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ブログ小説 過去の鳥

淡々と進む時間は、真っ青な心を飲み込む

バス その恐怖

2011-02-26 17:06:35 | 小説
「みんな死ぬんだ」叫ぶ容疑者…バス横転の恐怖(読売新聞) - goo ニュース

 こんなバスがあってはいけない。絶対に。
 小生は、以前「週刊小説」という週刊誌の懸賞短編小説で、バスをテーマに書いて、掲載してもらったことがある。恐怖のバス。
 この事件で思いだした。その小説は、以前、このブログに載せたことも。で、再度アップの次第。まだ読んだことのない皆さん、ぜひ一読を。

 
   バス

 バス停には、すでに五十人の定員いっぱいの客が並んでいた。若いカップル、学生風のグループ、年配の夫婦、小学生を連れたファミリーなど、顔ぶれは多彩だ。連中は規則正しく列を作り、俺の運転するバスの到着を待っていた。
 俺は、いつものようにバス停の標識の真横にぴったりつけた。五センチと誤差のない見事な停止位置だ。
 レバーを引いてドアを開けた。客たちは乗り込む。こぼれそうな笑顔で無駄話をしながら乗り込んでくる奴がいる。緊張気味の表情で唇を噛み締め乗り込むやつもいる。奥の座席へ進む者、男の手を強く握りしめたままうつむき加減で乗り込む女、相も変わらずいろんな連中が乗ってくるものだ。
 乗客たちの能天気な表情を見ていると、俺は無性に腹が立ってくる。客の全員が、俺という人間を知らない。どんな過去を持ち、どんな気持ちで毎日ハンドルを握っているのか、一切知らないのだ。今朝の俺は、妻と喧嘩をして、気分は最悪であるかもしれないし、中学生の息子が、校内暴力で教師に大怪我をおわせて逮捕され、警察に引き取りに行ったばかりの絶望的な精神状態であるかもしれない。そんな事情など意に介さず、涼しい顔で俺のバスに乗り込んできやがる。
 むろん俺も、客にどんな事情があるかは知らない。その知らない者同士が、短い時間とはいえ空間を共有し、仲良く移動しようなんて虫がよすぎる。
 ともかく、俺の気分は最悪だった。水蒸気爆発を起こす寸前の活火山のような精神状態。にたにたと笑い、腑抜けのような面をして横に女を侍らせた男どもよ、見ておれ、貴様たちの度肝を抜いてやる。無知で傲岸な客どもと断固勝負し、痛めつけ、苦しめ、脳味噌が吹き出すような恐怖を味わわせてやる。
 全員乗り込むのを確認して、ドアを閉めた。もちろんロックも忘れない。窓はすべて嵌め込み式の特殊強化ガラスで出来ており、内部からの開閉は不可能だ。バットで殴られても、拳銃の玉を打ち込まれても割れたりしない。客たちは、完全な密室で阿鼻叫喚の坩堝に身をゆだねることになるのだ。畜生め、見ておれ。
 車内の時計は、出発時刻を表示した。
 ギアをローに入れ、サイドブレーキに手をかけた。
「さあ、乗客の皆さんよー。そろそろ出発するぜ。俺はスピード出すからな。そのつもりで、しっかりシートベルトを締めてなよ」
 車内放送用のピンマイクをオンにして、ひとくさりぶっておいた。アクセルに足をかけ、サイドブレーキを外した。
 バスは、タイヤのスリップ音とともに急発進した。すぐにギアチェンジして、アクセルを踏み込む。加速する。三速、四速、五速と切り替え、発進五秒後には時速百キロに達する。レーサーあがりの俺には、こんな加速はちょろいもんだ。
 俺の背後では、どよめきが起きていた。明らかに客たちは動揺していた。
「さあ、これからだぜ、本番は。どんどんスピードを出すからな。てめえら、小便、ちびるなよーっ」
 どよめきがさらに大きくなる。俺は、客の反応などかまわず、目いっぱいアクセルを踏
みこんだ。
「こわーい!」
「きゃーっ!」
 叫び声があがる。悲鳴もあがる。
「へっ、へっ、へっ。知るもんか。ハンドルを握っているのは俺だぜ。俺のバスに乗ったおめえさんらが悪いんだ。絶対に停めてなんかやらないぜ」
 スピードメーターは百三十キロまで上がった。目の前に交差点が見えてきた。信号は血のように真っ赤だ。
「赤信号がどうしたってんだ。へっ、へっ、へっ、どけどけ、こっちはバスだぜ。でっかいんだ。突っ走れー」
 俺は叫びながら、赤信号の交差点のど真ん中へ突っ込んで行った。両側から一斉にクラクションが響く。バスを避けようとした車のブレーキ音と衝突音が重なる。数台の車が、衝突と追突のクラッシュに巻き込まれ、炎があがる。
「きゃーっ!」
「助けてよーっ!」
「ねえ、もう停めて、お願い」
「いやーっ! 降ろしてーっ」
 そんな声は当然無視だ。俺はマイクに向かって叫んだ。
「うるせえ。停めてほしかったらかかってきやがれ。俺のハンドルを奪ってみろ。運転を止めてみな。その前に、ちょこっとハンドル切り間違えば、全員がお陀仏さ。おめえさんらの命は、この俺が握っているんだ。へっ、へっ、へっ」
 俺は絶対に停めてやらない。見ず知らずの人間を信用して乗ったやつらが愚かなんだ。徹底的に恐怖で打ちのめしてやる。平和な暮らしで弛みきった根性を、叩き延ばしてやる。そして、地獄の奥まで道連れにしてやる。満員の乗客を道連れにすれば、きっと三途の川の渡し船の船頭も大喜びするぜ。
 前方に学校らしい建物が見えてきた。その前の横断歩道を、小学生の一団がのんびりと渡っていた。バスは、横断歩道に向かって突き進んでいく。獲物に突進するチーターのように、スピードを緩めずまっしぐらに。
「さあ、どけどけ。どかなきゃ、轢き殺すぞ。へっ、へっ、へっ」
 次の瞬間、バスは衝撃を感じた。同時に、小学生が数人、人形のように吹っ飛んだ。血しぶきが、バスの窓に振りかかる。
「きゃーっ」
「もう停めてよ、お願い」
 後ろからパトカーのサイレンが聞こえてきた。パトカーは、バスの背後にくっついた。スピーカーからは、警察官の気の抜けた怒鳴り声が聞こえてくる。
「そのバス、すぐに停まりなさい。轢き逃げの現行犯で検挙するぞ。すぐに停めなさい。危険な運転はやめなさい」
「何をほざくか、薄のろパトカーめ。俺に命令しようって奴は、地獄行きだぜ。お客さん
らよ、ようく見ておけ、パトカーのチンケな最期を……」
 俺は、ブレーキを踏み込み急ハンドルを切った。車体は大きくスリップして百八十度回転した。
 パトカーも急ハンドルを切った。だが、制御できずに、横にそれて民家に突っ込んだ。衝撃音が響き、映画の場面のように派手に炎がエンジンルームから噴きあがった。
「どうだい、俺に逆らう奴には、死に神がお迎えに来るのさ、へっ、へっ、へっ……」
 俺は、バスの体勢を立て直し、アクセルを踏み込んだ。ぐんぐん踏み込む。また、時速百三十キロを越えた。
 行く手に鉄柵のバリケードが現れた。その奥には、装甲車が二台、横になって道を塞いでいた。俺のバスを実力で阻止しようという魂胆らしい。警察なんぞに阻止されてたまるか。
 俺はスピードをゆるめず、まっすぐ突き進んだ。装甲車と激突して、全員が地獄に落ちるならそれでいい。阻止されるくらいなら、潔く爆死する方がましだ。
「このバスは、血に飢えているんだ。もっと血だ、血が欲しいんだ。突っ込むぞうーっ」
 俺は絶叫し、アクセルをいっぱいに踏み込んでバリケードに突進していった。
 乗客たちは、顔面蒼白になり、もう声も出ない。
 バスが突進していくと、バリケードが開き、装甲車は左右によけた。警察としても、五十人の客の生命を思うと、激突させるわけにはいかなかったのだろう。
 客たちに一瞬の安堵の表情が戻る。しかし、一瞬にすぎない。
 上空から、ヘリコプターがやってきた。空から止めようという寸法らしい。そうは問屋が下ろさない。こっちには満員の乗客がいる。いわば人質だ。その命が俺の手中にある限り、へたな手出しはできっこない。
「バスの運転手、停めなさい。いったいどう言うつもりだ」
「うるせえハエだぜ。おめえも泣きをみるってことがわからないのか、ばかめが……」
 俺は、猛スピードで高圧線の下を走り抜けた。ヘリコプターは、俺の罠にいとも簡単に
ひっかかり、高圧線に接触した。まるでおもちゃのように弾き飛ばされ墜落した。
 この先は海だ。東岬の断崖に出る。
「もうすぐ海だぜ。どうするかって? へっへっへっ、そうさ、飛び込むんだ。海にまっしぐら。海に真っ逆さま……」
 見えてきた。さあ、ガードレールを突き破って、空へ踏み出すぞ。
 フルアクセル。
 スピードメーターは完全に振り切れ百八十キロ。
「へっ、へっ、へっ、さあ、どうだ。空を飛べるのは飛行機ばかりじゃねえ。バスだって空を飛べるんだぜ。ちくしょう、見ておれ、地獄の底まで飛んでやるー!」
 俺は大声で叫んだ。ガードレールまで百メートル。
 五十メートル。
 十メートル。
 ジャンプだ!
 バスは、ガードレールを突き破って空に浮かんだ。

 束の間の飛行のあと着地した。そのまま、バスの降車場に着いた。停車位置は、いつもの場所から五センチと誤差はない。
 すっかり血の気を失っていた乗客たちは、まるで生き返ったように歓声をあげ、手を叩いた。
「やっほーっ、やったー!」
「さあ、地獄に着いたぜ。今日のところは、おめえらの命を助けてやる。さあ、降りた降りた。次の客が待ってるから急げよ。忘れ物には気をつけろ」
 俺はドアを開け、乗客たちを急かした。
 全員下りると、バスを洗車場に入れ、ふりかぶった塗料の汚れを慌ただしく落として、出発点のバス停へと急いだ。
 園内放送が、聞こえてくる。
「ジェットコースターの百倍のスリルと恐怖、冷血で残虐なドライバーの運転する大爆走バスドラゴン号にお乗りのお客さまは、至急六番ゲートの先、ドラゴンマークのバス停にお集まり下さい。間もなく、出発のお時間です。ただし、心臓に病気をお持ちの方、ならびに妊娠中の……」

