江戸末期の巨星、「河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)」の作品です。
有名な「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりの えどざくら)」をモチーフに、ぐっと現代風(江戸当時の「現代風」)に作られたメタファー作品です。
・上野不忍池(うえの しのばずいけ)の場
もともとは助六の父親が殺されるところからの長いお芝居です。今はストーリーの半分も出していません。
この場面も、前後の関連性を無視してかなりぶつ切りな感じに出しています。
なのであまり細かいことは気にせず、その場の雰囲気や面白さだけを楽しめばいいと思います。
吉原で人気の遊女の白玉(しらたま)ちゃんが、お客の権九郎(ごんくろう)と一緒に逃げて来ます。
権九郎は大きなお店(おたな)の番頭ですが、かなり不細工です。性格もビミョウです。
というか全部出すと悪役側の手先です。
権九郎はずっと白玉ちゃんが好きだったので、一緒に逃げてくれと言われておお喜びです。
遊女は何年かの契約をして、そのお金を前金で受け取って廓にいますから脱走はもちろん違法です。
が、やる人はわりと気軽にちょこちょこ逃げていたみたいです。その後の人生がうまく行ったかはまた別ですが。
というわけで、さすがに江戸にはいられないので旅に出ます。上方あたりに逃げて小商いでもしたいところです。
権九郎はそのための路銀(ろぎん、旅行資金ですよ)をお店からくすねて用意してきました。大喜びする白玉ちゃんですが、
実は白玉ちゃんには恋人がいるのです。
牛若伝次(うしわか でんじ)と言います。若い色男ですが、スリです。ロクな男ではありません。
白玉ちゃんは本当はこの男と逃げるつもりなのです。
金を奪って権九郎を不忍の池に突き落として伝次と逃げる白玉ちゃんです。
ここの、伝次の、ならず者ならではの退廃的なかっこよさが、本来はこの場面の最大の見どころだと思います。
二人は逃げますが、そこに廓の若いもんたちが追いついてきて、ふたりは結局捕まってしまいます。連れ去られるふたり。
そのあと権九郎が池から上がってきます。白玉ちゃんに恨みごとを言いながら、探します。
このとき、白玉ちゃんが返事をしない事について、「つゆと答えてー」
というのは、
「伊勢物語」の「芥川(あくたがわ)」の段に出てくる歌
白玉か 何ぞとひとの 問いしとき
露と答えて 消えなましものを
から取っています。
男が、恋しい娘をこっそり連れ出しておぶって逃げて、都のはずれの芥川を通ります。
屋敷から外に出たことがなかった娘は草葉に置いた露を見て宝石かと思い、「あれは何?」と聞きます。
そのとき男は逃げるのに夢中で答えなかったのですが、そのあと娘は鬼に食われて死んでしまいます。
男は、「あなたが草においた露を見て「あれは何?宝石?」と聞いたときに、「露だよ」と答えて、
一瞬で砕けて消えてしまう露のように、そのとき自分も露と一緒に消えてしまえばよかった(そうすればこんな悲しい思いはしなかったのに)」
という歌を詠みます。
というかんじに、お芝居に特にこのセリフは必要ないのですが、
「白玉」の名前を使った以上、しかも女の子を連れ出すというシチュエーションも一致しているので、
「伊勢物語」のこの歌をどこかで何かのカタチで出すのはお約束なのです。
知らなくてもお芝居は理解できますが、
作者が、日本人なら間違いなく全員この歌を知っていることを前提で書いたセリフなので、一応説明しておきます。
ボロボロの状態で、それでも白玉ちゃんを追って退場する権九郎です。
最近、この部分の演出が少々お遊びがすぎることがあります。この部分だけ歌舞伎じゃなくなってしまうことすらあります。控え目にお願いしたいところです。
原作だと、白玉ちゃんの父親と息子が出てきて、なかなかしんみりする部分もある場面です。
この幕は以上です。
今の出しかたですと後半部分とはあまり関係ねえので気楽にご覧下さい。
あと、上野不忍池のセットが今の景色とあまり変わらなくて楽しいです。
今だと横山大観記念館があるあたりからの眺めだと思います。都バスの窓から見られます。
・吉原仲ノ町の場
舞台の真ん中に桜、左右に吉原の大店がずらりと並ぶ、歌舞伎の演出の典型的な「吉原遊郭」の風景です。
チナミに吉原のこの桜並木は、春になると業者が運んで来て仲ノ町の通りの真ん中にずらりと植えます。
花が終わると撤去します。そのあとは小川を作って水を流して菖蒲を植えるなど、四季折々の木や花がとっかえひっかえ植えられました。
秋口には灯篭がずらりと並びました。
デパートのショーウインドウを思わせます。
歌舞伎の吉原の風景はいつも桜が満開ですが、あそこはただ桜が植えっぱなしだったわけではないことは意外と知られていないと思うので、お芝居には関係ないですが書いておきます。
少しガラの悪そうな5人組が出てきます。町道場をやっている「鳥居新左衛門(とりい しんざえもん)」という男の門下生たちです。
