フリーターのおいらは、毎日電車を利用するわけではない。が、時おり人身事故の影響に遭遇する。
幸い、乗っていた電車が轢いたのは一回だけ。急ブレーキをかけて止まったが、運転士は乗客の安全も考えねばならない。そのため、激しい急ブレーキは避ける。必然的に飛び込んだ人物をはね、たいていの場合は轢殺してしまう。
昨日は都心に用事があり出かけることに。で、14時過ぎに田園都市線駒澤大学駅、15時過ぎに横浜線十日市場駅で人身事故。中央線ほどではないが、他の路線でもけっこう飛び込み自殺が多い。
自殺願望の強い人間にとって、電車への飛び込みは手軽な手段。準備は不要で、死ぬことだけを考えればかなり成功率も高い。死体となった時の美観を考えれば、二の足を踏みそうだが、切羽詰れば贅沢は言っておれない。ということで、電車にダイブしてしまう。
これは何とかならないものなのか。
例えば、地下鉄南北線や新幹線では、電車か停止して乗車口のゲートが開くようになっていたりする。それによって、飛込みを困難にさせている。これは必要なこと。死にたいと考えている人たちは、うつ病の場合が多い。病なのだ。
で、以前アップした小説を、ここでもう一度リニューアルアップ。
ヒマな方、自殺に関心のある方、おいらの小説を気にいっている方はぜひ一読を。
それ以外の方は、長文なのでパスを。
靴の逆襲
誰だって、自分の靴に一度や二度、痛い思いをさせられた経験があるはずだ。靴擦れをこしらえて歩けなくなったり、階段を踏み外して足をくじいたり、ぬかるみに足をとられてころんだり……。
靴ってやつは、いっけん従順そうだが、実は信用ならない。性格がひん曲がっていたり、嫉妬深かったりする。それを忘れていると、思わぬ痛い目にあう。
私も何度か煮え湯を飲まされてきた。しかし、喉元過ぎれば何とかで、時がたてばつい油断してしまう。自分の足は、靴の動きを制御できると思い込みがちだ。ところがどっこい、従順そうな仮面の後ろに、とんでもない素顔が隠されていたりする。それが靴というものだ。
白い革靴……。
新宿の伊勢丹で買ったイタリア製のその靴が、私のいちばんのお気に入りだった。値は張ったが、価格に見合う履き心地だった。水虫の棲む私の足を快く迎え入れてくれたし、立ちっ放しの大学での講義の間も、足が重くなることはなかった。公園の散歩や美術館へ出かける時も、ためらうことなくその靴を履いた。まさに身体の一部のように馴染んでいた靴だ。
だが、しょせん靴である。死ぬ気で惚れた女でも、結婚して毎日顔をつきあわせていると、他に目移りするようになる。
銀座のワシントン靴店のショーウインドーで、英国製の黒い革靴を見つけた時がそうだった。私の目は、靴の発する強烈なオーラに惹きつけられ、欲しくてたまらなくなった。
店員にその靴を出してもらって、触ったり匂いを嗅いだり頬ずりをしてみたりした。じっさいに履いてみて、その感触を確かめてもみた。外国製品のもつアクの強い匂いはなかった。意外に軽く、革が柔らかい。肌触りもしなやかだった。偏平足ぎみの私の足にぴったりフィットした。
値は、白い靴の二倍も高かったが、躊躇せずに買った。以来、スーツを着ての外出や、大学での講義などでは、その黒い靴を履くようになった。
白い靴は、あおりを食って下駄箱の住民となった。むろん忘れてしまったわけではない。公園の散歩や近所での買い物程度の外出には履こうと考えていたが、たまたま多忙で、そんな機会がなかっただけだ。
ひと月あまりたって、ようやく散歩に出かけたくなるような心のゆとりができた。外出にはもってこいの好天。私は、白い靴を履いて近所の公園にでかけることにした。
