鎌倉八百ヶ谷戸

鎌倉の街はそのものが環境遺跡

善財 一 写真集

天神山の頂辺りは・・・

2021-12-31 11:08:52 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集(PCの大画面で見てほしい)

 

山頂の神社を訪れた方もあろうかと思う。

神社の裏手に小道が続いている。

その裏手の山の頂辺りには、無数の板碑が立っている。

地震によるものであろうか、ほとんど倒れている。

板碑は決して古くはなさそうで、多くは江戸時代のもののようだ。

特別の場であろうことは空気感で判る。

だが、今回、その空域にはたどり着けなかった。

数年前には辛うじて到達できたのだが。

というのは、今は山頂辺りに細竹が密生しており、踏み分け道が途中で失われているのだ。

細竹によって人の侵入を防いでいるのかもしれない、と思って引き返した。

 

細竹の茂っている前には椿の大樹がある。

倒木もあって、いずれも侵入を拒んでいるように思える。


早朝の天神山

2021-12-29 12:39:12 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集(PCの大画面で見てほしい)

化粧坂切り通しを経て北西へと尾根道を辿ると天神山に出られることは以前にも述べた。

天神山は、中世末期には北条氏の砦とされていたようだ。

旗立山に比較して少し高い。

鎌倉の西へと目を光らせる場としては申し分ない。

旗立山も同様であろう。

源頼義や義家が奥州へ出兵した際には、当然のこと、この山にも白旗が立てられたと思う。

かなり目立つはずだ。

東国を支配しようとした源氏が、このような恰好の場を利用しないはずがない。

陽が射し込んできた頃。


旗立山の頂にて

2021-12-26 18:01:39 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集(PCの大画面で見てほしい)

 

それよりもこの山の呼称。

前九年の役で知られる源頼義の奥州出兵において、山の頂に源氏の白旗を掲げたことから、旗立山と呼ばれたという。

さらに、その子義家による後三年の役による出兵に際しても、白旗が立てられたそうだ。

現在、山の頂上は草が刈られて歩き易いように綺麗に整備されている。

こんもりとした地形は昔のままなのであろう。

木々がなければ、かなり遠くまで見わたせる。

出兵のためのデモンストレーション。

掲げられた白旗は、さぞや多くの人々の目に焼き付いたことであろう。

朝陽が射し込んできた。


宮前御霊神社

2021-12-25 18:27:58 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集(PCの大画面で見てほしい)

 

そもそも、山全体が神格化されていたのであろう。

鎌倉街道とは、鎌倉に幕府が置かれた際、交通網、情報網としての街道が要求され、まさに網目のように街道が整備されたもの。

鎌倉から地方へと旅をしなければならない人々は、この御霊神社に立ち寄り、旅の安全を祈ったであろうことが想像される。

神社の裏手に回ってみると、山の尾根筋の一部が平場状に整地されており、何らかの建造物があったことが想像される。


山崎を西へ 御霊神社(宮前御霊神社)

2021-12-23 21:16:15 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集(PCの大画面で見てほしい)

 

鎌倉の西のはずれを歩いている。

鎌倉から日本各地へと街道がめぐらされていたことは、「鎌倉街道」という名称が各地に遺されていることでも理解できよう。

化粧坂から北西に尾根道を辿って洲崎辺り(山崎の西)に出、柏尾川を渡って藤沢から北へと進み、町田、府中、入間を経て上野、下野、信濃へと至る道が「鎌倉街道上ノ道」。

 

その、柏尾川をわたった辺りの街道沿いに離れ山としてあるのが旗立山である。

旗立山の中央辺りに御霊神社(宮前御霊神社)がある。