この「鳥居新左衛門」がお芝居全体を通しての悪役になります。
ここに出てきたのは、弟子の「朝顔仙平(あさがお せんべい)」とその手下です。
みんな威張っていて乱暴です。感じ悪いです。
ここで、お付きの奴さんが「長屋をひやかしてまいりました」と言います。
この「長屋」というのは下町の裏長屋のことではなく、吉原の街の裏通りにある、長屋造りの小さい遊女屋のことです。下級遊女がいます。
身分と経済力にふさわしく、ここで安く遊んできたと言っているのです。
吉原といっても遊びかたはいろいろなのです。
ここに「白酒売りの新兵衛(しんべえ)」という人がやって来ます。白酒の行商人です。
吉原は人が多いですから、いろいろなもの売りがいます。ディズニーランドでポップコーンを売るのと同じかんじです。
当時の行商人は、ちょっと目立つ口上を言ったり、芸をしたりして一目を引き、商品を売ることが多かったのです。
ガマの油売りなどは典型です。
「ういろう売り」もそうですし、寄付金を集めるためにご利益がありそうな口上を言う「勧進帳」もこのカテゴリーに実は入ります。
ていうかムダ知識ばかり書いて全然本題に入れません。
この白酒売りの新兵衛さんは、白酒の効能をあることないこと混ぜて楽しく説明する「言い立て」が得意です。
いつもの「言い立て」を所望する仙平たちです。
ところで、
このお芝居自体が、タイトル通り、「助六所縁江戸桜」をモチーフにしております。
なので「助六」を元ネタにした場面がそこここに散りばめられています。
ここに出て来る朝顔仙平も、白酒売りも、細かい設定は違うのですが、「助六」にも登場するキャラクターです。
この白酒売りの「言い立て」の場面も、現行上演の「助六」ではカットなのですが、序盤に似たシーンがあります。
朝顔仙平たちは「言い立て」を聞いて楽しんだ上に、樽から勝手に白酒を飲んで、しかも金を払わずに立ち去ろうとします。
あわてて新兵衛さんがお金を払うように頼むのですが、仙平たちは逆に、武士に口答えするのかとか言いがかりを付け、
怒って新兵衛さんを袋叩きにしようとします。
ここにやって来るのが「黒手組」という町の侠客のグループを率いている「助六」という男です。
本家の「助六」とは違って、髪形や服装は普通のお兄ちゃんです。なのでこのお芝居は「世話の助六」と言われます。
「鳥居新左衛門」の道場の門下生たちと助六の黒手組とは普段から仲が悪いのもあって、助六は新兵衛さんを助けて仙平たちをやっつけます。
白酒の代金を払わせ、さらに全員に自分の股をくぐらせます。
この「股くぐり」も、設定は少し違うのですが、本家「助六」の非常に有名なシーンです。
朝顔仙平たちは逃げて行きます。
ここから白酒売りの新兵衛さんと助六との会話になります。
だいたいの内容を書いておきます。以下の内容が説明されます。
助六は、何年か前に殺された父の敵を探している。
そいつは父親を殺して、しかも家宝の刀の「北辰丸(ほくしんまる)」を奪って逃げた。
殺された現場を見たものがいないので敵を探せないでいるのだが、なんと、偶然にもこの新兵衛さんが現場を見ていた。
犯人は三十四、五の侍だ。
ところでには助六の恋人がいます。今吉原で全盛の遊女の「揚巻(あげまき)」ちゃんです。
新兵衛さんは、なんと揚巻ちゃんの父親だったのです。びっくり。
チナミに「助六」では「白酒売りの七兵衛」は助六の兄です。ちょっとずつ設定が違います。
と、
そこに突然現れる、紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)。
元禄時代の有名な大金持ですよ。
俳諧師の東栄(とうえい)というひとを連れています。
これは、文左衛門の、ただの成金ではない、文化人、教養人としての側面を強調するためです。
この文左衛門は、じつは他の人物を意識して描かれているのですが、そのへんは下に書きます。
「東栄」も、当時の実在の有名人です。
文左衛門は金持ちでめんどう見がよく、人格者です。
そして、助六の死んだ父親は文左衛門の俳諧の師匠だったので、文左衛門はとくに、普段から助六のことを心配しています。
助六は文左衛門に頭が上がらないのです。
その文左衛門が、喧嘩ばかりしている助六をしかります。親の敵を取る前にケガでもしたらどうする。
刀と鍔をこよりで結び付け、刀を抜かないようにと諭す文左衛門。その言葉に打たれた助六は、もう喧嘩はしないと約束します。
みんなでお花見に行きますよ。
この幕終わりです。
吉原三浦屋の場。
この「三浦屋」のセットは、助六のそれをそのまま移しています。
正面に大きく、当時実在した豪華な揚屋、三浦屋の堂々たる見世構えのセットがあります。
前の幕で廓を足抜けしようとして連れ戻された白玉(しらたま)ちゃんが、三浦屋の店先で折檻されているところから始まります。
ていうか、「折檻(せっかん)」て死語でしょうか。体罰一般を指しますよ。もともとの意味は違うのですが、そこはいいです。
バシバシ叩きます。
って、店先で!! 道行く客へのサービスなのですか!? 客寄せなのですか!?