                          おわり

怪談の冬

2010-02-17 07:21:46 | 小説
闇夜の小泉八雲「怪談」ツアー、冬も人気(読売新聞) - goo ニュース

 小泉八雲の怪談、好きだった。ずっと昔読んだのだが、まだいくつか覚えている。もう一度読みたい本のひとつ。
 そうだ、今度文庫本を買って、読んでみよう。

 ということで、雪女をテーマとして、以前書いた小説。このブログにアップしたこともあるが、リニューアルで再アップ。
 雪女の怖い世界を、皆さんにも味わってほしい。


    雪女

 大雪警報が発令されたようだ。
 ラジオのアナウンサーが、やけに冷めた声で原稿を読み上げている。
「……夕刻から、冬型の気圧配置はさらに強まり、山間部の積雪は、多いところで80センチに達するでしょう。交通機関のマヒが予想され、道路も一部通行止めが出ると……」
(ちくしょう、なんてこった)
 俺はトラックのエンジンを切り、助手席に脱いだままのジャンバーを羽織った。
 ドアを開けると、粉雪が頬に突き刺さる。
 ドライブインの駐車場は、雪の吹き溜まりになっていて、俺のトラックのほかには一台も止まっていない。みんな、今日は峠越えをあきらめたようだ。
夕方の五時過ぎだというのに、もう夜中のように空は暗い。ドライブインの明かりも、吹雪にくすんでやがる。
 地面には、もう十センチほど粉雪が積もっていた。
 大阪から走り続けて八時間、昼間食った高速のパーキングの握り飯を二個食っただけで、腹がグーグー鳴っていた。
 
 ドライブインの親父は、俺の食いおわった食器をカウンターの奥へ押しやりながら、峠越えなんて無謀なことはよせと諌めた。
「……おめえのように気の短けえドライバーが、毎年一人か二人、あの峠で車ごと雪に埋もれて凍死してやがる。今夜のような大雪の日にかぎってな」
「俺は、無茶はしねえよ」
 どうせどこかにトラックを停め、一晩を過ごさなきゃならない。同じなら、峠に近い方がいいと考えていただけだ。翌朝、除雪車が入って通行可能になれば、一番に峠越えができる。
「荷は急ぎかい?」
「急ぎじゃねえけど、ちょっと訳ありで、早く帰りてえんだ」
「女でもできたのか?」
「ああ、腹ん中にはガキまでな。じつは明後日、女の実家に挨拶に行く予定なのさ」
「道理で光った顔してると思ったぜ。暴走族の悪餓鬼も変わったもんよなあ」
 そう言えば、もう七年になる。俺が頭だったゾクの仲間が、二十台のバイクでこのレストランの駐車場に集結したとき、親父はたった一人で仁王立ちになり、俺たちを叩き出そうとした。
 俺は、でかい態度をとるオトナが大嫌いだった。腕っぷしには自信があった。親父を血祭りにあげて仲間にいいところを見せようと思い、サシで勝負を挑んだ。親父は受けた。
 図体がでかいだけの中年男だとたかをくくっていたのが甘かった。親父は強かった。強すぎた。俺は、完璧にぶちのめされた。あとで知ったことだが、親父は前頭まで上った相撲取りだった。かなうはずがない。
 以来、ダチになり、暴走族から足を洗って長距離のステアリングを握るようになってからも、近くに来れば必ず立ち寄った。
「そうだ、おめえにプレゼントをやろう」
 親父は、直径五センチほどの黒くて丸い石ころを、ズボンのポケットから取り出した。
「なんだね、これ」
「カチ石ってんだ。これを持ってれば、勝負に勝ち、おのれに克てる。苦境に立った時には、きっとこいつが役にたつぜ。おめえの人生はまだ長いんだから、持ってるがいい」
「あんたの大事なものじゃないかい」
「人生で勝負することのなくなったわしには、もう用のないものさ」
 俺は、お守りや呪いのたぐいを、一切信じない。だが、親父の好意を無にしたくなかった。
「ありがとよ。結婚式をやることになったら、親父も呼ぶからな。じゃあ」
 俺は、竜の刺繍の入ったジャンパーを羽織った。
 店のドアを押し開けると、地吹雪の粉末が顔面に突き刺さった。
「ちくしょう、冷えてやがる」
 トラックまで、突っ走った。
 運転席に乗り込みキーを差し込む。まずはヒーター全開だ。
 ヘッドライトを点けた。ワイパーは軋みながらフロントガラスの雪を払いのけた。
 前方の光の先に女が立っていた。一瞬目を疑った。コートのフードで頭がすっぽり隠れ、顔つきはよくわからないが、歳は若そうだ。吹雪の真夜中に、女がたった一人でいるなんて、全くどうかしている。
 窓を明け、女に向かって叫んだ。
「どうしたんだ、こんな時間に」
 女は、問いには答えず叫び返した。
「このトラック、峠越えすんの?」
「ああ、そのつもりだ」
「乗っけてくんない?」
「この雪では、越えられるかどうかわかんねえぞ。それでもいいのかよう」
「いいわ」
「じゃあ、乗んな」
 俺は、助手席の方へ身体を伸ばし、ドアを開けてやった。
 女は、慣れた身のこなしで助手席によじ登った。身体についた粉雪が舞い散る。
 席に腰を下ろして、フードを脱ぎ、長いさらさらとした髪をかきあげた。肌は雪のように白い。瞳が大きく、唇は薄くて小さい。まるで日本人形を思わせる美人だ。
「ありがとう」
 ルームライトの下で、女は小さく微笑んだ。
「峠の向こうに帰るのかい?」
「まあね」
「家へ帰るんじゃねえのか?」
「さあ、どうかしら」
「どうかしらはねえだろう。変なやつだなあ。まあいいや、出発するぞ」
 ギアを入れ、アクセルを踏んだ。
 ふだんは夜中でも交通量の多い国道だが、さすがにこの大雪では走る車は少ない。
「おまえ、名前はなんてんだ?」
「ユキ。あんたは?」
「俺はジロー。おまえ、まだ未成年だろう」
「十七」
「若いなあ、おれより、八つも下じゃねえか。高校生?」
「ユキノセイよ」
「えっ? なんだって?」
「なんでもないわ」
「それにしても、エアコン、効かねえなあ」
 エアコンの温度は、二十七度まで設定を上げたが、いっこうに暖かくならない。外気が冷え込んでいるためだろうか。

 峠に近づくにつれ、吹雪は激しさを増した。民家はもう二キロほど前から途絶え、楢の木の樹林帯へさしかかっている。視界は、二十メートルとない。轍は雪で埋まり、路肩の判別ができなくなった。
「ちくしょう、轍がわかんねえや」
 俺は、ハザードを点けてトラックを停めた。
「どうしたの? もう進まないの」
「この先は無理だよ。しょうがねえ。天気の回復と除雪車待ちだ。焼酎でもやっか。おまえもどうだ?」
 座席の後ろからボトルを出した。小型冷蔵庫には、氷とサワーが入っている。ポットには湯も入っている。
「ううん、いらない」
「未成年だからって、遠慮することはねえ。あったまるぜ」
「お酒、好きじゃないの。それよりも、怖い話をしようかしら?」
 女は、俺を舐めるように見つめながら言った。
「怖い話って?」
「もうずいぶん前のことよ。この道で、わたしと同い年の少女の凍死体が見つかったことがあるの。雪の日の朝にね」
「へえーっ」
「少女は、前の晩、ヒッチハイクでトラックに乗ったんだけど、運転手に無理矢理犯されたの。そして、雪の降る峠道に放り出され、寒さに震えながら死んだってわけ。どう、可哀相でしょう」
「べつに。自業自得さ」
「違うわ。悪いのは運転手よ。決まってるじゃないの。少女は運転手を憎んだわ。憎しみのあまり成仏できなくて、少女は雪女になったってわけ。そして、トラックが来ると乗せてもらい、運転手を誘惑するの。抱かれると、身体の熱をぜーんぶ吸い取って凍死させるのよ。それが、雪女になった少女の男への復讐なの。怖いと思わない?」
 俺は、超能力もオカルトも全く信じない。妖怪や幽霊のたぐいなんて、もってのほかだ。
「マンガみたいな話はよせ。その雪女が、自分だとでも言うのかい?」
「そうよ、おお当たり。どう、雪女のわたしを抱いてみる勇気、ない?」
「相手が違うぜ。俺には女がいるし、間もなく生まれるガキもいる。抱いてもらうのは、おまえが好きになった男だけにしろ」
 俺は人並みに女好きだった。まして美人とあれば、据膳をむさぼり食うのは当然のことと心得ていた。誘われて断るような気障ったらしい性分でもない。だが、奇妙なことに、女を抱く気はまったく起きなかった。間もなく父親になるという自覚が、性格を変えたのかもしれない。
「変な人……」
「変なのは、おまえさ。俺は人に説教たれる柄じゃねえけど、節操だけは大切にしろよ。それにしても、このエアコン、ちっとも効かねえと思わないか?」
「べつに」
「それならいいが、朝まで長い。ひと眠りしときな。俺は焼酎の湯割を一杯やって、あったまって眠るから」
「ねえ、あんた、わたしのこと、本当に抱いてみたいって思わないの?」
「しつこいなあ。俺は、そういう男じゃねえって言ってるだろう」
「わたしのこと、かわいくない?」
「かわいいとかブスだとか、そんな問題じゃねえ。その気にならねえだけだよ」
「セックスしなくてもいいわ。ただ抱くだけで……」
 少女は、俺に身体を寄せようとした。俺は少女の肩を邪険に押し返した。
「いいかげんにしろ。俺は寝るぜ」
 焼酎を一気にあおってグラスを置き、毛布を上体にかけた。
「おまえも、毛布を使うんだったら、後ろにあるからな」
「あんたって、変わってるわ。初めてよ、あたしを抱こうとしない男なんて。わたし、もう降りる」
「降りるって、ここは山ん中だぜ。こんなところで外へ出たら、凍え死んじゃうぞ」
「死なないわよ。わたし、雪女だもの」
「まだそんなばかなことを言ってんのか。どうかしてるぜ」
「あんたは立派よ。いいカモだと思って乗ったけど、負けたわ。あんたは、きっといいお父さんになると思う。悔しいけど。じゃあね、次の助平なカモを探すから」
 女は、そう言ってドアを開けた。
 俺は、引き止めるために手を伸ばそうとした。しかし、金縛りにあったように身体が動かない。女は吹き込んで来た粉雪とともに、闇の中へ溶けるように消えてしまった。
 ドアが風で押されて閉まった。
 金縛りが解けると、女の座っていた席を触ってみた。その場所だけが、氷のように冷たく濡れていた。
 あいつは、本物の雪女だったのだろうか。
 効きの悪かったエアコンは、急に熱い空気を吐き出しはじめた。
 俺は、ふとドライブインの親父からもらった黒いカチ石のことを思い出し、ポケットから取り出してみた。それは、まるで雪のように真っ白く変色していた。
   