下駄箱から取り出すと、いくぶん黴臭かった。革の持つ独特の生気も失われていた。手早く磨いて靴に活力を与え、いつものように、右足から突っ込んだ。足の先端やかかとに多少の違和感があったが、気に留めるほどではない。
季節は秋。暑くも寒くもなく、風も穏やか。絶好の散歩日和。
いつもの散歩コースをたどった。
自宅からのんびり歩いて五分ほどで公園に着く。芝生や花壇のあいだを散策路が続く。その小道を、スキップを踏むような軽い足取りで歩いた。
前方からベビーカーに赤ちゃんを乗せた若い母親が近づいてきた。やわらかい陽射しを浴びて、スローモーション画像のようにゆったりとした足取りで。
絵に描いたように幸せそうな母子。ミニのスカートにルーズソックスを履けば、女子高生で十分に通用する幼い母親。プリンのように瑞々しい頬の張り。ゴム毬のように柔らかそうな胸の膨らみ。子どもを産んだにしては引き締まった腰のくびれ。
不謹慎にも私は、その若い母親が母親になるために男と共にした行為を想像してしまった。裸体の股間に深々と突き刺さった一物。目を閉じ、口を半ば開き、よだれを流しながら喜悦の声をあげる女……。
その時だ。私の足元を、えも言われぬ感触が襲った。
ぐにゅっ……。
靴底がその物体を捉えた瞬間、見なくともわかった。あの弾力。あの大きさ。ほのかに立ちのぼる臭気。まぎれもなく、犬によって仕掛けられた糞地雷だった。しかも、排泄して間もない柔らかなものである。
「ううっ……」
私は、破裂した風船のように絶望的な気分になった。
若い母親に、足元で起きた事態を悟られてはならない。私は、さりげなく口笛を吹きながら、フンのへばりついた靴底を草で拭った。しかし、窪みに深く食いこんだ粘着物は、簡単には取れない。
行く手には、池に流れ注ぐ人工せせらぎがあった。私は、これ幸いとばかり水辺に降りた。ちょうど靴底がつかるほどの深さだった。
足を突っ込み、流れの底の砂利でこすりながらかき回した。それを数回くり返したのち、靴底の状況を確かめた。黄色い粘着物は、跡形もなく取れていた。
犬の糞を放置したままの飼い主なんて許せない。絶対に許してはならない。こいつが最低の飼い主だという写真入りポスターを町中に貼りまくってやりたい気分だ。糞をしたカス犬は、毒入りのドッグフードで、もちろん抹殺。
だが、それよりもさらに悪いのは白い靴だ。靴の目線は低い。目の前の糞に気づいていたはずだ。にもかかわらず踏んづけるという主人への背信行為は、断じて許せない。
もう散歩はおしまいだ。こんな不快な気分を味わうのなら、白い靴のことを気にかけて散歩になんて出かけるのじゃなかった。
次の瞬間、その後悔が決定的なものになった。
せせらぎから上がろうとして、私は、流れの中の石に足をかけた。
石の上は、水苔にびっしり覆われていた。水苔と靴底は相性が悪い。靴は、見事に滑った。私は宙を舞い、水の中に尻餅をついてしまった。派手な水しぶきが上がった。
散策路にいた連中は、私を見て吹き出した。いかにも軽蔑の笑い。いい歳の男がなんてザマだ。他人の笑いものになる屈辱。臀部をびしょ濡れにして恥をさらし、すごすごと尾羽うち枯らして帰っていく惨めさ。
私は、白い靴の行為に我慢ならなかった。私が大枚をはたいて買ってやった靴である。それなのに、これほどの大恥をかかせるなんて。なんて恩知らずなやつだ。
自宅に戻った私は、靴にお仕置きをしてやった。箒の柄による鞭打ち二十回の刑だ。手加減せず、思いっきり引っぱたいた。むろん、靴は抵抗しなかった。抵抗できっこなかった。たっぷり懲らしめたあと、また下駄箱の奥に放り込んだ。
その時、廃棄してしまえばよかった。しかし、心の底のどこかに愛着があった。何しろ一時期はいちばんに可愛がってやっていた靴だ。これだけ罰を加えれば、反省するであろうという甘い読みもあったのだ。