じっさいは店の奥のそれ用の部屋でこっそりやるものだと思います。
前の幕とここからの展開との関連性は、この白玉ちゃんだけです。
ところで白玉ちゃんが苛められているのは足抜けしようとした罰ではなく、恋人の牛若伝次に操を立てて客を取らないからです。
キれた性格しています白玉ちゃん。イマ風です。
というわけで、ここは、まあ、サービスシーンのためのサービスシーンという感じです。
あれこれあって、白玉ちゃんの姉分の揚巻(あげまき)がやってきて、白玉ちゃんを助けます。
揚巻は、助六の恋人です。この設定も本家の「助六」と同じです。
この白玉ちゃんも、もちろん「助六」にも出て来ます。
ただ、「助六」では白玉さんは、「揚巻」と同じ「大夫」のランクの遊女で、揚巻とも対等にしゃべります。
こちらの白玉はまだ若い遊女で揚巻の妹分という設定です。
ここで、敵役の鳥居新左衛門が揚巻を口説こうとして振られる場面や、序幕で出た権九郎が遊女たちにからかわらる場面があるのですが、
現行上演ではカットかもしれません。
助六がやって来ます。この作品は「助六」のメタファーですので、本家の「助六」も「あの有名なお芝居の登場人物、過去の有名人」して作品内に存在します。
「昔、助六が廓に来ると吸い付け煙草の雨が降ったそうだが、俺にはないのか」とシャレで嘆く助六。
「鳥居新左衛門(とりい しんざえもん)」が出て来ます。
さっきの朝顔仙平たちの親分です。手下も一緒です。新左衛門は揚巻が好きで、毎日通って来るのです。
本家の「助六」では「意休(いきゅう)」にあたるポジションのキャラクターですが、意休よりもずっと若く、行動もアグレッシブです。
新左衛門は手下の朝顔仙平らがさっき助六にいじめられたので、仕返しにきました。
助六のほうから喧嘩を売った形にしたいために、足の指に煙管(キセル)をはさんで助六に渡そうとする新左衛門。
さらに助六の頭に下駄を乗せたりして挑発します。
これらはみんな、本家の助六にもある動きです。
「助六」では、助六が敵役の意休(いきゅう)にこれらの傍若無人なふるまいをするのが面白いのですが、
ここでは、登場人物全員が「助六」のお芝居の内容を知っているという設定のもと、敵役の鳥居新左衛門が、わざと助六に同じいじわるをするのです。
こういう、ストーリーとは少しはずれたところで、内容や登場人物の設定などが「助六」をうまく素材としてお芝居に生かしているなという感じを楽しむのも、
こういうメタファー狂言の醍醐味です。
助六は、さっき文左衛門とケンカしないと約束したので、
新左衛門にさっき朝顔仙平らをいじめたろうと責められても、謝るばかりで反論しません。
ここが、いわゆる「しんぼう場」になります。
主人公のいじめられっぷりを楽しむ、これもショーです。気楽に楽しめばいいのです。
ここで新左衛門が刀を抜くシーンがあり、助六が「これが探してる北辰丸(ほくしんまる)じゃん」と気付くくだりがあります。
そう、新左衛門が、親の敵だったのです。
とにかく、いろいろ遺恨のある助六をいじめたい新左衛門。
助六が手下の仙平にしたように助六も自分に打たれるなら許してやろうと言います。
いいかげんキレかかっている助六ですが、文左衛門との約束なので一生懸命ガマンします。
横で見ていた揚巻が、見かねて「助六を打つなら自分を打て」と言って恋人をかばいます。
もちろん、吉原で一番人気の花魁ですから、安っぽい自己犠牲ではありません。
それくらい自分は助六という男にほれ込んでいるんだと主張することで、逆に鳥居新左衛門を威嚇している部分もあります。
立女形の格と位取りが試される場面です。
腹立ちまぎれに鳥居新左衛門は、今まで揚巻が自分になびくまでガマンしていたわけですが、金に物を言わせて揚巻を身請けすると言い出します。
身請けされてしまえばもう揚巻は新左衛門のもの、助六とは会えません。
困っていると、三浦屋の主人が出て来て、揚巻の身請けは今済んだと言います。
身請けしたのは、紀伊国屋文左衛門です。
様子を見ていて、助六が非常にがんばって我慢したので、ごほうびに揚巻を身請けしてくれたのです。
喜ぶ助六と揚巻。
鳥居新左衛門は腹立ちまぎれに刀を抜いて、みね打ちで助六の額を割り、去っていきます。
あまりの侮辱に本当に腹をたてる助六。
そこにさっきの俳諧師、東栄が文左衛門のお使いとして出て来て、助六の刀の封印を切ってくれます。
鳥居新左衛門が親の敵だということもさっきわかったばかりです。
喜び勇んで新左衛門の後を追う助六。
