散歩と俳句。ときどき料理と映画。

アンソニー・クイン 6 『バレン』1

1960年のニコラス・レイ監督による『バレン』という映画をワタシは知らなかった。
イタリア、フランス、イギリスの合作映画でイヌイット(エスキモー)の世界を描いた北極を舞台にした映画である。

『バレン』のプログラムとポスター。

ニコラス・レイは1940年代末から1950年代中頃までにハリウッドに吹き荒れた赤狩りのブラックリストからは逃れたものの、1958年の『暗黒街の女』を最後にハリウッドを離れ、ヨーロッパで活動するようになる。
若いころにフランク・ロイド・ライトの下で建築を学び、その後ニューヨークで左翼演劇活動に参加したニコラス・レイがなぜ赤狩りのハリウッド・ブラックリストに列挙されなかったのか。
戦後ニコラス・レイが働くことになったRKOピクチャーズ(RKO Pictures)がハワード・ヒューズに買収され、その支配下に入ったためにヒューズの政治力により難を逃れたという説がある。

ニコラス・レイ

第二次対戦中に戦争情報局の仕事につき、エリア・カザンと知り合い、映画の仕事に参加することになったニコラス・レイだが、〈エリア・カザンは赤狩りの最中に共産主義者の嫌疑をかけられ、カザンはこれを否定するために司法取引し、共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に告げた。その中には劇作家・脚本家のリリアン・ヘルマン、小説家のダシール・ハメットなどの名もあった。以降もカザンは、演劇界・映画界において精力的に活動を続けることができ、名作と呼ばれる作品の誕生に数多く関わっていく〉。

そのエリア・カザンは第71回アカデミー賞(1999年)で名誉賞を受賞するが、赤狩り時代の行動の過去があるためブーイングと拍手に包まれた。
無言の抗議を示したのはニック・ノルティ、エド・ハリス、イアン・マッケランであり、スティーヴン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしたが、起立しなかった。起立して拍手したのはウォーレン・ビーティやヘレン・ハント、メリル・ストリープらだった。
会場の外では授与支持派と反対派の双方がデモを行なった。反対派のデモ隊の中には、かつて赤狩りで追放歴のある脚本家のエイブラハム・ポロンスキーもいた。

 エリア・カザン

エリア・カザンがなぜ仲間を密告し、映画界に残ることを選んだのかワタシには理解できない。
事情にくわしくないワタシが滅多なことは言えはしない。

ニコラス・レイが1950年代には『大砂塵』や、ジェームズ・ディーン主演の『理由なき反抗』を撮り、評価も高かったにもかかわらずなぜ1960年代に入ると、アメリカを去ったのかもワタシにはわからない。

ニコラス・レイのハリウッド時代の代表作とも言える『理由なき反抗』で、ジェームズ・ディーンを紹介したのは、『エデンの東』で彼を起用したエリア・カザンだった。

『理由なき反抗』のジェームズ・ディーン。

ハリウッドにおける赤狩りについてはいずれ書くことになるだろう。

この『バレン』はニコラス・レイがアメリカを去り、ヨーロッパで撮った最初の映画ということになる。

話は以下のようなものである。

〈カナダの極北に住むイヌイット人イヌク(アンソニー・クイン)は妻のアジャク(谷洋子)を娶る。鯨骨でできた弓や海象の頭、守護符などを彼女の親に与えて、代わりに彼女をもらったのである。イヌクは狐の毛皮をあつめて白人に鉄砲と代えてもらった。しかしアジャクはそれをきらって彼に鉄砲を捨てさせた。イヌイットの最大のもてなしは妻を客に提供することだった。白人集落から宣教師がやってきた時、イヌクは妻を彼に貸そうとした。彼がそれをこばんだので、かっとなったイヌクは宣教師を殺してしまう。北方に旅にでたイヌクと妻は間もなくそんなことは忘れてしまった。老衰した母を氷上に棄てて旅は続き、やがてアジャクは赤ん坊を生む。ある日飛行機で二人のカナダ警官が宣教師殺しの罪でイヌクを捕えにきた。飛行機が着陸の時故障し、警官たちは氷上を歩いてイヌクを連行することになった。困難な旅がつづき、警官の一人は氷海におちて死に、もう一人(ピーター・オトゥール)は負傷する。イヌクは彼を助け傷の手あてをしてやった。旅をして生活をともにするうちに、警官はイヌクが宣教師を殺したのは、イヌイットの習慣を宣教師が無視した故であるのを知った。イヌクはすこしも悪いことをしたとは考えていなかった。裁判官の前で申しひらきすれば自分の無実が解ってもらえると思っていた。これを知った警官は苦しむことになる。自分が彼を連行すれば、彼は死刑になるだろう。イヌクを救出する方法は一つしかなかった。警官はわざとイヌクを侮辱した。怒ったイヌクは氷原のかなたに一人で去っていった。警官は一人で文明人の住む村の方に歩を進めた〉

右がピーター・オトゥール。左は谷洋子。

ピーター・オトゥールが出演しているのには驚かされた。
1955年にプロの舞台俳優になったピーター・オトゥールだが、1960年にディズニー映画『海賊船』で映画俳優としてデビュー。
2本目がこの『バレン』ということになる。
そして1962年にはデヴィッド・リーン監督の『アラビアのロレンス』に主演し脚光を浴びることになる。

『アラビアのロレンス』。ピーター・オトゥールとオマー・シャリフ。

アンソニー・クインは『アラビアのロレンス』でもピーター・オトゥールと共演している。

話はそれるが『アラビアのロレンス』が国内で公開(1963年)されたとき、この映画を観た父が母に「ピーター・オトゥールはゲイリー・クーパーのごとあるね」と話していたのを思い出す。
ゲイリー・クーパーはこの前年1961年に亡くなっている。
このときも父は母に「ゲイリー・クーパーが死んだげな」と話し、母は驚いたように「なんで?」と父に聞き返した。
父は「癌のごたるね」と答えたのをワタシは聞いたことを覚えている。
ワタシは〈癌〉という病名を知らず、なにやら恐ろしげなその響きに恐怖感を覚えたのだった。

西部劇が好きだった父はゲイリー・クーパーのファンだったのだろうか。
むしろもっとタフガイのジョン・ウェインが好きだったのではないだろうか。

母はハリウッド映画よりもヨーロッパの映画を好んだが、ハリウッドの俳優ではグレゴリー・ペックが好きだった。
ときどき母からグレゴリー・ペック主演の『王国の鍵』(監督ジョン・M・スタール 1944年製作 国内公開1946年)の話を聞いた憶えがある。

映画を観たのは母が20歳のころだろうか。

『王国の鍵』のグレゴリー・ペック(右)。

〈続く〉

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