それからはまた黒い靴を履く生活となった。同時に、なぜか私の心を異様な虚しさが覆うようになった。生きていることへの、深くて暗い虚しさである。いったいこの空虚な気分はどうしたことだろう。
大学での身分の不満が根底にあったのかもしれない。五十の歳を迎えるのに、まだ講師のままである。教授とまではいかなくても、せめて助教授に昇格してもいい年齢だ。論文だって、そこそこのものを書いているのに、一向に認めてはくれない。
授業のことを思うと、さらに陰鬱になる。学生たちは、私の講義なんか聞いていない。平気で私語を交わすし、携帯電話の不快な着メロがしょっちゅう鳴り響く。文句を言うと、不貞腐れて教室を出ていく。受講する学生の数が減れば、大学側の評価も低くなる。私はじっと堪え、学生の眠りや私語を妨げないように静かに講義を続ける。
だいたい、私の教えている日本古代の法制史など、今の学生に興味があるはずがない。律令制度が解かって、今の社会にどんな役が立つというのだ。とくに私の教える三流大学の学生には、百パーセント無意味な授業と確信できる。何か途方もない時間の浪費を続けているような気がする。それでも大学に行かねばならない。私自身が食うために。そうなのだ、学生に教えることよりも、私自身が生活するための授業でしかないのだ。
日々虚しさがつのる。このままで老いていいのだろうか。食うためだけの学問。学生に教える意味。考えれば考えるほど落ち込み、さらに虚しさがつのっていく。
気分を変えてみようと思い、もう一度白い靴を履いてみた。白い靴を履いていた頃の方が、私の心の状態は健康的であったような気もしたからだ。
下駄箱の奥から白い靴を取り出した。黴臭いだけでなく、実際に黴が生えていた。よく拭き取り、クリームを丹念に塗った。足をつっこんでみる。懐かしい履き心地である。
その日、授業は一コマ目からだった。朝のラッシュ時の電車は大嫌いだ。しかし、仕事とあればでかけねばならない。
家から駅までは、徒歩十五分。重い気分を引きずりながら歩いた。
ホームにのぼり、電車を待った。間もなく満員電車がやってくる。その電車を待つ行為がたまらなく虚しい。
みんな、同じように待つ。能面のように表情もなく待つ。何も疑うことなく満員電車に乗り込むのだ。横にいるのはどんな相手か分からないまま肌を密着させて。かわいい女子高生と中年の口の臭い変質者も、ぴったりと身体を寄せ合って。便秘女も、胃下垂男も、ハゲもデブもアル中も……。
私は、嫌になった。こんな生活は、もうやめたい。おしまいにしたい。
電車はやって来る。乗り込めば、また大学に行くことになる。くだらない授業をして、学生どもの眠気を誘うだけだ。電車になんて乗り込みたくない。にもかかわらず、ひたひたと近づいて来る。
構内放送が続く……。
「渋谷行きの電車がまいります。白線の内側にお下がりください……」
電車が見えてきた。
そうだ。もし今、線路に向かってジャンプすれば、何もかも終えることができるのだ。この嫌な気分から開放される。たったそれだけで、万事解決だ。なんて簡単な話だ。そう思った時、私の足は、ひとりでに線路へ向かった。
躊躇することなく、飛び跳ねるような軽やかな足の動き。二歩、三歩、四歩……、それーっ。
ホームの端からジャンプした。
私をめがけて、電車はまっしぐらに突っ込んで来た。警笛と急ブレーキの金属音が、あたりの空気を引き裂く。駅のホームでは、人々の叫び声がする。
これでいいんだ、これで。すべてが終わってくれる。
その時だった。足先から沸き上がる不気味な含み笑いの声を聞いたのは。
『クツクツクツクツ……』
その声で、私の身に起きた事態を了解した。次の瞬間、身体は電車と激突した。そして、意識は消滅した。