この幕終わりです。
この後、吉原の門外で助六と鳥居新左衛門が切りあうシーンが付きますが、決着は付かず、お互いいいカタチに決まってにらみあったまま幕です。
この場面は、じつは初演時の台本にはありません。もっと長いお話を今は途中で切って終わりにしているので、サービスに付けたものです。
現行上演は以上です。
もともとは「世話物」の名手であった文化、文政期の名優、市川小団次のために
作者の河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)が書き下ろした作品です。
小団次は演技力はあっても本家の「助六」があまり似合わない、よくも悪くも多少野暮ったい、そのぶん重厚な雰囲気の役者さんでした。
そういう役者さんのためのお芝居です。
全部出すと、助六と揚巻は結婚して、揚巻ちゃんの父親の白酒売の新兵衛さんと3人で暮らしています。
ここに牛若伝次が揚巻ちゃんの父親の新兵衛を強請りに来ます。
新兵衛さんはやむを得ない事情で今は出ない部分で罪を犯しているのです。
新兵衛の罪をかぶろうとした助六が、犯罪者の妻として巻き込まれないようにムリやり揚巻を離縁する、
みたいな展開があります。
助六のキャラクターで世話物を書いたらこうなる、という内容です、たしかに。
「世話の助六」と呼ばれるのは、じっさいはこの後半部分のためなので、
後半部分が出ない今は、普通に助六をなさるようなかっこいい役者さんが、気持ちよくかっこよく前半部分だけをなさって、
それで完結するお芝居になっています。
最後も大金持ちの紀文のはからいで揚巻も身請けしてもらい、全てが丸くおさまってめでたしめでたし、
なところで楽しく終わります。
ところで、
このお芝居に出る紀伊国屋文左衛門ですが、これは元禄の大金持ちの、あの「紀文」が本当のモデルではありません。
文化文政から天保にかけての江戸文化の後期爛熟期の実在の大金持ちで、文化人達のパトロンとして絶大の信頼を集め、
自身も俳諧をたしなむ教養人であった、
「津国屋藤次郎(つのくにや とうじろう)」、略して「津籐」という人がモデルです。
作者の河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)も、若くて売れていなかったころにこの人に才能を認められ、ずいぶんかわいがられたのです。
というわけで、江戸、明治のひとびとは文左衛門が出ると「あ、津籐を出してるな」と思って見ていたのです。
なのでセリフでも「金持ちの文左衛門」という表現でなく「俳諧をたしなむ文左衛門」というように表現されています。
ただの成金ではない、文化人としての津籐に敬意を払っているのです。
そして登場人物の仲で津籐がいちばんエラく、かつ人格者として描かれます。
助六が無条件に彼の言うことを受け入れる設定なのもそのためです。
ところでこういうものが書かれた当時、黙阿弥はもうけっこうえらくなっており、
津籐は(お道楽がすぎて)没落しはじめています。
なので「津籐」のこのあつかいは「スポンサーにヨイショ」ではなく、
じっさいに江戸の遊興界においてこういうパトロン的存在であった「津籐」の姿を(少々美化してはいますが)伝えるための、
恩返しと言っていいと思います。
原作どおりに出すと、当時人気のあった風流人たちが実名で愉快なかんじで登場します。
江戸のひとびとには大人気だった趣向ですが、今は通じないのでカットされてしまいます。
=50音索引に戻る=
有名な「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりの えどざくら)」をモチーフに、ぐっと現代風(江戸当時の「現代風」)に作られたメタファー作品です。
・上野不忍池(うえの しのばずいけ)の場
もともとは助六の父親が殺されるところからの長いお芝居です。今はストーリーの半分も出していません。
この場面も、前後の関連性を無視してかなりぶつ切りな感じに出しています。
なのであまり細かいことは気にせず、その場の雰囲気や面白さだけを楽しめばいいと思います。
吉原で人気の遊女の白玉(しらたま)ちゃんが、お客の権九郎(ごんくろう)と一緒に逃げて来ます。
権九郎は大きなお店(おたな)の番頭ですが、かなり不細工です。性格もビミョウです。
というか全部出すと悪役側の手先です。
権九郎はずっと白玉ちゃんが好きだったので、一緒に逃げてくれと言われておお喜びです。
