャベツも食べてみる。じわっと青臭さが口に広がる。キャベツもいい。
 青虫もバリバリと食う。

 そうだ、キャベツを食う青虫。連中はモンシロチョウの幼虫。緑のふにゅふにゅした芋虫が、蝶に姿を変える。まったくもって手品のよう。
 似ても似つかない完全変態。
 昆虫はいい。すっかり姿を変えられる。が、僕は。
 まだ脱皮しきれてない。過去を引きずったままの現在。
 で、年齢は。そう、僕の年齢はいくつ。
 ふとわからなくなる。18歳で止まってしまった。そうなのだ。ずっと蛹の殻に籠もっていたのだ。そう善意に解釈しよう。精神の完全変態。
 
 大根とキャベツで空腹感はなくなる。もう一度仕切りなおし。
 さあ、玄関に向かい、今度こそ出発だ。  (つづく)

出発 3

2006-10-28 06:40:16 | 小説
  3

 右手に握り締めた靴。その中に足を突っ込む。
 意外にスムーズに入った。案ずるより生むが易し。
 で、今度は左の靴。履いて見る。
 立ち上がる。問題はなさそうだ。足にぴったりフィットしている。完璧である。
 完璧だと思う。が、何かがおかしい。こんなに簡単に靴が履けたこと。何日も迷い、挫折してきた行為が、こんなにも簡単だったなんて。
 外へ出る。ドアのノブを回せば、もう外の世界。
 と、ポケットに手を突っ込み、肝心なことを忘れていたのに気付く。
 持ち物のこと。手ぶらで出発しようとしていた。なんと言う軽率。
 外出には必要なものがある。まずハンカチ。手を洗ったときに不可欠。ズボンで拭くのはみっともない。
 ノートとペン。これは日記を書くのに必要だ。
 歯みがきと歯ブラシ。虫歯にならないために忘れてはならない。
 それと、それと、そう、財布だ。もちろん中にはお金が必要だ。
 着替えもあった方がいい。出発すれば長い旅になることも考えられる。
 それらをそろえなきゃならない。なんてこと。もう一度やり直し。靴を脱いで、また振り出しに。

 箪笥にはいくつかの衣類。取り出してみる。においもかいで見る。石鹸の匂い。太陽の匂い。母親が洗ってくれて、きちんとたたみ、しまっておいてくれたもの。
 僕はそれらを適当にバッグに詰め込む。靴下、パンツ、シャツ、ずぼん、パジャマ、タオル。次々に詰めていく。
 バッグはすぐにいっぱいになる。いいだろう。
 今度はお金。
 食卓に母親の財布がある。覗いてみると千円札が数枚、小銭が少々。
 旅立ちには心もとない金額。だがいい。無一文で出発することを思えば。

 なんだかんだで時間をロスした。バッグには準備万全。これで、文句なく出発できる、と思う。
 もう一度仕切りなおし。出発への再出発。
 靴を見下ろす。僕の足にぴったりの靴。もう一度履きなおす。一度出来た行為。二度目は簡単だった。学習効果なのか。
 バッグを手にする。ドアのノブに手をかけようとする。そのとき、電話が鳴った。
 何てことだ。いつもそうだ。何かをしようとすると邪魔が入る。受話器を取るには、また靴を脱がねばならない。
 二回、三回と呼び出し音。
 僕は靴のまま部屋に上がり受話器を取った。
「もしもし」
「ああ、佐藤さんですか」
「違います」
「佐藤さんじゃないのですか」
「違います」
「じゃあ、誰なんです?」
「佐藤さんじゃない者です」
「佐藤さんでなければ、山田さんですか?」
「山田ではないです」
「田中さんですか?」
「違います」
「そんなわけはない。あんたは佐藤でも山田でも田中でもなければ、この電話に出るはずがないんだ」
「じゃあ、山田です」
「そうでしょう。やはり山田さんでしょう。最初からそういえば、事態は深刻にならなかったのに」
「深刻な事態ですか?」
「そうです。私の家に、今、土星人の客が来ているのです」
「土星人?」
「ええ、頭に土星のワッカのような帽子を被っているからひと目でわかったのですよ。でもその土星人、見破られていることに気付いていないの。おかしいでしょう、佐藤さん」
「僕は山田です」
「ああ、そうでしたね田中さん。土星人は、まだごらんになったことはないでしょう?」
「ええ、まだです」
「意外に地球人と似ているのよ。おかしいでしょう。ところで、この土星人、一人で相手をするのが疲れるのね。どうです、佐藤さん、うちに来て、土星人とトランプでもしませんか?」
「僕、これから出かけるんです。それにトランプは苦手なんです」
「じゃあ、ジャンケンはどうですか。それなら簡単ですよね、佐藤さん」
「あのう、僕は山田です」
「ああ、今土星人が、トースト焦がしてしまった。大変、何してんのよ」
 叫び声とともに、電話は切れてしまった。
 忙しい人がいたものだ。