おしまいだ、コンニャロメ
幸い、乗っていた電車が轢いたのは一回だけ。急ブレーキをかけて止まったが、運転士は乗客の安全も考えねばならない。そのため、激しい急ブレーキは避ける。必然的に飛び込んだ人物をはね、たいていの場合は轢殺してしまう。
昨日は都心に用事があり出かけることに。で、14時過ぎに田園都市線駒澤大学駅、15時過ぎに横浜線十日市場駅で人身事故。中央線ほどではないが、他の路線でもけっこう飛び込み自殺が多い。
自殺願望の強い人間にとって、電車への飛び込みは手軽な手段。準備は不要で、死ぬことだけを考えればかなり成功率も高い。死体となった時の美観を考えれば、二の足を踏みそうだが、切羽詰れば贅沢は言っておれない。ということで、電車にダイブしてしまう。
これは何とかならないものなのか。
例えば、地下鉄南北線や新幹線では、電車か停止して乗車口のゲートが開くようになっていたりする。それによって、飛込みを困難にさせている。これは必要なこと。死にたいと考えている人たちは、うつ病の場合が多い。病なのだ。
で、以前アップした小説を、ここでもう一度リニューアルアップ。
ヒマな方、自殺に関心のある方、おいらの小説を気にいっている方はぜひ一読を。
それ以外の方は、長文なのでパスを。
靴の逆襲
誰だって、自分の靴に一度や二度、痛い思いをさせられた経験があるはずだ。靴擦れをこしらえて歩けなくなったり、階段を踏み外して足をくじいたり、ぬかるみに足をとられてころんだり……。
靴ってやつは、いっけん従順そうだが、実は信用ならない。性格がひん曲がっていたり、嫉妬深かったりする。それを忘れていると、思わぬ痛い目にあう。
私も何度か煮え湯を飲まされてきた。しかし、喉元過ぎれば何とかで、時がたてばつい油断してしまう。自分の足は、靴の動きを制御できると思い込みがちだ。ところがどっこい、従順そうな仮面の後ろに、とんでもない素顔が隠されていたりする。それが靴というものだ。
白い革靴……。
新宿の伊勢丹で買ったイタリア製のその靴が、私のいちばんのお気に入りだった。値は張ったが、価格に見合う履き心地だった。水虫の棲む私の足を快く迎え入れてくれたし、立ちっ放しの大学での講義の間も、足が重くなることはなかった。公園の散歩や美術館へ出かける時も、ためらうことなくその靴を履いた。まさに身体の一部のように馴染んでいた靴だ。
だが、しょせん靴である。死ぬ気で惚れた女でも、結婚して毎日顔をつきあわせていると、他に目移りするようになる。
銀座のワシントン靴店のショーウインドーで、英国製の黒い革靴を見つけた時がそうだった。私の目は、靴の発する強烈なオーラに惹きつけられ、欲しくてたまらなくなった。
店員にその靴を出してもらって、触ったり匂いを嗅いだり頬ずりをしてみたりした。じっさいに履いてみて、その感触を確かめてもみた。外国製品のもつアクの強い匂いはなかった。意外に軽く、革が柔らかい。肌触りもしなやかだった。偏平足ぎみの私の足にぴったりフィットした。
値は、白い靴の二倍も高かったが、躊躇せずに買った。以来、スーツを着ての外出や、大学での講義などでは、その黒い靴を履くようになった。
白い靴は、あおりを食って下駄箱の住民となった。むろん忘れてしまったわけではない。公園の散歩や近所での買い物程度の外出には履こうと考えていたが、たまたま多忙で、そんな機会がなかっただけだ。
ひと月あまりたって、ようやく散歩に出かけたくなるような心のゆとりができた。外出にはもってこいの好天。私は、白い靴を履いて近所の公園にでかけることにした。
下駄箱から取り出すと、いくぶん黴臭かった。革の持つ独特の生気も失われていた。手早く磨いて靴に活力を与え、いつものように、右足から突っ込んだ。足の先端やかかとに多少の違和感があったが、気に留めるほどではない。