遊女は何年かの契約をして、そのお金を前金で受け取って廓にいますから脱走はもちろん違法です。
が、やる人はわりと気軽にちょこちょこ逃げていたみたいです。その後の人生がうまく行ったかはまた別ですが。
というわけで、さすがに江戸にはいられないので旅に出ます。上方あたりに逃げて小商いでもしたいところです。
権九郎はそのための路銀(ろぎん、旅行資金ですよ)をお店からくすねて用意してきました。大喜びする白玉ちゃんですが、
実は白玉ちゃんには恋人がいるのです。
牛若伝次(うしわか でんじ)と言います。若い色男ですが、スリです。ロクな男ではありません。
白玉ちゃんは本当はこの男と逃げるつもりなのです。
金を奪って権九郎を不忍の池に突き落として伝次と逃げる白玉ちゃんです。
ここの、伝次の、ならず者ならではの退廃的なかっこよさが、本来はこの場面の最大の見どころだと思います。
二人は逃げますが、そこに廓の若いもんたちが追いついてきて、ふたりは結局捕まってしまいます。連れ去られるふたり。
そのあと権九郎が池から上がってきます。白玉ちゃんに恨みごとを言いながら、探します。
このとき、白玉ちゃんが返事をしない事について、「つゆと答えてー」
というのは、
「伊勢物語」の「芥川(あくたがわ)」の段に出てくる歌
白玉か 何ぞとひとの 問いしとき
露と答えて 消えなましものを
から取っています。
男が、恋しい娘をこっそり連れ出しておぶって逃げて、都のはずれの芥川を通ります。
屋敷から外に出たことがなかった娘は草葉に置いた露を見て宝石かと思い、「あれは何?」と聞きます。
そのとき男は逃げるのに夢中で答えなかったのですが、そのあと娘は鬼に食われて死んでしまいます。
男は、「あなたが草においた露を見て「あれは何?宝石?」と聞いたときに、「露だよ」と答えて、
一瞬で砕けて消えてしまう露のように、そのとき自分も露と一緒に消えてしまえばよかった(そうすればこんな悲しい思いはしなかったのに)」
という歌を詠みます。
というかんじに、お芝居に特にこのセリフは必要ないのですが、
「白玉」の名前を使った以上、しかも女の子を連れ出すというシチュエーションも一致しているので、
「伊勢物語」のこの歌をどこかで何かのカタチで出すのはお約束なのです。
知らなくてもお芝居は理解できますが、
作者が、日本人なら間違いなく全員この歌を知っていることを前提で書いたセリフなので、一応説明しておきます。
ボロボロの状態で、それでも白玉ちゃんを追って退場する権九郎です。
最近、この部分の演出が少々お遊びがすぎることがあります。この部分だけ歌舞伎じゃなくなってしまうことすらあります。控え目にお願いしたいところです。
原作だと、白玉ちゃんの父親と息子が出てきて、なかなかしんみりする部分もある場面です。
この幕は以上です。
今の出しかたですと後半部分とはあまり関係ねえので気楽にご覧下さい。
あと、上野不忍池のセットが今の景色とあまり変わらなくて楽しいです。
今だと横山大観記念館があるあたりからの眺めだと思います。都バスの窓から見られます。
・吉原仲ノ町の場
舞台の真ん中に桜、左右に吉原の大店がずらりと並ぶ、歌舞伎の演出の典型的な「吉原遊郭」の風景です。
チナミに吉原のこの桜並木は、春になると業者が運んで来て仲ノ町の通りの真ん中にずらりと植えます。
花が終わると撤去します。そのあとは小川を作って水を流して菖蒲を植えるなど、四季折々の木や花がとっかえひっかえ植えられました。
秋口には灯篭がずらりと並びました。
デパートのショーウインドウを思わせます。
歌舞伎の吉原の風景はいつも桜が満開ですが、あそこはただ桜が植えっぱなしだったわけではないことは意外と知られていないと思うので、お芝居には関係ないですが書いておきます。
少しガラの悪そうな5人組が出てきます。町道場をやっている「鳥居新左衛門(とりい しんざえもん)」という男の門下生たちです。
この「鳥居新左衛門」がお芝居全体を通しての悪役になります。
ここに出てきたのは、弟子の「朝顔仙平(あさがお せんべい)」とその手下です。
みんな威張っていて乱暴です。感じ悪いです。
ここで、お付きの奴さんが「長屋をひやかしてまいりました」と言います。
この「長屋」というのは下町の裏長屋のことではなく、吉原の街の裏通りにある、長屋造りの小さい遊女屋のことです。下級遊女がいます。
身分と経済力にふさわしく、ここで安く遊んできたと言っているのです。
吉原といっても遊びかたはいろいろなのです。
