山の尾根筋が通路として活用されていたことは何度か述べている。
頻繁に利用する通路は度々改修されて掘り込まれる。
尾根筋の道が窪んでいるのはそのためである場合が多い。
もちろん道の存在を隠す目的もあったろう。
尾根筋への入口も分かりにくい場合が多い。
とある尾根筋を歩いていると、石段が遺されていた。
近代に改修されたものであろうが、本来の石段は古道に違いない。
この上には何があったのだろう。
写真の左は谷戸の奥まで人家が迫り、さらに奥は畑。
右手の谷戸は竹林。
山の尾根筋が通路として活用されていたことは何度か述べている。
頻繁に利用する通路は度々改修されて掘り込まれる。
尾根筋の道が窪んでいるのはそのためである場合が多い。
もちろん道の存在を隠す目的もあったろう。
尾根筋への入口も分かりにくい場合が多い。
とある尾根筋を歩いていると、石段が遺されていた。
近代に改修されたものであろうが、本来の石段は古道に違いない。
この上には何があったのだろう。
写真の左は谷戸の奥まで人家が迫り、さらに奥は畑。
右手の谷戸は竹林。
岩瀬の辺りを歩いている
室町時代、岩瀬は上杉家の領地であった。
砂押川沿いには支谷戸があり、山際が綺麗に刈り込まれたように処理されている。
背の高い木を植えないこと。
崩落しやすい鎌倉の土地の利用方法の一つと言えよう。
また、山をちょっと上がった辺りに墓地があるのも特徴。
祠もいたるところにあるので、つい撮ってしまう。
祠などはすでに形骸化しているのではないだろうかと感じていたが、とある正月のこと、住まいの裏の小さな祠に、家族総出であろう親子十人ほどが詣でている場面に遭遇したことがある。
亀ヶ谷あるいは巨福呂坂を経て山内に出、武蔵国へと向かう鎌倉街道は、本郷辺りで鼬川を渡る。
鎌倉公方は、この辺りで出陣の際に儀式を行ったそうだ。
現在の山ノ内というと北鎌倉辺りだが、古くは本郷辺りまでの広い範囲を指していた。
すなわち、鎌倉公方にとっては、岩瀬の辺りを含めて重要な場。
鼬川に至る途中、岩瀬の大谷戸の入口辺りに大長寺がある。
大長寺は戦国時代の後北条氏による天文17(1548)年の創建。
鎌倉街道沿いに小山に抱かれるように大長寺が佇む谷戸がある。
寺の奥は墓地となっているが、その脇の道を上ると辺り一帯が見渡せる山の上の平場に出る。
このように眺めると、さて、大長寺装建以前、殊に鎌倉時代から室町初期にかけて、この場所はどのような位置付けにあったのだろうか、とても興味深い。
左手の小山のすぐ脇が鎌倉街道。
この谷戸の本来の役割は?
鎌倉の谷戸の写真を撮っている。
花の季節は花に目がとらわれてしまって困る。
決して花が嫌いなわけではないので、時には花を入れて撮る。
でも、花が主体ではなく谷戸の様子が分かるように撮る。
谷戸の最奥部が、住人の手で整備されているのはうれしい。
でもここのアジサイは、人の目にとまることがほとんどないようだ。