鎌倉権五郎景政が祀られている御霊神社。長谷から極楽寺へ向かう途中にも御霊神社があり、そちらの方が有名だ。同じく景政が祀られている。山の斜面を掘削して平場を設け、社を建てたことが良く判る。台地には掘り込んだ痕跡が遺されている。掘削の痕跡は比較的新しく感じられることから、明治頃に平場そのものを造り直したものだろう。景観として古い鎌倉の谷戸が感じられるのがいい。
西に開けているために台地上では富士山が良く見える。
地名に富士とつく場所もある。
江戸時代に富士山信仰が流行し、富士塚も造られた。
例えばモノレール湘南町屋の東の丘の上に富士塚公園がある。
以前に紹介した岩瀬の畑の奥にも富士塚がある。
大蔵稲荷のある小富士山も富士山信仰によるものであろう。
写真は寺分の駒形神社の辺り。
山襞の端に駒形神社があり、その横に富士山信仰を感じさせる「富士岱神社」と刻まれた石碑がある。
尾根から眺めている。木々が茂っているため、洲崎古戦場の彼方にあるはずの富士山が見えない。
木々の合間に見えるのが駒形神社の屋根。
天神山北野神社の参道。鳥居に朝日が差し込むころ。数年前の撮影だが、静かな佇まいは今も変わらない。
撮影していると、アイドル風の女の子が石段を上がってきた。天神山の北野神社に願掛けしているのであろうか、社殿はずっと上の方である。
天神山は戦国時代に活用された玉縄城と連携した出城、砦と考えればいいだろう。北野神社はその後の建立だろうか。北野神社の背後に踏み分け道が続いている。数十メートルも草を分けて進んでいくと、木立の間に無数の板碑が、地震によるものであろうか倒れたままで、いわば散乱している。
鎌倉の山の上は墓地とされているところもある。かなり尾根筋近くにヤグラが設けられていることが多いのだが、尾根を掘り込んで埋葬している場合もあるようだ。
山崎打越の切り通しの辺り
上の写真の背後。数メートルほどの台地が続いているその上は畑。
だが夏場は植物が茂って地形が良く判らない。ここ数回のブログ写真は最近撮ったもの。
筆者は鎌倉の歴史書をあまり読まないし、それを頼りに説明を書かないようにしている。鎌倉について知りたいのであれば、詳しい書物があるし、簡単なことならネットでも容易に情報が得られるから、ここで説明する必要もなかろうと思っている。その一方で、筆者は古い地図を良く見る。手元にあるのは明治15年の測量地図。今の地図と比較すれば変化しているところがよく判る。天神山の東南辺りに小山があったはずだが・・・ない。天神山の南に山襞の西端部があったはずだが・・・今はもうない。総て崩されてしまったようだ。何しろ鎌倉周辺の土地は頗る脆弱である。崩しやすい。平地化しやすいのだ。小山の一つや二つ、簡単に削り取ってしまう。
源氏山から連続している山襞、尾根筋の一つが、中央公園の北を走っている。ハイキングコースとしても知られている尾根道だ。この道は、山崎打越の辺りで切り通しのために寸断され、以西はその山並みの痕跡があるかな、といった程度の、高さ3メートルほどの土手のようなものが続いている。その遺されている土手の北側が、かつて小山であったところ。今は土手の上が畑になっており、小山のあったところはマンションなどが建ち並んでいる。
写真を撮っておこうと赴いた。ちょうど畑の所有者がおられた。話をうかがうと、この小山は第二次世界大戦中に軍の飛行機関連の施設建設のために削り取られてしまったそうだ。また、山襞の先端、即ち台状に構造された部分には砲台が設けられていたとか。これら山襞は、鎌倉時代からずっと、戦のために利用されていたのだ。
遠くに見えるのが天神山とモノレールのレール。
この右側が小山であった。
幅数メートルほどの畑が続いているのはちょっと面白い。