ここに「白酒売りの新兵衛(しんべえ)」という人がやって来ます。白酒の行商人です。
吉原は人が多いですから、いろいろなもの売りがいます。ディズニーランドでポップコーンを売るのと同じかんじです。
当時の行商人は、ちょっと目立つ口上を言ったり、芸をしたりして一目を引き、商品を売ることが多かったのです。
ガマの油売りなどは典型です。
「ういろう売り」もそうですし、寄付金を集めるためにご利益がありそうな口上を言う「勧進帳」もこのカテゴリーに実は入ります。
ていうかムダ知識ばかり書いて全然本題に入れません。
この白酒売りの新兵衛さんは、白酒の効能をあることないこと混ぜて楽しく説明する「言い立て」が得意です。
いつもの「言い立て」を所望する仙平たちです。
ところで、
このお芝居自体が、タイトル通り、「助六所縁江戸桜」をモチーフにしております。
なので「助六」を元ネタにした場面がそこここに散りばめられています。
ここに出て来る朝顔仙平も、白酒売りも、細かい設定は違うのですが、「助六」にも登場するキャラクターです。
この白酒売りの「言い立て」の場面も、現行上演の「助六」ではカットなのですが、序盤に似たシーンがあります。
朝顔仙平たちは「言い立て」を聞いて楽しんだ上に、樽から勝手に白酒を飲んで、しかも金を払わずに立ち去ろうとします。
あわてて新兵衛さんがお金を払うように頼むのですが、仙平たちは逆に、武士に口答えするのかとか言いがかりを付け、
怒って新兵衛さんを袋叩きにしようとします。
ここにやって来るのが「黒手組」という町の侠客のグループを率いている「助六」という男です。
本家の「助六」とは違って、髪形や服装は普通のお兄ちゃんです。なのでこのお芝居は「世話の助六」と言われます。
「鳥居新左衛門」の道場の門下生たちと助六の黒手組とは普段から仲が悪いのもあって、助六は新兵衛さんを助けて仙平たちをやっつけます。
白酒の代金を払わせ、さらに全員に自分の股をくぐらせます。
この「股くぐり」も、設定は少し違うのですが、本家「助六」の非常に有名なシーンです。
朝顔仙平たちは逃げて行きます。
ここから白酒売りの新兵衛さんと助六との会話になります。
だいたいの内容を書いておきます。以下の内容が説明されます。
助六は、何年か前に殺された父の敵を探している。
そいつは父親を殺して、しかも家宝の刀の「北辰丸(ほくしんまる)」を奪って逃げた。
殺された現場を見たものがいないので敵を探せないでいるのだが、なんと、偶然にもこの新兵衛さんが現場を見ていた。
犯人は三十四、五の侍だ。
ところでには助六の恋人がいます。今吉原で全盛の遊女の「揚巻(あげまき)」ちゃんです。
新兵衛さんは、なんと揚巻ちゃんの父親だったのです。びっくり。
チナミに「助六」では「白酒売りの七兵衛」は助六の兄です。ちょっとずつ設定が違います。
と、
そこに突然現れる、紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)。
元禄時代の有名な大金持ですよ。
俳諧師の東栄(とうえい)というひとを連れています。
これは、文左衛門の、ただの成金ではない、文化人、教養人としての側面を強調するためです。
この文左衛門は、じつは他の人物を意識して描かれているのですが、そのへんは下に書きます。
「東栄」も、当時の実在の有名人です。
文左衛門は金持ちでめんどう見がよく、人格者です。
そして、助六の死んだ父親は文左衛門の俳諧の師匠だったので、文左衛門はとくに、普段から助六のことを心配しています。
助六は文左衛門に頭が上がらないのです。
その文左衛門が、喧嘩ばかりしている助六をしかります。親の敵を取る前にケガでもしたらどうする。
刀と鍔をこよりで結び付け、刀を抜かないようにと諭す文左衛門。その言葉に打たれた助六は、もう喧嘩はしないと約束します。
みんなでお花見に行きますよ。
この幕終わりです。
吉原三浦屋の場。
この「三浦屋」のセットは、助六のそれをそのまま移しています。
正面に大きく、当時実在した豪華な揚屋、三浦屋の堂々たる見世構えのセットがあります。
前の幕で廓を足抜けしようとして連れ戻された白玉(しらたま)ちゃんが、三浦屋の店先で折檻されているところから始まります。
ていうか、「折檻(せっかん)」て死語でしょうか。体罰一般を指しますよ。もともとの意味は違うのですが、そこはいいです。
バシバシ叩きます。
って、店先で!! 道行く客へのサービスなのですか!? 客寄せなのですか!?
