ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

何故、他人の詩にケチをつけるのか

2006年01月09日 22時39分46秒 | 詩に関わる話
 ネットなり詩の雑誌なりパブリックな場所に投稿されている詩を読んで、ケチをつける。それは技法に対してであり、また内容に対してであると思います。何が書いてあるのか判らない、甘ちゃんな恋愛詩ぢゃないか、表現方法が古臭くてカビが生えていそうだ、そもそも詩作の基本がなっていない。そんな感じで読み手は詩を読んでケチをつけるのだと思います。
 じゃあ、なんでケチを付けるのだろうか?それは引き出し奥深くに仕舞われた個人的な日記では無く、詩と言う芸術作品として書かれている事を認知しているからだと考えます。つまり、書き手の感情とか詩を書くに至った経緯とかとは分離し、一個の独立した詩と言う芸術作品に対してケチを付けるのでしょう。
 詩とは批評に値するもの、この共通認識があるのであれば、書き手も当然にして批評され得るものとして詩を書き、それをパブリックな場所へ投稿するのだと考えます。
 迎合とは異なる、詩を読まれるものとして了解の上で、作詩するのであれば、そこにはルールというか何かがあるような気がします。「それが詩学って言うものだよ」と言われそうですが。
 では、ちょっと視点を変えて、誰かと対面で会話する場合を想定してみると話し手は聞き手の判り易いように話さなければ会話は成立しませんし、聞き手も話し手を注視し、話す内容を理解する努力が必要です。そうでなければ、互いに好き勝手言っているだけになってしまいます。
 そう考えると、詩とは書き手と読み手とのコミュニケーションの手段であるとの考え方も成立します。つまり書き手は思いが正しく伝わるように詩を書き、読み手も書き手の思いを汲み取る努力をする事が詩の前提となるのでしょうか?

 でも、読み手を拒絶する詩もあるのは確かな気がしないでもありません。う~ん、結論出てこないなあ。もう少し考えてみたいです。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは。 (比呂正紀)
2006-01-11 13:19:35
こちらでは始めまして。フォーラムではお世話になっています。

お説とは関係ありませんが・・・



短歌でよく言われるのは「読み手の技量」ですね。

現代詩の世界とは違うかもしれませんが、短歌では

すべてを表現することが出来ません。それゆえ「読み手」にも

「汲取る」作業が要求される場合が多いです。

かといって閉鎖的なものでもありません。表現は判りやすく、

かつ奥行きを求める作業でしょうか、作歌というものは。



作詩でも個の手を離れる瞬間に一人歩きを容認しなくてはならないのでしょうね。

ちょうどそんなことを考えていたので思わずコメント差し上げてしまいました。

またよろしくお願いします。
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比呂さん、ありがとうございます (Yock)
2006-01-11 23:00:50
比呂さん、こんな辺鄙なところまでおいでいただき感謝です。

短歌、聞きかじりで少しだけ経験あるのですが、詩を書いていると何故だか書けなくなりました。何でかな(苦笑)

「判りやすく、かつ奥行きを求める」、いずれの世界でも大切なんですよね♪貴重なご意見ありがとうございます。

また、遊びに来てください。

感謝いたします♪
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