畑から眺めている。
大きく成長した樹木が辺りを覆っている。
明治初期の地図には、この辺りに降りてくる道が記されている。
もちろん江戸時代以前にこの木が存在したとは思えない。
だが、山を越えて降った辺りに、このような一休みの場があっても良い。
さて、現在畑となっている平場には何があったのだろう。
武家屋敷か、寺院か。
三浦方面と鎌倉を結ぶ名越の切り通しの重要性を考えると、この辺りの研究が進んでほしいのだが。
畑から眺めている。
大きく成長した樹木が辺りを覆っている。
明治初期の地図には、この辺りに降りてくる道が記されている。
もちろん江戸時代以前にこの木が存在したとは思えない。
だが、山を越えて降った辺りに、このような一休みの場があっても良い。
さて、現在畑となっている平場には何があったのだろう。
武家屋敷か、寺院か。
三浦方面と鎌倉を結ぶ名越の切り通しの重要性を考えると、この辺りの研究が進んでほしいのだが。
名越切り通しの大町側入口辺り。
最下段は現在駐車場で、かつては寺院か、あるいは鎌倉への出入り口を固める武家の屋敷か。
この背後に畑があり、谷戸の最奥はやはり寺院跡のようだが、廃寺辞典にも記されていない、知られていない空域である。
横須賀線工事によって失われた長善寺に関わる寺院かもしれない。
20年も前だろうか、調査のためにその最奥部の下草と雑木が刈り払われたが、数年で藪に戻ってしまった。
最奥部を突き詰めて尾根を越えたところにも、名前の判らない寺院跡がある。
そして、現在は藪化して行き着けないが、名越の切り通しの尾根と通じていた。
前回紹介したのは、大町から名越の切り通しへと向かう入口を、明治初期の地図に従って歩いてみようと試みた結果、藪がひどくて断念したという写真。
2年ほど前の冬に撮った写真。
併せて昨年のブログを参照のこと。
草木は枯れているのだが、これを掻き分けて進むのは容易でない。
名越の切り通しは、亀ヶ岡団地のはずれ辺りから、まんだら堂を経てJR横須賀線のトンネル横に沿って大町に至るルートが、現在最もよく知られている。
このように書く理由は、実は明治初期の地図を見ると、大町側の道の位置が一山ずれているからなのだ。
現在、大町から線路沿いにまっすぐ切り通しの峠に向かっている道は、古い地図にない。
これにより、現在の名越の切り通しは古くからのものと違うと断言している人もいる。
明治初期の地図によると、現在の名越の切り通しが大町側に下り始める辺りから尾根側に道筋が変わり、平場の上を通って尾根を西に進んだところで降っている。
その古道を辿ってみようと試みたこともあったが、藪がひどくて未だ達成していない。
だが、疑問がある。
鎌倉に入るためのいくつかの切り通しを観察すると、いずれも切り通しを見下ろすような場が存在するのだ。
切り通しを管理するにはそれを俯瞰する場があったほうがいい。
明治初期の地図の道は、幾段かの平場の上を進んでいるのだ。
それに対し、その平場の下を通っているのが現在の名越の大町側の道である。
切り通しは、通行が煩わしいほどに狭く構築されている。
明治初期の地図にある道は江戸時代に整備されたもので、大町寄りの本来の道は現在の道、あるいはトンネル工事で消滅してしまったのではないだろうかと、筆者は考えている。
写真は明治初期の地図に描かれている古道を大町側から辿ってみたところ。
古道は右の山際を経ているのではないだろうかと想像している。
藪化した踏み分け道の先は、かつて畑であったが、10年以上藪のままだ。