季節は秋。暑くも寒くもなく、風も穏やか。絶好の散歩日和。
いつもの散歩コースをたどった。
自宅からのんびり歩いて五分ほどで公園に着く。芝生や花壇のあいだを散策路が続く。その小道を、スキップを踏むような軽い足取りで歩いた。
前方からベビーカーに赤ちゃんを乗せた若い母親が近づいてきた。やわらかい陽射しを浴びて、スローモーション画像のようにゆったりとした足取りで。
絵に描いたように幸せそうな母子。ミニのスカートにルーズソックスを履けば、女子高生で十分に通用する幼い母親。プリンのように瑞々しい頬の張り。ゴム毬のように柔らかそうな胸の膨らみ。子どもを産んだにしては引き締まった腰のくびれ。
不謹慎にも私は、その若い母親が母親になるために男と共にした行為を想像してしまった。裸体の股間に深々と突き刺さった一物。目を閉じ、口を半ば開き、よだれを流しながら喜悦の声をあげる女……。
その時だ。私の足元を、えも言われぬ感触が襲った。
ぐにゅっ……。
靴底がその物体を捉えた瞬間、見なくともわかった。あの弾力。あの大きさ。ほのかに立ちのぼる臭気。まぎれもなく、犬によって仕掛けられた糞地雷だった。しかも、排泄して間もない柔らかなものである。
「ううっ……」
私は、破裂した風船のように絶望的な気分になった。
若い母親に、足元で起きた事態を悟られてはならない。私は、さりげなく口笛を吹きながら、フンのへばりついた靴底を草で拭った。しかし、窪みに深く食いこんだ粘着物は、簡単には取れない。
行く手には、池に流れ注ぐ人工せせらぎがあった。私は、これ幸いとばかり水辺に降りた。ちょうど靴底がつかるほどの深さだった。
足を突っ込み、流れの底の砂利でこすりながらかき回した。それを数回くり返したのち、靴底の状況を確かめた。黄色い粘着物は、跡形もなく取れていた。
犬の糞を放置したままの飼い主なんて許せない。絶対に許してはならない。こいつが最低の飼い主だという写真入りポスターを町中に貼りまくってやりたい気分だ。糞をしたカス犬は、毒入りのドッグフードで、もちろん抹殺。
だが、それよりもさらに悪いのは白い靴だ。靴の目線は低い。目の前の糞に気づいていたはずだ。にもかかわらず踏んづけるという主人への背信行為は、断じて許せない。
もう散歩はおしまいだ。こんな不快な気分を味わうのなら、白い靴のことを気にかけて散歩になんて出かけるのじゃなかった。
次の瞬間、その後悔が決定的なものになった。
せせらぎから上がろうとして、私は、流れの中の石に足をかけた。
石の上は、水苔にびっしり覆われていた。水苔と靴底は相性が悪い。靴は、見事に滑った。私は宙を舞い、水の中に尻餅をついてしまった。派手な水しぶきが上がった。
散策路にいた連中は、私を見て吹き出した。いかにも軽蔑の笑い。いい歳の男がなんてザマだ。他人の笑いものになる屈辱。臀部をびしょ濡れにして恥をさらし、すごすごと尾羽うち枯らして帰っていく惨めさ。
私は、白い靴の行為に我慢ならなかった。私が大枚をはたいて買ってやった靴である。それなのに、これほどの大恥をかかせるなんて。なんて恩知らずなやつだ。
自宅に戻った私は、靴にお仕置きをしてやった。箒の柄による鞭打ち二十回の刑だ。手加減せず、思いっきり引っぱたいた。むろん、靴は抵抗しなかった。抵抗できっこなかった。たっぷり懲らしめたあと、また下駄箱の奥に放り込んだ。
その時、廃棄してしまえばよかった。しかし、心の底のどこかに愛着があった。何しろ一時期はいちばんに可愛がってやっていた靴だ。これだけ罰を加えれば、反省するであろうという甘い読みもあったのだ。