 もう一度仕切りなおし。今度は靴を履いている。案ずることはない。手間も省ける。さあ、ドアのノブに手をかけて再出発だ。   (つづく)

出発

2006-10-27 16:48:17 | 小説
   2
 
 で、まだ躊躇。生来の優柔不断。玄関まで来れたのは進歩かも知れないが、それ以上は未知の世界。ではない。
 そう、何年か前までは、軽快な足取りで、スキップを踏みながら飛び出して行った。そう、鼻歌交じりに。というのは嘘。
 僕ははっきり言って音痴。歌はへたくそ。しかも天才的なへたくそ。鼻歌といえど歌えない。
 楽譜が読めない。ハーモニカがふけない。カスタネットが叩けない。小学校の行進の時、僕だけ足がそろわなかった。見事にばらばら。あわせようとするともう頭の中は棉飴沸騰状態。手がばらばらになり、硬直し、つまずき、運動靴が脱げ、地面に転がってのた打ち回り、そう、ハリガネムシ状態になってしまったのだ。

 それは、もう過去のこと。今は出発をしようとしているのだ。未来のことを考えよう。夢のこと。
 そうなのだ、希望に満ちた出発。バナナの皮に足を滑らせてはならない。いざ出発。そのために、靴を履こうとしているのだ。
 で、右の靴。これは今までに過ちを犯したことがなかったか。
 靴は、主人に従順とは限らない。バナナの皮を発見すると、いそいそと近づいて行き、その上に乗っかろうとするかもしれない。すると駄目だ。すってんころりん。 
 中にはもっと意地の悪いことも。イヌの糞を見つけ、主人の気づかぬ間に近づいていく。そして、ぐにゅっ。これはもう最悪。あのやわらかい感触。立ち上る臭気。ほくそえむ靴。靴を履いて苦痛にさいなまれる姿が目に浮かぶ。

 なんてこと。これでは出発できない。ああ、どうすればいい。
 困ったときは110番。警察に電話をするか。
 いや119番。消防の方がいいか。
 だが、警察や消防は、人の悩みを聞いてくれるだろうか。
 消防署員は、火を消したりけが人を救ったりするのは得意だが、靴の履く順序をどう教えるかまでは訓練を受けていないだろう。
 警察官もそうだ。ピストルの使い方は知っていても、靴の履き方までは。
 では、学校の先生か。中学校の木下先生。無理だ。僕には聞けない。先生の声を聞くだけで、失語症になってしまう。石田先生も篠原先生も。

 と、僕はズボンのポケットから西瓜の種を取り出す。
 西瓜の種。公園に植えようと思って、ポケットにとっておいたもの。そう、この種を公園に蒔くためにも出発しなければならない。踏み出す一歩がなければもちろん二歩目もない。
 その前に靴を履くことだ。