じっさいは店の奥のそれ用の部屋でこっそりやるものだと思います。
前の幕とここからの展開との関連性は、この白玉ちゃんだけです。
ところで白玉ちゃんが苛められているのは足抜けしようとした罰ではなく、恋人の牛若伝次に操を立てて客を取らないからです。
キれた性格しています白玉ちゃん。イマ風です。
というわけで、ここは、まあ、サービスシーンのためのサービスシーンという感じです。
あれこれあって、白玉ちゃんの姉分の揚巻(あげまき)がやってきて、白玉ちゃんを助けます。
揚巻は、助六の恋人です。この設定も本家の「助六」と同じです。
この白玉ちゃんも、もちろん「助六」にも出て来ます。
ただ、「助六」では白玉さんは、「揚巻」と同じ「大夫」のランクの遊女で、揚巻とも対等にしゃべります。
こちらの白玉はまだ若い遊女で揚巻の妹分という設定です。
ここで、敵役の鳥居新左衛門が揚巻を口説こうとして振られる場面や、序幕で出た権九郎が遊女たちにからかわらる場面があるのですが、
現行上演ではカットかもしれません。
助六がやって来ます。この作品は「助六」のメタファーですので、本家の「助六」も「あの有名なお芝居の登場人物、過去の有名人」して作品内に存在します。
「昔、助六が廓に来ると吸い付け煙草の雨が降ったそうだが、俺にはないのか」とシャレで嘆く助六。
「鳥居新左衛門(とりい しんざえもん)」が出て来ます。
さっきの朝顔仙平たちの親分です。手下も一緒です。新左衛門は揚巻が好きで、毎日通って来るのです。
本家の「助六」では「意休(いきゅう)」にあたるポジションのキャラクターですが、意休よりもずっと若く、行動もアグレッシブです。
新左衛門は手下の朝顔仙平らがさっき助六にいじめられたので、仕返しにきました。
助六のほうから喧嘩を売った形にしたいために、足の指に煙管(キセル)をはさんで助六に渡そうとする新左衛門。
さらに助六の頭に下駄を乗せたりして挑発します。
これらはみんな、本家の助六にもある動きです。
「助六」では、助六が敵役の意休(いきゅう)にこれらの傍若無人なふるまいをするのが面白いのですが、
ここでは、登場人物全員が「助六」のお芝居の内容を知っているという設定のもと、敵役の鳥居新左衛門が、わざと助六に同じいじわるをするのです。
こういう、ストーリーとは少しはずれたところで、内容や登場人物の設定などが「助六」をうまく素材としてお芝居に生かしているなという感じを楽しむのも、
こういうメタファー狂言の醍醐味です。
助六は、さっき文左衛門とケンカしないと約束したので、
新左衛門にさっき朝顔仙平らをいじめたろうと責められても、謝るばかりで反論しません。
ここが、いわゆる「しんぼう場」になります。
主人公のいじめられっぷりを楽しむ、これもショーです。気楽に楽しめばいいのです。
ここで新左衛門が刀を抜くシーンがあり、助六が「これが探してる北辰丸(ほくしんまる)じゃん」と気付くくだりがあります。
そう、新左衛門が、親の敵だったのです。
とにかく、いろいろ遺恨のある助六をいじめたい新左衛門。
助六が手下の仙平にしたように助六も自分に打たれるなら許してやろうと言います。
いいかげんキレかかっている助六ですが、文左衛門との約束なので一生懸命ガマンします。
横で見ていた揚巻が、見かねて「助六を打つなら自分を打て」と言って恋人をかばいます。
もちろん、吉原で一番人気の花魁ですから、安っぽい自己犠牲ではありません。
それくらい自分は助六という男にほれ込んでいるんだと主張することで、逆に鳥居新左衛門を威嚇している部分もあります。
立女形の格と位取りが試される場面です。
腹立ちまぎれに鳥居新左衛門は、今まで揚巻が自分になびくまでガマンしていたわけですが、金に物を言わせて揚巻を身請けすると言い出します。
身請けされてしまえばもう揚巻は新左衛門のもの、助六とは会えません。
困っていると、三浦屋の主人が出て来て、揚巻の身請けは今済んだと言います。
身請けしたのは、紀伊国屋文左衛門です。
