犬懸上杉家の邸が設けられていたのが犬懸ヶ谷とその西の釈迦堂ヶ谷にかけての一帯。
鎌倉公方の補佐である関東管領の立場にあった犬懸上杉家の氏憲(禅秀)であったが、公方と対立して疎まれ、関東管領の地位をライバルの山内上杉家に取られてしまう。
そこで権力闘争、戦になる。
西では応仁の乱(1467年)があり、これが戦国時代の始まりと考えられているが、東国ではそれより前の応永23年(1416年)に上杉氏憲が大乱を起こしている。
上杉禅秀の乱である。
東国の方が権力構造の上では複雑であったようだ。
そもそも、将軍が京にいて、東国まで管理するのが面倒だから鎌倉に公方を置いて別管理しようなどと考えたことが間違い。
鎌倉公方は京の将軍と対立し始め、権力構造が複雑になってしまった。
そこに頼朝の頃からの在野の武家が加わって力の均衡を破ると、頼朝が目指した武家の規範などは一気に崩れる。
大乱を起こしたものの力及ばず、上杉氏憲は鎌倉の雪ノ下で自刃。犬懸上杉家の滅亡である。
写真は以前にも紹介したが、犬懸ヶ谷の小さな支谷戸。
権力闘争に敗れた犬懸上杉家に関わる念仏堂などが設けられていたところであろうか。