 目の前にあるのは黒い靴。ずっと昔に買ったもの。どこで買ったかの記憶はない。自分で買ったのか、母親が買ったものかも記憶がない。ずっと前だが、子どもの時代まではさかのぼらない。そりゃ当然だ。靴のサイズは26センチ。大人になってから買ったもの。
 たぶん、近所のスーパーの特売。我が家は貧しいのだから、デパートで買うなんてことはありえない。その靴。履かなければ出発できない。
 あああ、どうして履けないのだ。
 今日もこのまま出発できないのか。
 いや、駄目だ。頑張ろう。こぶしを振り上げて。そう、力強く。右手を伸ばすんだ。
 
 僕は思い切って、清水の舞台からバンジージャンプ。
 右手で靴を掴んだ。もう離さない。履くまでは。絶対に離さんぞ。僕の右手はスッポンだ。

            つづく

出発

2006-10-27 15:13:00 | 小説
 ということで、今日から1ページ。たぶん始まる。出発すればだが。必ず来る終わりに向かって。ようやく始まる。
 とりあえず出発だ。家を出る。出て行かなければ始まらない。
 靴を履く準備。靴を履く。履かなければ、外に出られない。自明のこと。素足で出てもいいが、足の裏を怪我する。バカな奴が、ガラス瓶を割ってそのままにしているからだ。飲み終わった健康飲料。オロナミンCか、リポビタンD。褐色のガラスの破片は見つけにくい。踏んづけると、皮膚に突き刺さる。血が出る。どくどくと。ばい菌が入る。だから素足はいけない。完全防備せねば。靴下をはき、靴を履く。
 で、さて。
 また躊躇。右から履くか左から履くか。
 さてどっち。
 くじ引き。占い。が、なにで占いをするんだ。ああ、頭が痛くなって来る。まるで。
 まるで人参の色のよう。リンゴの色のよう。
 突き刺さったガラス片の白昼夢。足がうずきだす。血も出ていないのに。

 バカな躊躇は停滞を生むだけ。停滞からは時間の浪費しか生まれない。浪費した時間が山のように累積した老人ホーム。部屋の中の小さなベッドの上で、死ぬときが来るのを待つだけの人生。ただ待つ人生。明日死ぬか、あさって死ぬか、それとも一週間後か。
 死は、ひたひたと近づいて来る。
 それなのに、待っても待ってもなかなか死なない。まだ生きている。だから死ぬためにスタート。
 といっても、死に場所を求めての旅は、死にかかった老人にはできない。
 そう、足は退化し、腰は骨粗鬆症のため大きく曲がったまま。
 『つ』の字になった腰は、前に進むことは愚か、立ち上がることも拒絶する。
 
 老人のことはいい。僕のこと。まだ若い。青年、と呼ぶにはいささか年長かもしれないが、壮年には遠い。働き盛りの年代。仕事についていれば。が、未だに無職。働けない。働いたことはある。で、すぐに首になったことも。
 ろくでもない雇い主。ガソリンスタンンドのオヤジ。レギュラーガソリンとハイオクを間違っていれただけで、こっぴどく罵った。お前には脳みそがあるのか、と。
 むろん脳みそはある。たっぷり、かどうかは分からないが、皆無ではない。それに、腐り掛かっているかもしれない。それは分かるが、あの言い草はなんだ。
 で、無職になった。無色透明。
 透明人間になる夢想。それで一日費やしたことも。梅干し一個のおかずでご飯3杯。そんな夢想。むなしい夢想。どうがんばっても、現実は夢想の遥か低空を飛行し、墜落寸前。というより、墜落し、地面でのたうちまわるハリガネムシ状態。
 カマキリの腹部が破裂し、飛び出した黒い針金ムシは、水のある場所へと転がっていく。そう、くねくねと転がっていく。水の中が、まるでふるさとのように。
 
 そんなことを思い浮かべているときではない。
 そうだ、出発しなければ。さあ、靴を右から履くか左から履くか。
 どっちなんだ。どっちが正しいのだ。いや、正誤でなくてもいい。どっちが僕にふさわしいか。そう。より最適な方法。とりあえず出発せねば。
 が、まだ躊躇している。右の靴を先に手にするか、左なのか。さあ、どっちなのだ。

                                   つづく