          おわりだぜ


人身事故という名の自殺

2009-12-08 15:43:39 | 小説
山手線と埼京線が一時運転見合わせ 五反田駅で人身事故(朝日新聞) - goo ニュース

 今、日本では毎日100人程度が自殺をしている。新型インフルエンザの死者が100人を超えたと騒いでいるが、自殺者の問題の方が、より深刻ではないか。
 死に方として安直なのが、列車への飛び込み。だが、血なまぐさく、まわりにも迷惑。
 ということで、自殺者の心理を以前小説にしたことがあった。
 暇な方、および、以前のブログを読んでいない方、ご一読をお薦めします。

     
     靴

 誰だって、自分の靴に一度や二度、痛い思いをさせられた経験があるはずだ。靴擦れをこしらえて歩けなくなったり、階段を踏み外して足をくじいたり、ぬかるみに足をとられてころんだり……。
 靴ってやつは、いっけん従順そうだが、実は信用ならない。性格がひん曲がっていたり、嫉妬深かったりする。それを忘れていると、思わぬ痛い目にあう。
 私も何度か煮え湯を飲まされてきた。しかし、喉元過ぎれば何とかで、時がたてばつい油断してしまう。自分の足は、靴の動きを制御できると思い込みがちだ。ところがどっこい、従順そうな仮面の後ろに、とんでもない素顔が隠されていたりする。それが靴というものだ。

 白い革靴……。
 新宿の伊勢丹で買ったイタリア製のその靴が、私のいちばんのお気に入りだった。値は張ったが、価格に見合う履き心地だった。水虫の棲む私の足を快く迎え入れてくれたし、立ちっ放しの大学での講義の間も、足が重くなることはなかった。公園の散歩や美術館へ出かける時も、ためらうことなくその靴を履いた。まさに身体の一部のように馴染んでいた靴だ。
 だが、しょせん靴である。死ぬ気で惚れた女でも、結婚して毎日顔をつきあわせていると、他に目移りするようになる。
 銀座のワシントン靴店のショーウインドーで、英国製の黒い革靴を見つけた時がそうだった。私の目は、靴の発する強烈なオーラに惹きつけられ、欲しくてたまらなくなった。
 店員にその靴を出してもらって、触ったり匂いを嗅いだり頬ずりをしてみたりした。じっさいに履いてみて、その感触を確かめてもみた。外国製品のもつアクの強い匂いはなかった。意外に軽く、革が柔らかい。肌触りもしなやかだった。偏平足ぎみの私の足にぴったりフィットした。
 値は、白い靴の二倍も高かったが、躊躇せずに買った。以来、スーツを着ての外出や、大学での講義などでは、その黒い靴を履くようになった。
 白い靴は、あおりを食って下駄箱の住民となった。むろん忘れてしまったわけではない。公園の散歩や近所での買い物程度の外出には履こうと考えていたが、たまたま多忙で、そんな機会がなかっただけだ。

 ひと月あまりたって、ようやく散歩に出かけたくなるような心のゆとりができた。外出にはもってこいの好天。私は、白い靴を履いて近所の公園にでかけることにした。
 下駄箱から取り出すと、いくぶん黴臭かった。革の持つ独特の生気も失われていた。手早く磨いて靴に活力を与え、いつものように、右足から突っ込んだ。足の先端やかかとに多少の違和感があったが、気に留めるほどではない。
 季節は秋。暑くも寒くもなく、風も穏やか。絶好の散歩日和。
 いつもの散歩コースをたどった。
 自宅からのんびり歩いて五分ほどで公園に着く。芝生や花壇のあいだを散策路が続く。その小道を、スキップを踏むような軽い足取りで歩いた。
 前方からベビーカーに赤ちゃんを乗せた若い母親が近づいてきた。やわらかい陽射しを浴びて、スローモーション画像のようにゆったりとした足取りで。
 絵に描いたように幸せそうな母子。ミニのスカートにルーズソックスを履けば、女子高生で十分に通用する幼い母親。プリンのように瑞々しい頬の張り。ゴム毬のように柔らかそうな胸の膨らみ。子どもを産んだにしては引き締まった腰のくびれ。
 不謹慎にも私は、その若い母親が母親になるために男と共にした行為を想像してしまった。裸体の股間に深々と突き刺さった一物。目を閉じ、口を半ば開き、よだれを流しながら喜悦の声をあげる女……。
 その時だ。私の足元を、えも言われぬ感触が襲った。

 ぐにゅっ……。

 靴底がその物体を捉えた瞬間、見なくともわかった。あの弾力。あの大きさ。ほのかに立ちのぼる臭気。まぎれもなく、犬によって仕掛けられた糞地雷だった。しかも、排泄して間もない柔らかなものである。
「ううっ……」
 私は、破裂した風船のように絶望的な気分になった。
 若い母親に、足元で起きた事態を悟られてはならない。私は、さりげなく口笛を吹きながら、フンのへばりついた靴底を草で拭った。しかし、窪みに深く食いこんだ粘着物は、簡単には取れない。
 行く手には、池に流れ注ぐ人工せせらぎがあった。私は、これ幸いとばかり水辺に降りた。ちょうど靴底がつかるほどの深さだった。
 足を突っ込み、流れの底の砂利でこすりながらかき回した。それを数回くり返したのち、靴底の状況を確かめた。黄色い粘着物は、跡形もなく取れていた。
 犬の糞を放置したままの飼い主なんて許せない。絶対に許してはならない。こいつが最低の飼い主だという写真入りポスターを町中に貼りまくってやりたい気分だ。糞をしたカス犬は、毒入りのドッグフードで、もちろん抹殺。
 だが、それよりもさらに悪いのは白い靴だ。靴の目線は低い。目の前の糞に気づいていたはずだ。にもかかわらず踏んづけるという主人への背信行為は、断じて許せない。
 もう散歩はおしまいだ。こんな不快な気分を味わうのなら、白い靴のことを気にかけて散歩になんて出かけるのじゃなかった。
 次の瞬間、その後悔が決定的なものになった。
 せせらぎから上がろうとして、私は、流れの中の石に足をかけた。
 石の上は、水苔にびっしり覆われていた。水苔と靴底は相性が悪い。靴は、見事に滑った。私は宙を舞い、水の中に尻餅をついてしまった。派手な水しぶきが上がった。
 散策路にいた連中は、私を見て吹き出した。いかにも軽蔑の笑い。いい歳の男がなんてザマだ。他人の笑いものになる屈辱。臀部をびしょ濡れにして恥をさらし、すごすごと尾羽うち枯らして帰っていく惨めさ。

 私は、白い靴の行為に我慢ならなかった。私が大枚をはたいて買ってやった靴である。それなのに、これほどの大恥をかかせるなんて。なんて恩知らずなやつだ。
 自宅に戻った私は、靴にお仕置きをしてやった。箒の柄による鞭打ち二十回の刑だ。手加減せず、思いっきり引っぱたいた。むろん、靴は抵抗しなかった。抵抗できっこなかった。たっぷり懲らしめたあと、また下駄箱の奥に放り込んだ。
 その時、廃棄してしまえばよかった。しかし、心の底のどこかに愛着があった。何しろ一時期はいちばんに可愛がってやっていた靴だ。これだけ罰を加えれば、反省するであろうという甘い読みもあったのだ。

 それからはまた黒い靴を履く生活となった。同時に、なぜか私の心を異様な虚しさが覆うようになった。生きていることへの、深くて暗い虚しさである。いったいこの空虚な気分はどうしたことだろう。

 大学での身分の不満が根底にあったのかもしれない。五十の歳を迎えるのに、まだ講師のままである。教授とまではいかなくても、せめて助教授に昇格してもいい年齢だ。論文だって、そこそこのものを書いているのに、一向に認めてはくれない。
 授業のことを思うと、さらに陰鬱になる。学生たちは、私の講義なんか聞いていない。平気で私語を交わすし、携帯電話の不快な着メロがしょっちゅう鳴り響く。文句を言うと、不貞腐れて教室を出ていく。受講する学生の数が減れば、大学側の評価も低くなる。私はじっと堪え、学生の眠りや私語を妨げないように静かに講義を続ける。
 だいたい、私の教えている日本古代の法制史など、今の学生に興味があるはずがない。律令制度が解かって、今の社会にどんな役が立つというのだ。とくに私の教える三流大学の学生には、百パーセント無意味な授業と確信できる。何か途方もない時間の浪費を続けているような気がする。それでも大学に行かねばならない。私自身が食うために。そうなのだ、学生に教えることよりも、私自身が生活するための授業でしかないのだ。

 日々虚しさがつのる。このままで老いていいのだろうか。食うためだけの学問。学生に教える意味。考えれば考えるほど落ち込み、さらに虚しさがつのっていく。
 気分を変えてみようと思い、もう一度白い靴を履いてみた。白い靴を履いていた頃の方が、私の心の状態は健康的であったような気もしたからだ。
 下駄箱の奥から白い靴を取り出した。黴臭いだけでなく、実際に黴が生えていた。よく拭き取り、クリームを丹念に塗った。足をつっこんでみる。懐かしい履き心地である。
 その日、授業は一コマ目からだった。朝のラッシュ時の電車は大嫌いだ。しかし、仕事とあればでかけねばならない。
 家から駅までは、徒歩十五分。重い気分を引きずりながら歩いた。
 ホームにのぼり、電車を待った。間もなく満員電車がやってくる。その電車を待つ行為がたまらなく虚しい。
 みんな、同じように待つ。能面のように表情もなく待つ。何も疑うことなく満員電車に乗り込むのだ。横にいるのはどんな相手か分からないまま肌を密着させて。かわいい女子高生と中年の口の臭い変質者も、ぴったりと身体を寄せ合って。便秘女も、胃下垂男も、ハゲもデブもアル中も……。
 私は、嫌になった。こんな生活は、もうやめたい。おしまいにしたい。
 電車はやって来る。乗り込めば、また大学に行くことになる。くだらない授業をして、学生どもの眠気を誘うだけだ。電車になんて乗り込みたくない。にもかかわらず、ひたひたと近づいて来る。
 構内放送が続く……。
「渋谷行きの電車がまいります。白線の内側にお下がりください……」
 電車が見えてきた。
 そうだ。もし今、線路に向かってジャンプすれば、何もかも終えることができるのだ。この嫌な気分から開放される。たったそれだけで、万事解決だ。なんて簡単な話だ。そう思った時、私の足は、ひとりでに線路へ向かった。
 躊躇することなく、飛び跳ねるような軽やかな足の動き。二歩、三歩、四歩……、それーっ。
 ホームの端からジャンプした。
 私をめがけて、電車はまっしぐらに突っ込んで来た。警笛と急ブレーキの金属音が、あたりの空気を引き裂く。駅のホームでは、人々の叫び声がする。
 これでいいんだ、これで。すべてが終わってくれる。
 その時だった。足先から沸き上がる不気味な含み笑いの声を聞いたのは。
『クツクツクツクツ……』
 その声で、私の身に起きた事態を了解した。次の瞬間、身体は電車と激突した。そして、意識は消滅した。

