今朝の信州は気温が21度で清々しい朝です。昨夕の雷雨
が辺りの気温を下げてくれて今朝は少し過ごしやすい。
暦を見ますと、今日8月23日は、白虎隊の日でした。
この白虎隊が1868(明治元)年、戊辰戦争で会津藩の白虎隊
が城下の飯盛山で自刃した日とのことでした。
江戸時代末期、ペリー率いる黒船の来航をきっかけに
江戸時代末期、ペリー率いる黒船の来航をきっかけに
徳川幕府と薩摩藩、長州藩が対立。会津藩主の松平容保
は幕府から京都守護職を命ぜられ、不穏な京都の治安を
任されました。幕府軍が敗走した慶応4年(1868)旧暦
1月、鳥羽伏見の戦いがターニングポイントとなって江戸
の無血開城の後、新政府軍の標的は会津に向けられた
のでした。同年8月22日旧幕府軍が猪苗代町の母成峠で
敗退すると、なだれを打ったように新政府軍は若松城下
に攻め入り9月22日旧幕府軍が降伏するまで会津各地で
戦いが繰り広げられました。この一連の戦いをこの年
の干支にちなんで戊辰戦争といいます。この戦争では
城下のいくつかの武家屋敷で婦女子が自刃するという
悲劇がありました。
会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の
四つの班に分けていて、最年少の白虎隊は数え年16歳
~17歳の少年で編成されていました。
満年齢で言いますと15歳~16歳の会津藩士の子弟で編成
満年齢で言いますと15歳~16歳の会津藩士の子弟で編成
された組織。慶応4年旧暦8月22日、藩主松平容保の近衛
兵として滝沢本陣に出陣した、白虎士中の二番隊は敵を
戸ノ口原に迎え撃つも、新政府軍の猛攻に敗走。飯盛山
にたどり着きました。ここで目にしたのは砲煙と炎に包
まれた城下でした。少年たちの間では入城すべきか、或
るいは敵軍に突入し玉砕すべきか激論が交わされたと
いい最後には「十数人ではとても対抗できない敵の圧倒
的戦力の前で、捕虜になって敵の恥辱を受けるような
こととなれば、君侯と祖先に申し訳が立たない」との
思いから「潔く自刃して武士の本文を明らかにする」道
を選んだという。そして奇跡的にひとり蘇生した飯沼貞吉
によって白虎隊の行動が後世に伝えられました。
飯盛山の中腹にある墓地にはで自刃した十六士とこれ
以前に戦死した3名が加えられ十九士の墓が正面に並び
右手には戸ノ口原などで戦死した少年たちの墓が立ち
並んでいる。
まさに大和魂を知った、白虎隊、私もここには三回立ち
寄ったことがあり、15歳の少年が自刃したその思いを
強烈に心を打たれた白虎隊の墓が今も思い出される。










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