様子を見ていて、助六が非常にがんばって我慢したので、ごほうびに揚巻を身請けしてくれたのです。
喜ぶ助六と揚巻。
鳥居新左衛門は腹立ちまぎれに刀を抜いて、みね打ちで助六の額を割り、去っていきます。
あまりの侮辱に本当に腹をたてる助六。
そこにさっきの俳諧師、東栄が文左衛門のお使いとして出て来て、助六の刀の封印を切ってくれます。
鳥居新左衛門が親の敵だということもさっきわかったばかりです。
喜び勇んで新左衛門の後を追う助六。
この幕終わりです。
この後、吉原の門外で助六と鳥居新左衛門が切りあうシーンが付きますが、決着は付かず、お互いいいカタチに決まってにらみあったまま幕です。
この場面は、じつは初演時の台本にはありません。もっと長いお話を今は途中で切って終わりにしているので、サービスに付けたものです。
現行上演は以上です。
もともとは「世話物」の名手であった文化、文政期の名優、市川小団次のために
作者の河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)が書き下ろした作品です。
小団次は演技力はあっても本家の「助六」があまり似合わない、よくも悪くも多少野暮ったい、そのぶん重厚な雰囲気の役者さんでした。
そういう役者さんのためのお芝居です。
全部出すと、助六と揚巻は結婚して、揚巻ちゃんの父親の白酒売の新兵衛さんと3人で暮らしています。
ここに牛若伝次が揚巻ちゃんの父親の新兵衛を強請りに来ます。
新兵衛さんはやむを得ない事情で今は出ない部分で罪を犯しているのです。
新兵衛の罪をかぶろうとした助六が、犯罪者の妻として巻き込まれないようにムリやり揚巻を離縁する、
みたいな展開があります。
助六のキャラクターで世話物を書いたらこうなる、という内容です、たしかに。
「世話の助六」と呼ばれるのは、じっさいはこの後半部分のためなので、
後半部分が出ない今は、普通に助六をなさるようなかっこいい役者さんが、気持ちよくかっこよく前半部分だけをなさって、
それで完結するお芝居になっています。
最後も大金持ちの紀文のはからいで揚巻も身請けしてもらい、全てが丸くおさまってめでたしめでたし、
なところで楽しく終わります。
ところで、
このお芝居に出る紀伊国屋文左衛門ですが、これは元禄の大金持ちの、あの「紀文」が本当のモデルではありません。
文化文政から天保にかけての江戸文化の後期爛熟期の実在の大金持ちで、文化人達のパトロンとして絶大の信頼を集め、
自身も俳諧をたしなむ教養人であった、
「津国屋藤次郎(つのくにや とうじろう)」、略して「津籐」という人がモデルです。
作者の河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)も、若くて売れていなかったころにこの人に才能を認められ、ずいぶんかわいがられたのです。
というわけで、江戸、明治のひとびとは文左衛門が出ると「あ、津籐を出してるな」と思って見ていたのです。
なのでセリフでも「金持ちの文左衛門」という表現でなく「俳諧をたしなむ文左衛門」というように表現されています。
ただの成金ではない、文化人としての津籐に敬意を払っているのです。
そして登場人物の仲で津籐がいちばんエラく、かつ人格者として描かれます。
助六が無条件に彼の言うことを受け入れる設定なのもそのためです。
ところでこういうものが書かれた当時、黙阿弥はもうけっこうえらくなっており、
津籐は(お道楽がすぎて)没落しはじめています。
なので「津籐」のこのあつかいは「スポンサーにヨイショ」ではなく、
じっさいに江戸の遊興界においてこういうパトロン的存在であった「津籐」の姿を(少々美化してはいますが)伝えるための、
恩返しと言っていいと思います。
原作どおりに出すと、当時人気のあった風流人たちが実名で愉快なかんじで登場します。
江戸のひとびとには大人気だった趣向ですが、今は通じないのでカットされてしまいます。
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