                 おしまい

雪男幻想

2008-10-22 05:55:06 | 小説
ヒマラヤに雪男? 捜索隊が足跡撮影、隊長は「確信」(朝日新聞) - goo ニュース

 雪男より、僕には雪女の方が好み。同じ幻想であるなら。
 ということで、以前の掌編小説をもう一度アップ。
 時間のある方は、どうぞお読みください。



 峠

 ラジオの天気予報は、大雪警報が発令されたことを告げていた。今夜から明朝にかけて猛烈な吹雪が続くらしい。
 ドライブインの親父は、俺の食いおわった食器をカウンターの奥へ押しやりながら、峠越えなんて無謀なことはよせと諌めた。
「……おめえのように気の短けえドライバーが、毎年一人か二人、あの峠で車ごと雪に埋もれて凍死してやがる。今夜のような大雪の日にかぎってな」
「俺は、無茶はしねえよ」
 どうせどこかにトラックを停め、一晩を過ごさなきゃならない。同じなら、峠に近い方がいいと考えていただけだ。翌朝、除雪車が入って通行可能になれば、一番に峠越えができる。
「荷は急ぎかい?」
「急ぎじゃねえけど、ちょっと訳ありで、早く帰りてえんだ」
「女でもできたのか?」
「ああ、腹ん中にはガキまでな。じつは明後日、女の実家に挨拶に行く予定なのさ」
「道理で光った顔してると思ったぜ。暴走族の悪餓鬼も変わったもんよなあ」
 そう言えば、もう七年になる。俺が頭だったゾクの仲間が、二十台のバイクでこのレストランの駐車場に集結したとき、親父はたった一人で仁王立ちになり、俺たちを叩き出そうとした。
 俺は、でかい態度をとるオトナが大嫌いだった。腕っぷしには自信があった。親父を血祭りにあげて仲間にいいところを見せようと思い、サシで勝負を挑んだ。親父は受けた。
 図体がでかいだけの中年男だとたかをくくっていたのが甘かった。親父は強かった。強すぎた。俺は、完璧にぶちのめされた。あとで知ったことだが、親父は前頭まで上った相撲取りだった。かなうはずがない。
 以来、ダチになり、暴走族から足を洗って長距離のステアリングを握るようになってからも、近くに来れば必ず立ち寄った。
「そうだ、おめえにプレゼントをやろう」
 親父は、直径五センチほどの黒くて丸い石ころを、ズボンのポケットから取り出した。
「なんだね、これ」
「カチ石ってんだ。これを持ってれば、勝負に勝ち、おのれに克てる。苦境に立った時には、きっとこいつが役にたつぜ。おめえの人生はまだ長いんだから、持ってるがいい」
「あんたの大事なものじゃないかい」
「人生で勝負することのなくなったわしには、もう用のないものさ」
 俺は、お守りや呪いのたぐいを、一切信じない。だが、親父の好意を無にしたくなかった。
「ありがとよ。結婚式をやることになったら、親父も呼ぶからな。じゃあ」
 俺は、竜の刺繍の入ったジャンパーを羽織った。
 店のドアを押し開けると、地吹雪の粉末が顔面に突き刺さった。
「ちくしょう、冷えてやがる」
 トラックまで、突っ走った。
 運転席に乗り込みキーを差し込む。まずはヒーター全開だ。
 ヘッドライトを点けた。ワイパーは軋みながらフロントガラスの雪を払いのけた。
 前方の光の先に女が立っていた。一瞬目を疑った。コートのフードで頭がすっぽり隠れ、顔つきはよくわからないが、歳は若そうだ。吹雪の真夜中に、女がたった一人でいるなんて、全くどうかしている。
 窓を明け、女に向かって叫んだ。
「どうしたんだ、こんな時間に」
 女は、問いには答えず叫び返した。
「このトラック、峠越えすんの?」
「ああ、そのつもりだ」
「乗っけてくんない?」
「この雪では、越えられるかどうかわかんねえぞ。それでもいいのかよう」
「いいわ」
「じゃあ、乗んな」
 俺は、助手席の方へ身体を伸ばし、ドアを開けてやった。

 女は、慣れた身のこなしで助手席によじ登った。身体についた粉雪が舞い散る。
 席に腰を下ろして、フードを脱ぎ、長いさらさらとした髪をかきあげた。肌は雪のように白い。瞳が大きく、唇は薄くて小さい。まるで日本人形を思わせる美人だ。
「ありがとう」
 ルームライトの下で、女は小さく微笑んだ。
「峠の向こうに帰るのかい?」
「まあね」
「家へ帰るんじゃねえのか?」
「さあ、どうかしら」
「どうかしらはねえだろう。変なやつだなあ。まあいいや、出発するぞ」
 ギアを入れ、アクセルを踏んだ。
 ふだんは夜中でも交通量の多い国道だが、さすがにこの大雪では走る車は少ない。
「おまえ、名前はなんてんだ?」
「ユキ。あんたは?」
「俺はジロー。おまえ、まだ未成年だろう」
「十七」
「若いなあ、おれより、八つも下じゃねえか。高校生?」
「ユキノセイよ」
「えっ? なんだって?」
「なんでもないわ」
「それにしても、エアコン、効かねえなあ」
 エアコンの温度は、二十七度まで設定を上げたが、いっこうに暖かくならない。外気が冷え込んでいるためだろうか。

 峠に近づくにつれ、吹雪は激しさを増した。民家はもう二キロほど前から途絶え、楢の木の樹林帯へさしかかっている。視界は、二十メートルとない。轍は雪で埋まり、路肩の判別ができなくなった。
「ちくしょう、轍がわかんねえや」
 俺は、ハザードを点けてトラックを停めた。
「どうしたの? もう進まないの」
「この先は無理だよ。しょうがねえ。天気の回復と除雪車待ちだ。焼酎でもやっか。おまえもどうだ?」
 座席の後ろからボトルを出した。小型冷蔵庫には、氷とサワーが入っている。ポットには湯も入っている。
「ううん、いらない」
「未成年だからって、遠慮することはねえ。あったまるぜ」
「お酒、好きじゃないの。それよりも、怖い話をしようかしら?」
 女は、俺を舐めるように見つめながら言った。
「怖い話って?」
「もうずいぶん前のことよ。この道で、わたしと同い年の少女の凍死体が見つかったことがあるの。雪の日の朝にね」
「へえーっ」
「少女は、前の晩、ヒッチハイクでトラックに乗ったんだけど、運転手に無理矢理犯されたの。そして、雪の降る峠道に放り出され、寒さに震えながら死んだってわけ。どう、可哀相でしょう」
「べつに。自業自得さ」
「違うわ。悪いのは運転手よ。決まってるじゃないの。少女は運転手を憎んだわ。憎しみのあまり成仏できなくて、少女は雪女になったってわけ。そして、トラックが来ると乗せてもらい、運転手を誘惑するの。抱かれると、身体の熱をぜーんぶ吸い取って凍死させるのよ。それが、雪女になった少女の男への復讐なの。怖いと思わない?」
 俺は、超能力もオカルトも全く信じない。妖怪や幽霊のたぐいなんて、もってのほかだ。
「マンガみたいな話はよせ。その雪女が、自分だとでも言うのかい?」
「そうよ、おお当たり。どう、雪女のわたしを抱いてみる勇気、ない?」
「相手が違うぜ。俺には女がいるし、間もなく生まれるガキもいる。抱いてもらうのは、おまえが好きになった男だけにしろ」

 俺は人並みに女好きだった。まして美人とあれば、据膳をむさぼり食うのは当然のことと心得ていた。誘われて断るような気障ったらしい性分でもない。だが、奇妙なことに、女を抱く気はまったく起きなかった。間もなく父親になるという自覚が、性格を変えたのかもしれない。
「変な人……」
「変なのは、おまえさ。俺は人に説教たれる柄じゃねえけど、節操だけは大切にしろよ。それにしても、このエアコン、ちっとも効かねえと思わないか?」
「べつに」
「それならいいが、朝まで長い。ひと眠りしときな。俺は焼酎の湯割を一杯やって、あったまって眠るから」
「ねえ、あんた、わたしのこと、本当に抱いてみたいって思わないの?」
「しつこいなあ。俺は、そういう男じゃねえって言ってるだろう」
「わたしのこと、かわいくない?」
「かわいいとかブスだとか、そんな問題じゃねえ。その気にならねえだけだよ」
「セックスしなくてもいいわ。ただ抱くだけで……」
 少女は、俺に身体を寄せようとした。俺は少女の肩を邪険に押し返した。
「いいかげんにしろ。俺は寝るぜ」
 焼酎を一気にあおってグラスを置き、毛布を上体にかけた。
「おまえも、毛布を使うんだったら、後ろにあるからな」
「あんたって、変わってるわ。初めてよ、あたしを抱こうとしない男なんて。わたし、もう降りる」
「降りるって、ここは山ん中だぜ。こんなところで外へ出たら、凍え死んじゃうぞ」
「死なないわよ。わたし、雪女だもの」
「まだそんなばかなことを言ってんのか。どうかしてるぜ」
「あんたは立派よ。いいカモだと思って乗ったけど、負けたわ。あんたは、きっといいお父さんになると思う。悔しいけど。じゃあね、次の助平なカモを探すから」
 女は、そう言ってドアを開けた。
 俺は、引き止めるために手を伸ばそうとした。しかし、金縛りにあったように身体が動かない。女は吹き込んで来た粉雪とともに、闇の中へ溶けるように消えてしまった。
 ドアが風で押されて閉まった。
 金縛りが解けると、女の座っていた席を触ってみた。その場所だけが、氷のように冷たく濡れていた。
 あいつは、本物の雪女だったのだろうか。
 効きの悪かったエアコンは、急に熱い空気を吐き出しはじめた。
 俺は、ふとドライブインの親父からもらった黒いカチ石のことを思い出し、ポケットから取り出してみた。それは、まるで雪のように真っ白く変色していた。
   