それからはまた黒い靴を履く生活となった。同時に、なぜか私の心を異様な虚しさが覆うようになった。生きていることへの、深くて暗い虚しさである。いったいこの空虚な気分はどうしたことだろう。
大学での身分の不満が根底にあったのかもしれない。五十の歳を迎えるのに、まだ講師のままである。教授とまではいかなくても、せめて助教授に昇格してもいい年齢だ。論文だって、そこそこのものを書いているのに、一向に認めてはくれない。
授業のことを思うと、さらに陰鬱になる。学生たちは、私の講義なんか聞いていない。平気で私語を交わすし、携帯電話の不快な着メロがしょっちゅう鳴り響く。文句を言うと、不貞腐れて教室を出ていく。受講する学生の数が減れば、大学側の評価も低くなる。私はじっと堪え、学生の眠りや私語を妨げないように静かに講義を続ける。
だいたい、私の教えている日本古代の法制史など、今の学生に興味があるはずがない。律令制度が解かって、今の社会にどんな役が立つというのだ。とくに私の教える三流大学の学生には、百パーセント無意味な授業と確信できる。何か途方もない時間の浪費を続けているような気がする。それでも大学に行かねばならない。私自身が食うために。そうなのだ、学生に教えることよりも、私自身が生活するための授業でしかないのだ。
日々虚しさがつのる。このままで老いていいのだろうか。食うためだけの学問。学生に教える意味。考えれば考えるほど落ち込み、さらに虚しさがつのっていく。
気分を変えてみようと思い、もう一度白い靴を履いてみた。白い靴を履いていた頃の方が、私の心の状態は健康的であったような気もしたからだ。
下駄箱の奥から白い靴を取り出した。黴臭いだけでなく、実際に黴が生えていた。よく拭き取り、クリームを丹念に塗った。足をつっこんでみる。懐かしい履き心地である。
その日、授業は一コマ目からだった。朝のラッシュ時の電車は大嫌いだ。しかし、仕事とあればでかけねばならない。
家から駅までは、徒歩十五分。重い気分を引きずりながら歩いた。
ホームにのぼり、電車を待った。間もなく満員電車がやってくる。その電車を待つ行為がたまらなく虚しい。
みんな、同じように待つ。能面のように表情もなく待つ。何も疑うことなく満員電車に乗り込むのだ。横にいるのはどんな相手か分からないまま肌を密着させて。かわいい女子高生と中年の口の臭い変質者も、ぴったりと身体を寄せ合って。便秘女も、胃下垂男も、ハゲもデブもアル中も……。
私は、嫌になった。こんな生活は、もうやめたい。おしまいにしたい。
電車はやって来る。乗り込めば、また大学に行くことになる。くだらない授業をして、学生どもの眠気を誘うだけだ。電車になんて乗り込みたくない。にもかかわらず、ひたひたと近づいて来る。
構内放送が続く……。
「渋谷行きの電車がまいります。白線の内側にお下がりください……」
電車が見えてきた。
そうだ。もし今、線路に向かってジャンプすれば、何もかも終えることができるのだ。この嫌な気分から開放される。たったそれだけで、万事解決だ。なんて簡単な話だ。そう思った時、私の足は、ひとりでに線路へ向かった。
躊躇することなく、飛び跳ねるような軽やかな足の動き。二歩、三歩、四歩……、それーっ。
ホームの端からジャンプした。
私をめがけて、電車はまっしぐらに突っ込んで来た。警笛と急ブレーキの金属音が、あたりの空気を引き裂く。駅のホームでは、人々の叫び声がする。
これでいいんだ、これで。すべてが終わってくれる。
その時だった。足先から沸き上がる不気味な含み笑いの声を聞いたのは。
『クツクツクツクツ……』
その声で、私の身に起きた事態を了解した。次の瞬間、身体は電車と激突した。そして、意識は消滅した。
おしまいだ、コンニャロメ