              おわりだ

救急車狂の時代

2008-06-23 10:01:42 | 小説
足代わり119番、救急車「予約」…非常識な要請広がる(読売新聞) - goo ニュース

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20080622-00000027-yom-soci


 以前このブログでごらんいただいた短編を、このニュースを機に再アップ。
 まあ、暇な方はお読み下さい。


  救急車狂

 二十一時十四分。
二階の休憩室のテレビで巨人対阪神戦を見ていたときだった。九回裏、二対二の同点、一死満塁でバッター高橋。まさに打席に入ろうとしたとき、救急指令のチャイムが鳴った。
「なんや、なんや」
「またかいな。ええとこやのに」
 俺たち三人の隊員は腰を上げた。
 通信指令室担当官の声が、スピーカーから流れる。
「救急指令、救急指令、横田町三丁目、怪我人発生。右手指切断とのこと。北町救急隊は、ただちに現場へ急行せよ」
「行きまんがな、行ったらええんやろ。ほんま、しょうがないなあ」
 隊長は、大きな声で愚痴を漏らす。
「ついてないですね。この分やと、巨人は負けますね」
 大阪人のくせに熱狂的な巨人ファンの隊長の横で、阪神ファンの俺は駆けながら、皮肉っぽく言ってやった。
「いや、ヨシノブは打つ。目えが、光っとった。サヨナラホームランとはいかへんでも、センター前の痛烈なヒットぐらい打ちよる」
 螺旋階段を一気に駆け降り、救急車に乗り込む。出動指令では手指切断の重傷とのことだ。たとえ完全に切断していても、病院へ大至急に搬送して縫合手術を行えば、元通りに癒着することもありうる。隊員の意気がもっとも高揚する局面だ。
 運転担当の俺は、エンジンを始動し、サイレンのスイッチをオンにした。
「右よし、左よし、後ろよし、発進」
 サイドブレーキを外し、アクセルを踏み込んだ。
 助手席の隊長は、無線マイクを手にした。
「こちら北町消防署救急隊。ただいま横田町三丁目に向けて発進しました。司令室、どうぞ」
「発進、了解しました。で、ですね、出動要請の通報者は、たいへん言いにくいんやけど、横田団地六号棟の秋野春子です。まあ、トラブル起こさんように、よろしくお願いします」
「えーっ、なんやねん、またですか。子供が指を切断したなんて、シャレにもならんこと言うてんのでしょう」
「まあ、そんなとこや。すっぱり切れて血が止まらへん、と、半狂乱なんやけど……」
 「了解しましたよ。いちおう行って見ますけど、どうせ、引っかき傷程度とちゃいまっか?」

 俺は、秋野春子と聞いただけで、ハンドルを握る腕の力が抜けていた。
 彼女は、消防本部のブラックリストのトップにランクされている最悪の常習者だ。子供が生まれた二年前からの出動要請は、すでに五十回に及ぶ。俺が消防から救急に転属したのは三か月前だが、彼女への出動はもう五回目だ。
 通報するのは、たいがい夫が不在のとき。子供が夜泣きや微熱などで様子が少しでもおかしいとパニックに陥って、一一九番に電話をしてしまうのだ。
 近頃は、秋野春子のように、ろくに子育てのできない親が増えている。その典型は、子供への虐待だ。ひと月ほど前には、父親から殴る蹴るの虐待を受け、チアノーゼになった全身痣だらけの幼児を搬送したことがあった。あと三十分搬送が遅れていれば、確実に命を落としていたところだったと、医師は言っていた。それに比べればまだましではあるが、親としての資質の欠如は明らかだ。
 もちろん、消防本部としても常習者対策を大きな問題と捉えていた。係官を秋野春子の自宅に派遣して、無駄な出動要請をしないように何度も指導を繰り返していた。しかし、結果は推して知るべしだ。
 そもそも、救急制度にも問題があった。たとえ常習者からの要請であっても、イソップの『嘘つき羊飼い』の寓話のように、本当に狼が現れる事態は十分起こり得る、という問題だ。その万一のケースを見逃すことを、消防署としては恐れていた。恐れるあまり、常習者からの通報であっても無視することができなかったのだ。
 現場に出動して軽傷と分かっても、相手が搬送を要求している限り、我々は拒否できなかった。傷病の軽重の診断は、医師以外に下せないからだ。消防法などでは、虚偽の通報防止のために罰則をもうけている。しかし、傷病の場合、診察では軽くみえても、心因性や原因不明の痛みなどが現実にある限り虚偽と断言できない。したがって、処罰の対象となりにくかった。
 俺たちが無駄足を踏んだというだけなら諦めもつく。問題は、常習者への出動の際に急患が発生し、他の消防署から応援を頼まざるを得ない時だ。距離の離れているぶん搬送が遅れ、それが文字通り命取りになる、という事態も、表沙汰にはなっていないが現実に起きていた。


「あんなやつ、絶対に断るべきですよ」
 俺は、強く隊長に言った。
「そうしたいとこやけど、わしらは医者やないさかいなあ」
「救急隊員は、消防とちごておとなしすぎるさかい、やつらはつけあがるんですよ。どうせ大した知恵のある連中やない。ガツンと一発かましてやったらええんや、ガツンと」
「まあ、そうは言うても……」
「本人が、要請を取り下げざるを得んように持って行ったらええんです。ぼくがやってみます。隊長より、口は達者でっさかい」
「そやなあ、いつかは断ち切ろなあかん問題やし、ダメモトでいっちょうやってみるか」
 隊長は、あまり気乗りはしないようだが、俺の激しい口調に押されて頷いた。

 何度も足を運び、勝手を知った団地だ。大通りから左折して、六号棟の方向へ車を進めた。いつものように、駐車場脇の街灯の下に、子供を抱きかかえた秋野春子の姿があった。
「遅かったやないか。はよ病院で手当てせんと、この子死んでしまうやないか」
 救急車を近づけると、秋野春子は金切り声をあげて駆け寄り、俺たちにいいつのる。
「子供が、指切ったなんて、ほんまかいな」
 俺は、わざと相手をじらすようなのんびりした口調で言った。
 秋野春子は、泣きじゃくる子供を胸に抱きしめたまま、その手を掴んで俺たちに示した。指には大げさなガーゼが巻かれていた。
「ほれ、ここや、ここ、血イ出たんや、いっぱい」
 隊長はガーゼを取って、マグライトでその指を照らした。傷らしいものは見当たらない。
「怪我なんかしてへんやないか」
 俺は、厳しく決めつけて言った。
「何ゆうてんの、ここや、ここ、ぐっさり切断しとるやろ」
 目を皿のようにして見ると、たしかに長さ一センチほどの引っ掻き傷がある。おもちゃの端で引っかくかどうかしたのだろう。むろん、とっくに血は止まっていた。
「なんや、こんなもん、バンドエイドもいらんぐらいや」
「嘘や、これ、よう見てえな、血イついとるやろ。だらだら出たんやでえ」
 目を皿のようにして見ると、確かにガーゼに二、三滴の小さな赤い斑点があった。
「アホ臭いこと言わんとき。こんなんで病院へ行ったら、医者に笑われるでえ」
「バイ菌が入って、破傷風になるかもしれへんやないか」
「ならへん、ならへん」
「なんで、あんたらに分かるんや。医者やないくせに……」
「医者とちごてもよう分かる。こんなしょうもない怪我で、よう救急車を呼ぶなあ」
「しょうもないとはなんや、しょうもないとは。うちの子の命がかかっとるんやで。もし死んだら、どないしてくれるんや」
「絶対に死なへん」
「あんたの保証なんかいらん。医者に診て欲しいんや」
「それやったら、救急車なんか呼ばんと、歩いて行ったらええやろ。救急車は、一刻を争う病人やら怪我人のためのもんや」
「こんな夜中に、どこの医者が診てくれるゆうねん。救急車が頼りなんや。救急車で行くさかい、診てくれるんやないか」
「あかんちゅうもんは、あかん。それになあ、こんなことで救急車を何度も呼んどったら、そのうち処罰されるで。嘘の通報をしたもんは、逮捕されるんや。留置所に入れられたら困るやろ。もう諦めて、家に帰っとき。どうしても心配やったら、明日の朝になって医者へ行って十分やさかい」
「ああ、そうでっか。あんたら、市民の命がどうなってもええんやな。市長に言いつけたる。情けもなんもない、殺人鬼のような救急隊員やゆうて……」
 秋野春子は、急に開き直った。


 その目は完全に座っていた。危ない表情だ。だが、ここでひるんでは、彼女の思うつぼだ。俺たちはお灸をすえる意味でも拒否した。
「市長は相手にせえへん。それより、子供のためにも家に早よう帰りなさい」
「鬼……。あんたら鬼や。人殺しや。殺人鬼や。ああ、ええわ、もう頼まへん。なんやねん、偉そうに、うちらの税金で養のうてもろとるくせに……」
「鬼で結構や。署への報告は、たいした怪我やなかったから収容を中止したことにしといたげる。念押しとくけど、嘘の通報やったら、逮捕されることになるんやで。また一一九番に電話しても、もう来やへんさかいな」
 常習者は、一種の依存症である。アルコールやギャンブルの依存症と同じで、甘やかしてはいけない。荒療治が必要だ。いつかは断ち切る必要がある。
「もっと大きな怪我やないと、病院へ運ばへんゆうんやな」
「まあ、そう言うこっちゃ、救急車は」
「わかった、もうええ。目障りや、帰れ」
「ほんまに、わかったんやな」
「ああ、ええ、早よ行ってしまえ……」
 泣き叫んで懇願してくるかと思ったが、意外に簡単に引き下がった。
 もういいと言う相手のそばに、いつまでもいることはない。俺たちは引き返すことにした。
 憎しみに満ちた視線を背に受けて、救急車に乗り込んだ。なんとなく危険な予感めいたものがあったが、俺たちとしてもあとへ引けない。俺はサイドブレーキを外した。
「変なこと考えんときや。もう、行くでえ」
 発進の時、隊長も声をかけた。
 俺は、アクセルを軽く踏み、団地の出口までゆっくりと救急車を走らせた。
 秋野春子は、子供を抱きしめたまま、車を追うようにつけてきた。バックミラーには、街灯に照らされ、異様に思い詰めた表情が映る。ちょっとお灸がきつかったかなと思ったが、彼女のためでもある。ここは非情になるべきだ。
 団地の入り口から大通りへ出るため、一時停止して左右を確認した。
 右手から、猛スピードでタクシーが走ってきた。やり過ごしてから、救急車を通りに出そうと思った。
 その時だ。
 秋野春子が、信じられない行動に出た。歩道の端まで駆けて行き、子供を走ってくるタクシーに向かって放り投げたのだ。
 急ブレーキの音と鈍い衝突音が同時に暗闇を引き裂いた。
 人形のような小さな身体が、大きく宙を舞い、団地の植え込みに落下した。
 俺は全身が凍りついてしまった。
 歩道の端には、こちらを睨みつけて立ち尽くす秋野春子の姿があった。
 彼女は、俺と視線が会うと、般若のような目をじっと見開いたままひたひたと近づいてきた。そして、喉の奥から声を絞り出した。
「どうや、これやったら、うちの子、病院へ運ぶのに、文句ないやろ、文句ないやろ、文句ないやろ、はよ運んでええな……」

       おわりだ、この野郎め!
                                 


消滅のとき

2008-03-31 10:35:25 | 小説
「加速器で地球消滅」と提訴 ハワイで米の元政府職員ら(共同通信) - goo ニュース

   ブラックホール伝説に捧げます

 直径一・二メートル、高さ九十センチの円筒状の壕。それが、生き延びるために俺に与えられた空間だ。ガラス質の壁面に背中を押しつけ、俺はじっと待っていた。命に終わりの時がやって来るのを。
 腹が減っていた。立ち上がる体力も気力も、とうに失せていた。かれこれ十日、壕の底に溜まった雨水以外に何も口にしていない。ボウフラでさえ住むのをためらうような、どす黒く汚れた雨水以外に。
 まわりには荒涼とした瓦礫の山が続く。崩れた積み木のように倒壊した建造物、スクラップになった車、折れ曲がった高圧線の鉄塔と切断された電線……。文明の遺物の数々が、巨人のおもちゃ箱をぶちまけたように散乱していた。
 生命の気配は、どこを見渡しても見られなかった。かつて、街のいたるところでうるさいほど鳴き叫んでいたカラスも、街角を徘徊していた野犬や野良猫も、すべて飢えた人間によって撲殺され、食いつくされたからだ。
 食料がなくなると、人々は自分だけの壕に貝のように閉じこもり、地上から姿を消した。不用意に外へ出た連中たちは、何者かに背後から襲撃され、餌食にされた。
 絶望と疑心暗鬼が支配する瓦礫の都市の下には、厚い鉛の扉で封印された地下シェルターがあるという。そこには、富める者だけの腐りきった世界があるはずだ。オレンジ色の人工太陽が、こうこうと照りつける地下の世界。奴らはそこで、合成保存食M32をたらふく食らい、酒池肉林の享楽に酔いしれているにちがいない。たるんだ腹の贅肉を揺すらせ、ステーキやサラダの風味を模したコロイド状のM32を、クチャクチャと大きな音をたてながら食らいつく奴ら。口の臭い権力者どもは、満腹すれば、口臭の百倍も臭いゲップをあたりにまき散らしていることだろう。
 富める者以外は、あの日を境に生き延びる手だてを失った。たった一日のたった一回の出来事。たった一人の独裁者のほんのちょっとしたわがまま、気まぐれ、もののはずみが、数十億年かかって進化を遂げた、地球生命の頂点を占める種を滅ぼそうとしているのだ。シェルターに逃げのびた、ひと握りの連中を除いて。
 だが、地下の連中にしたところで、死に絶えるのは時間の問題だ。体内の生殖遺伝情報は破壊され、子孫を残す能力は奪われてしまったのだから。奴らが死ねば、ヒトという種は絶滅する。
 ひもじかった。ひもじさと孤独で、俺の身体は冷えきっていた。百舌のハヤニエとなった虫けらのように、干からびた寂寥感が俺の全身を覆う。幼い日々の出来事の数々が、脳裏をよぎる。

 俺の子ども時代……。
 草木は繁茂し、鳥や蝉の鳴き声が山野にうるさいほど響きわたっていた。澄んだ小川には、コブナやメダカなどの小魚が泳ぎ、公園にはレンギョウやソメイヨシノやコスモスなど、様々な花が四季を通して咲き誇っていた。
 赤ん坊の頃の俺の頬は、プリンの表面のように艶と弾力があったはずだ。その頬に、心地よさそうに頬ずりする母。力一杯の抱擁。母親の乳首に吸いつく、まだ歯のない口。舌を巧みに動かし、母乳を吸い取っていく。
 そうなのだ。こんな俺にも、母親のおっぱいにむしゃぶりつき、両親の脛を齧っていた幼い時期があった。あどけない表情で笑い、泣き、甘え、愛情をいっぱいに受けてすくすくと育っていた時代が……。
 あくまでも優しい母親だった。焼け火箸を背中に押しつけたり、棕櫚縄で柱に縛りつけたり、箒や牛革の鞭で尻を引っぱたいたりはしなかった。もちろん、素っ裸にして雪降る戸外に放り出したりしなかった。
 俺は、何度も繰り返し、親の脛を齧った。舐め、しゃぶり、齧った頃の、あの舌触り、歯ごたえが懐かしく口許に蘇ってくる。
 母親の脛はやわらかく、ザクロのような甘酸っぱい味がした。強く噛むと、鉄さびのような血の匂いが口の中いっぱいに広がった。
『そんなに強く齧るんじゃないよ。やさしく齧ってね。あわてなくても、脛は逃げたりしないからね……』
 母親は、春の空の綿雲のように穏やかな表情で俺に言ったものだ。
 父親は脛に傷もつ身だった。時折、膿が傷口から松脂のように滲み出した。膿の匂いを嗅ぎつけてハエが集まり、卵を生みつけた。やがてそこに、米粒のような形の蛆がわいた。それを舌先で上手に舐め取っていく。噛み潰すと、プチンと音がして弾け、汁が口の中いっぱいに広がった。蛆の体液には、苦みと香ばしさの入り交じった独特の風味があった。俺は、蛆のわく夏が楽しみだった。
 脛……。
 それは、文字通りのおふくろの味であり親父の味であった。心の飢えを癒してくれる魔法の舐め薬であった。

 そうなのだ。
 そうではないか。
 何てことだ、その手がある。
 俺はとんでもない大発見をしてしまった。
 脛は俺にもくっついている。二本の足があり、その膝と足首の間に、脛があるではないか。自分の脛を齧ってしまえばいいんだ。そうすれば、当座の空腹をしのぎ、何日かでも命を延ばすことができるはずだ。飢えた蛸は、自分の足を食って生き長らえ、雌のカマキリは交尾中の雄を食って自ら生きるための栄養源にすると言う。その手がある。じつに簡単な方法ではないか。まさに瓢箪から駒、コロンブスの卵である。
 俺はほくそえみ、自分の脛に口を近づけた。汗と垢の発酵したような匂いがした。腐敗した生ゴミの匂いにも似ていた。表面は、厚い垢のファンデーションに黒々と覆われ、地肌が隠れてしまっていた。そう言えば、思い出せないほど以前から風呂に入っていない。小川で洗ったこともない。我ながら、舐めるのには勇気が必要だ。
 だが、躊躇は停滞を生むだけだ。もし垢に含まれている病原菌や毒素によって死んだとしても、いまさら驚くことはない。俺はすでに死にかかっているのだから。
 舌先を突き出して、ちょこんと舐めてみた。
 黴の生えたスルメのような塩味がした。舌触りは悪くない。思い切って、べろんと舌全体で舐めてみた。発酵が進んでいるためか、酸味もある。少なくとも、壕の底の濁った雨水よりはましな味だ。
 一口、皮膚を齧りとって、よく味わいながら咀嚼した。生臭さはあるものの、靴底や泥を食うことを思えば、はるかに御馳走だ。砂を噛む思いに比べれは、精神的にも健康な感じがする。
 俺は飢えていた。もう一口、肉を多めに齧ってみた。噛みちぎり、こんどはほとんど咀嚼せずに胃袋に押し込んだ。
 わずかではあるが、空腹をまぎらわせることができた。もっと食べれば、さらに腹が膨らむに違いない。血のしたたる脛に、飢えた鰐のように大きな口をあけて、もう一度齧りついた。
 脛肉を骨ごとばりばりと噛み砕き咀嚼した。血の風味が口の中に広がり、軽い目眩いを覚える。同時に、溶けるような恍惚感が全身を包みこんでいく。
 なかなか味わいがあった。病み付きになる味覚。
 食べはじめると止まらなくなった。足先を食い、膝を齧った。骨も強引に噛み砕き、咀嚼した。腿も腕も、痩せ細っているわりにはいい味だった。やわらかい肉は、ほとんど咀嚼せずに飲み込んだ。かつて蛮族の間に人食いの習俗があったと言うが、納得できる。自分の身体がこんなに美味しかったなんて、まさに灯台もと暗しだ。
 十日分の飢えを満たすため、俺は夢中になって食った。食べるにつれ恍惚感は高まっていった。そのまま昇天しそうな陶酔感……。
 尻を食い、臍を齧って腹の肉に食らいついた。臍を噛んだところで、後悔の気持ちは起きなかった。
 内蔵を食った。直腸から大腸にかけては、吐き気をもよおすような汚物の匂いがした。生っぽいモツ煮の匂いだ。肝臓や膵臓には、金属を噛んだ時のような独特の風味があった。胆汁の苦さは、漢方薬を思わせた。
 肋骨は、ほかの骨に比べると柔らかかった。。その内部の肺は、海綿を噛むような頼り無さがあった。決して美味くないが、食ってみると妙に味わいがあった。

 食い進むにつれて、気分は高揚した。
『肺を食ってハイな気分になった……』
 なんてつまらない駄洒落を思いついたが、喋っても聞いてくれる相手はいない。ひとりで漏らす屁と同様で、口に出しても虚しさがつのるだけだった。
 身体はしだいに軽くなり、同時に意識は希薄になっていく。自分を失ってしまいそうな予感に襲われる。
 食欲はとどまるところをしらない。自分の肉体の味を覚えると、自制心なんて吹き飛んでしまう。ブラックホールが際限なく宇宙の星ぼしを飲み込んでいくように、俺は俺自身を貪欲に飲み込んでいく。
 肩の肉を食い、鎖骨を齧って、首に食らいついた。
 耳たぶを食った。何も聞こえなくなった。
 目玉を食った。何も見えなくなった。
 鼻を食った。何も匂わなくなった。
 意識はますます軽くなっていく。
 最後に残った口までぺろりと平らげてしまった。その瞬間、俺の肉体は消え、同時に、意識も完全に消滅した。
 そして、永遠に続く無が始まった。

                   おわり

人は時として理性を失うが

2008-03-29 17:23:18 | 小説
バスで携帯、注意され死なす=10分間暴行、乗客30人止めず-三重・松阪(時事通信) - goo ニュース

 人は理性を失いやすい。
 興奮すると。
 で、こんな不幸な事態に。

 以前書いた小説をいっぺん。

 
    メダカ

 横浜市と言っても、私の住む北西部のはずれには、田園風景がまだ残っている。鶴見川の支流に沿って水田が広がり、道端では庚申塔に彫り込まれた青面金剛が、行き交う人々をじっと睨みつけていたりする。そんな小道を散策するのが、私の休日の楽しみだった。
四月の半ば、レンゲがそろそろ見頃ではないかと思い、丘陵の谷戸田の方へ足をのばしてみることにした。
 三面をコンクリートで固めた用水路に沿って農道を遡っていくと、道路のコンクリート舗装が途切れる。その先は、昔ながらの未舗装の農道で、用水路も昔の小川ふうに石積みの護岸になる。川底には泥や小石がたまり、水際には青々とした芹の葉が背丈を伸ばしていたりした。
 水は澄んでいた。丘陵の湧き水を水源としているのだろう。上流の高台には住宅地もあるが、下水道の整備によって排水が流れ込むことはなくなっているようだ。
 小川に沿っていくと、ちょっとした淀みがあった。幅はおよそ七十センチ。深さは十五センチほどだろうか。そこに動く小さな影を見つけた。
 まさか、と思った。しゃがみこんでよく見ると、そのまさかだった。メダカが泳いでいたのだ。横浜の鶴見川水系では、とっくに絶滅していると聞いていた。環境省のレッドデータブックには、全国的にも絶滅危惧種として記載されていたりする。その希少種が、こんな場所に生息していたのだ。
 メダカは、私の子供の頃にはどこの小川でも見かけた。急速に消えていったのは、昭和三十年代の後半から四十年代にかけてのことだ。農薬の普及や用水路の整備で、生息に適した淀みのある小川が減ったことによるのだろう。それがこんな場所に生き残っていたなんて信じられない。口元からおのずと笑みがこぼれるのを感じた。
 五十男が、腰をかがめて小川を覗き込んでいる図は、あまり見ばえのいいものではない。だが、つい見とれてしまう。動きはじつに面白い。数匹の群れが、流れの中で隊列を組んだまま、一か所にとどまって泳いでいる。かと思うと、一瞬、何かのきっかけで全員が揃って移動する。まさに童謡のメダカの学校の世界だ。
 人の気配に気づいて目を上げると、私から一メートルほど離れた場所に、同年輩の男がしゃがみ、やはりメダカを覗き込んでいた。
 男も顔を上げた。目が合った。
 私は軽く会釈した。男も会釈を返し、声をかけてきた。
「メダカをごらんになっていたのですね?」
「ええ、つい懐かしくなってね」
「いいですよね、メダカは。体は小さいくせに、小川で泳いでいると、なんていうか、風格のようなものがありますもんね」
「こんな場所にいたなんて、感激しました。てっきり絶滅していたと思っていたんで」
「そうなんです。横浜近辺では、多摩川水系でも、相模川水系でも、ほぼ絶滅したと考えられています。鶴見川水系でも、ここ二十年ばかり、全く記録がないようです」
「よくも生き残っていたものですねえ。こんなちっぽけな水路に」
「驚いたでしょう。ほんとにいいと思うでしょう」
「ええ、いいもんですねえ。やっぱり、なんていうか、メダカが泳いでいることで、小川が小川らしく引き締まってみえますものね」
「あなたもそう思うでしょう。このメダカ、じつは、ここだけの話だけど、私が放流したんです」
「えっ? なんだ、そうだったんですか」
 私は、男の顔を見つめ返した。同時に、笑いがこみ上げてきた。相手も吹き出した。
「そうなんですよ。ハッハッハッ」
「これはいいや、すっかり騙されましたよ。あなたが放流ね。ハッハッハッ……」
「私は四国の高知の生まれでしてね、子供の頃は、ずっとメダカを見て暮らしていたでしょう。小川にメダカがいないと、散歩していても寂しくって。だから、田舎からメダカを取り寄せてね、自宅でどんどん増やし、ここ一年ほどで二百匹ばかり放流してきたんですよ。いまじゃすっかり、この小川の主みたいでしょう」
 男は、自慢げに言った。
「変だとは思っていましたけどね。でも、メダカはいいものですねえ」
「小川にメダカがいないなんて、クリープを入れないコーヒーみたいなものですからな」
「いやあ、おたくも例えが古いですなあ」
「古い人間は、みんなメダカに思い出があるもんですよ。高知ではアブラコって呼んでいたんですがね。よくアブラコ採りをしていて、お百姓さんに叱られましたなあ」
「わたしもです。よく叱られました。私の田舎は富山の砺波平野でしてね、やっぱりメダカがたくさんいました。田植えをしたばかりの田んぼに網をつっこんでいたら、お百姓さんにとっつかまって、うんと油を絞られたりしましたよ。あの時はおっかなかった」
「そんな悪さも、今の子供にはできないのですね。なんだか、可哀相になります」
「小川は、もう子供の遊び場じゃなくなりましたからね」
「わたしは、子供たちに捕られる分も見越して、たくさん放流しているんですけど、今の子供には、メダカの魅力がわからないのでしょうかね。採りに来るどころか、小川で遊んでいる姿すら見かけませんものね」
「最近の子供は、そもそも外で遊ばなくなりましたからね」
 そんなメダカ談義をしているときだった。小川の下流の方から、ねずみ色の上下の作業着を着た男が、水辺を観察しながら近づいて来た。
 歳は三十前後だろうか、長靴を履き、ノートのようなものを手にしている。何かを調査しているのであろう。
 我々のところから数メートルの距離まで近づくと、水面を覗き込みながら独り言のように言った。
「こんなとこにもいたよ。あーあ、ほんとに困ったもんだ」
 どうやら調査の対象はメダカのようである。
「メダカのことですかね」
 高知出身の男は、怪訝そうに口を尖らせて言った。
「ええ、どこかの馬鹿な人が、よそからメダカをもってきて放流しているんですよ」
「放流したらいけないのですか」
「これは、鶴見川水系のメダカじゃないんです。ヒレの形状から見ると関西系で、四国の亜種のようなんです。そんなことも知らないで、ほんとに馬鹿な人がいるもんです」
「馬鹿な人、馬鹿な人って、その言い方はないでしょう。放流したのは私なんだけど」
「えっ、あんた。そりゃちょうどいいや。あんたの責任で全部捕まえて、持って帰ってくださいよ」
「おいおい、冗談じゃないよ。このメダカ、ひっ捕まえて持って帰れだと。あんた、いったいどんな権限でそんなことを」
 高知出身の男の表情は険しくなった。
「ぼくは、市の環境調査をしているもので、ともかくまずいんです。早急に持って帰ってください」
「嫌だね。メダカも住めないような川を作り出したのは、馬鹿な役人どもと違うのかね。それを棚にあげて、ふざけんなってんだよ。あんたこそ、とっとと消えちまいな」
 高知出身の男は今にも殴りかからんばかりの鼻息である。私はその中に割って入った。
「まあ、いいではないですか、横浜に四国のメダカがいたって。ブラックバスのように、ほかの魚を食い荒らしたりしないんだし」
「そういう問題じゃないんだよ。わからない人たちだなあ。メダカはね、地域によって変異が激しい魚なの。そこへ、こんなよそのメダカを勝手に持ち込まれれば、生態系は攪乱されて目茶苦茶になってしまうって言ってんの。学術上、まずいって言ってるんだよ」
「このへんには、もうメダカはいないんだろう。絶滅した環境で攪乱もへちまもねえだろう、このボケが」
 高知出身の男は、口調をさらに荒げた。
「どこかに、ひっそりと生き延びているかもしれないじゃないの。そのメダカが、四国のものと交雑してしまえば、本来の自然と言えなくなる。いや、それ以前に、鶴見川水系でメダカが絶滅していたとしても、その事実が確認できなくなるわけで、学術的にみると……」
「そんな堅いこと言いなさんなよ。ごらんなさい、いいじゃないですか。メダカたちがすいすいと泳いでいるだけで、小川が生き生きとしてみえませんかね」
 私は、また横槍を入れた。
「ぼくだって、メダカが復活して欲しいです。でも、四国のメダカは本来横浜にいてはならないものであって……」
「金魚やグッピーじゃねえんだ。こいつはメダカだよ。四国産のメダカがこの小川に住むのがまずければ、四国生まれの俺が、横浜で暮らしちゃいけないってことかい。俺に横浜から出て行けってのかよう。横浜には、横浜生まれの人間でなきゃ住めないのかよう」
「何も、そんなことはいってない。ぼくは調査報告書を出す必要があったもので、確認したかっただけだよ。メダカは環境の指標にもなるから、ここにいてくれた方が本当はいいんだけど」
「本当はいいだって。いいと思ってたら、それでいいじゃないの。小川には、メダカがいるべきなんだよ」
 私も口をはさんだ。
「でも、横浜では絶滅したと学会では常識になってるし、出版物でも絶滅したことになっているんです。学術上メダカはここにいちゃいけない魚なんです」
「てめえ、どこまで馬鹿なんだ」
 高知出身の男は語気を荒げる。
「馬鹿とは何です」
「馬鹿と先に言ったのは、てめえのほうじゃないか。市役所の回し者か知らないけど、てめえのようなうすら馬鹿の御用学芸員だか研究員だかがいるから、日本の環境はよくならねえんだよ。小川にメダカがいた方がいいに決まってるんだ。それが真実だ。学問もへったくれもあるか、このうすら馬鹿が」
「うすら馬鹿の御用学芸員だと。言わせておけばいい気になって。あんたのような低脳で無知蒙昧な市民こそが、日本の環境を台無しにしてきたんだ。もう許せない。ここのメダカなんか、全部殺してやる」
 若い男は、小川の中に飛び込み、長靴の足でメダカのいる水面を踏み散らした。水しぶきがあがり、足元がにごった。
「この馬鹿野郎が、おれのメダカになんてことしやがる」
 高知出身の男は、小川に飛び込み、若い男に掴みかかった。
「こんなメダカ、みんな死んでしまえ」
「てめえこそ死んじまえ。ぶっ殺してやる」
 高知出身の男には格闘技の経験があるのか、腕を決めて若い男を水の中に倒した。そして体を預けて押さえ込んだ。
「いててて……」
「てめえなんか地獄行きだ。こんちくしょう。俺のメダカをコケにしやがって」
 高知出身の男は、決めた腕を返して、若い男の体をうつぶせにした。左腕を巧みに使い、頭を水面に押し付ける。顔は、深さ十五センチほどの水中に沈められた。
「ううう……」
 若い男は、手足をばたばたさせるが、完全に体を決められ、高知出身の男から逃れることはできない。このままでは、本当に若い男は溺死してしまう。
「もうよしなさい。十分でしょう」
 高知出身の男の肩に手をかけ、若い男から離そうと試みた。だが、若い男を押さえ込んだまま、岩のように固まっていた。まるで鬼神の力でも宿ったかのようにびくともしない。
 口の中では、呪文のように短いことばを叫んでいる。
「ぶっ殺してやる、死んじまえ、この野郎、くそ馬鹿が、死ねーっ」
 下の若い男は、手足の動きをぴったりやめた。それでも高知出身の男は体固めの手を緩めようとしない。理性の箍がはずれ、自制が効かなくなっているのだ。
 若い男が死んだら大変なことになる。
 私は動転していた。なすべきことがわからなくなくなってしまった。目の前で殺人が起きようとしているのだ。ともかく、高知出身の男を、どんなことがあっても若い男から離さなければならない。事態は一刻一秒を争う。
 周りを見渡した。水辺に直径二十センチほどの石があるのが目に入った。私はそれを無意識のうちに手にしていた。そして両手で大きく持ち上げ、高知出身の男の頭の上に振り下ろした。
 ぐしゃっと、頭蓋骨が割れる感触があり、高知出身の男は若い男の上にスローモーションのように崩れ落ちた。
 その頭からは血が噴き出し、小川を真っ赤に染めていく。
 丘の中ほどの木の上で、ハシボソガラスがだみ声で二つ大きく鳴いた。
「アホーッ、アホーッ」
                 おわり

産科医になるなんて

2008-01-20 22:08:42 | 小説
産科医不足で舛添厚労相「政府全体で追加対策検討」(読売新聞) - goo ニュース

 何? オレに産科医になれ、だって。
 冗談じゃねえよ。ごめんだね。
 そりゃさあ、子どもの誕生は感動的かも知れない。
 でも、あれは医者の仕事じゃねえ。
 助産婦で十分なのさ。
 そう、出産は病気ではない。通常分娩ならね。
 医者の出番じゃないんだ。

 それになんだね、万一事故でもあって見ろ、家族が医療ミスで訴えたりしやがる。出産時の事故ってのは、戦前の時代に比べれば圧倒的に少なくなっている。
 昔は産後のヒダチが悪くて死ぬケースは多かったし、死産もしょっちゅうあった。今では考えられないほどの頻度だった。

 今はめったに不幸なケースは起きない。が、事故はつきもの。医者といってもパーフェクトな人間ではない。たまには小さなミスを犯すことがある。
 その小さなミスが、ひょんなことで増幅され、不幸なケースにつながることも。
 そんな時、医師は医療ミスを追及され、福島のケースのように刑事被告人になってしまうことも。
 こんなのは嫌だね。
 そうさ、産科医なんてなっちゃ損だ。
 なるべきではない。

米子教え子暴行事件

2007-12-09 13:25:06 | 小説
元教え子と気付かず暴行 容疑の教諭らを逮捕 鳥取(朝日新聞) - goo ニュース

 こういう事件があると、小説のネタにしたくなる。本人たちにとっては災難であろうが、周りで見ているぶんには楽しいものだ。
 いわゆる野次馬。野次馬には責任がない。とくに米子という遠い街で起きた事件。小生は関わりようがない。

 酒に酔うと、前後の見境がなくなったり、判断力が失われたり。で、失敗はつきもの。
 酔った勢いで済むこともあれば、取り返しのつかないことも。このケースは後者。
 ひとりは学校の教師。これは非常にまずい。生徒に指導する立場で、警察のお世話になってるようでは、もうアウト。
 もうひとりの双子の弟。社会福祉協議会の職員。まあ、準公務員。
 社会的には立派な職業。弱い立場の人を助ける仕事。小生のようなでたらめ人生のフリーターとはわけが違う。
 しかも40前の立派な大人。
 それがまるでヤクザのような因縁のつけ方。これはいったいどうしたことか。

「おい、てめえら、さっきからじろじろ見やがって。何か文句あるのか」
「いえ、別にそういう意味では」
「そういう意味でなかったらどういう意味だよ、このボケが」
 ボカッ
「いてて、なにするんですか」
「なにもヘチマもナスビもあるか」
 ボカッボカッ
「痛いじゃないですか」
「痛い? こんな程度で痛いとはなんだ」
 ボカッボカッボカッボカッ
「やめてください、暴力はいけません」
「こんなの暴力のうちに入るか。暴力とはこういうことを言うのだ」
 グシャガシャグギッ
「わあー、やめてください、センセ、やめてください」
「センセもマンセもねえ、ぶっ殺してやる」
 
 と言うわけで、体育のコワモテセンセは、弟とよってたかって元の教え子を袋叩き。
 
 酒が冷めると、なんと留置所の中。
 唖然愕然悄然慄然の、究極の反省猿状態。
「なんてことをしてしまったのだ。あああ、おれの人生はおしまいだ」

 懲戒免職、失業、賠償金、治療費、慰謝料、再就職の道への絶望
 生活不安、家族離散、ローンの完済不能、
 借金地獄、ホームレス生活、野垂れ死に

 様々な思いが留置場の鉄格子の中で
 まるで走馬灯のように回転し、
 目がくるくる回る三半規管の自爆テロ。

「校長センセ、大変です。松本センセが暴行で捕まって」
「なに、膀胱が詰まった? おしっこが出なくなったのか?」
「いいえ、暴行、暴力ですよ」
「なに、暴力。それはいけない。で、誰を血祭りにあげたんだ」
「血祭りではなく、ただの暴力ですよ」
「ただの暴力だって。ただなら問題はないのだろう」
「問題はおおありの有田焼きですよ」
「おおありの有馬温泉ではないのか」
「おおありの有馬稲子ですよ」
「大アリクイは、ありがたい」
「ありがたいとはお目出度い、なにを言わせるのですか。松本センセは警察署の留置場に入っているんですよ」
「なんだと。何か悪いことをしたのか?」
「だから暴力事件を」
「ただの暴力だろう。ただじゃない暴力だったら問題だが、ただの暴力程度なら良いだろう。体育ではバカな連中をひっぱたくのが当たり前。牛や馬でさえ、びしびし叩いて訓練するのじゃないか。人間だって、当然ひっぱたくべきで」
「なにをおっしゃる校長さん、暴力はご法度。今の世の中、暴力のボの字程度の暴力でも、世間様は許してくれないのですよ。まして相手は教え子。もう、学校に非難ごうごう雨あらし、カミナリ吹雪につむじ風、吹き荒れ学校、閑古鳥ですよ」
「しかし、吉田松陰先生はこうおっしゃっている。鉄は鍛えて打てと」
「そんなこと松陰先生がおっしゃったのですか」
「当たり前だ。石の上にも三年、ともおっしゃっている」
「たとえそんなことをおっしゃっていたにせよ、暴力の件とどうリンクするのですか」
「そんなこと知るか」
「知るかではすまないのです。うちのセンセが逮捕されたんですよ。何とかしなきゃ、マスコミが押し寄せてきます」
「なに、マスコミが来る? テレビもか?」
「当然ですよ」
「テレビカメラかついで、キリタンポみたいなマイクもって」
「ええ、何社も」
「じゃあ、学校のいい宣伝になるじゃないか。わたしもテレビに出れるかなあ」
「そりゃ、校長ですから、何とか弁明しなきゃいけないです」
「弁明って?」
「ほら、テレビでよくやっているでしょう。謝罪記者会見。幹部が立ち上がって、カメラの放列に向かって深々と頭を下げる」
「あれをやるのか?」
「たぶん、そうなります」
「全国に放送されるのか」
「当然です」
「すごいなあ。カメラにピースをしちゃまずいかなあ」
「当たり前です。反省している態度を見せなきゃ」
「わかった。しかし、よくやってくれたな。全国に注目されるなんて、甲子園に出場以来じゃないか。で、松本センセには、何かお礼をしなきゃいけないのか」
「お礼じゃないですよ。厳罰です。学校の名誉を傷つけたのですから、懲戒免職ですよ」
「しかし、学校が注目されるんだぜ。テレビに出ると大きな宣伝効果があるじゃないか」
「効果も逆効果ですよ」
「逆効果は効果ではないのか」
「効果の逆です」
「校歌を歌おうか」
「そのコウカじゃないです」
「コウカの逆ならカウコ? カウコって変だな」
「変なのは校長センセですよ」

 というような会話が延々と続く学校の姿が頭に浮かぶ。
 むろん、上のような会話はフィクション。だが、フィクションを侮っちゃいけない。似たような会話が、現実には行なわれているのだ。

 まあ、いずれにせよ明日の登校時間には、カメラがたくさん並ぶのだろうね。

 それにしても人生と言うやつは怖い。一寸先は闇である。
 品行方正が第一なのだが。

吉田権造物語 6 修学旅行からそれた話

2007-12-06 05:49:18 | 小説

 話が横にそれた。
 それついでに小学校4年生の時に、吉田権造が死にかかった話。

 人は誰でも、必ず一度は死ぬ。それが早いか遅いかだけのこと。
 昭和30年前後の日本では、子どもがよく死んだ。川で溺れ、ため池で溺れ、井戸にはまって死んだ。水死はごく普通のこと。今では、用水路に子どもが落ちて、もし死んだりすれば、金網がないだけで自治体の管理責任が大きく問われることになる。が、昔はそんなことはなかった。みんな死んだものの責任。死んだ人間が不注意だっただけ。
 夏休みが終わるとひとりか二人が鬼籍入りして学校に来なくなった。そういうものだった。
 事故でなくても、赤痢や腸チフスで死ぬこともあった。死んだ本人にしても、死んでしまえばおしまい。ただ家族など、周りの連中が残念がったり悲しんだりするだけ。

 吉田権造は、川で流された。
 魚とりに出かけ、深みにはまる。で、流された。
 大量の水を飲み、死ぬかと思った。
 たまたま魚とりに来ていた消防団員の男に助けられたが、もしその男がいなかったら、確実に死んでいた。
 そう言うものだ。
 運。
 運が良ければ、寿命を全うし、運が悪ければ途中下車。
 こればっかりはどうしようもない。
 飛び降り自殺の巻き添えで、地上を歩いていて死んでしまう、なんてケース。運としかいいようがない。これはもう、諦めるだけ。

 で、修学旅行のバスは、奈良の市街へと入った。

          (続く)