鎌倉八百ヶ谷戸

鎌倉の街はそのものが環境遺跡

善財 一 写真集

洲崎古戦場と泣塔

2021-04-30 22:08:35 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集

 

洲崎の古戦場。

 

元弘3年5月、新田義貞が挙兵。

鎌倉街道を南下する義貞軍を迎え撃つべく鎌倉方が軍勢を差し向けるも敗退を重ねる。

そして鎌倉への西の入口、洲崎が戦いの場となった。

化粧坂、大仏坂への入口に当たる洲崎は、柏尾川が造り出した湿地帯。

泥田に足を奪われながら戦いがくり広げられたのだろう。

現在、この辺りは広い空地とスポーツ施設となっている。

その北端に泣塔と呼ばれる墳墓がある。

20メートル四方ほどのフェンスで囲まれている中に高さ数メートルほどの小山があり、その中ほどにヤグラと石塔が遺されている。

平地に小山がぽつんとあるわけがない。

梶原の尾根の端が北西に延びて柏尾川に迫っていたのだが、戦時中にそのほとんどが削り取られてしまったようだ。

モノレールの湘南深沢から徒歩で3分ぐらいのところ。

だから、モノレールの西側に山際が掘削された痕跡を見かけ、何となく古い遺跡のように感じられるのだが、江戸時代以前の工事ではない。

湘南深沢駅からの眺め。写真中央の小山が泣塔。

古くは、この背後に尾根が続いていたのだ。


広町緑地から室ヶ谷へ

2021-04-29 18:39:59 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集

 

武家の盛衰に関しての記録はたくさん残されており、小説などにも採られているようだが、農民の歴史に関してはあまり話題にされていないようだ。

東国は、京都の幕府と、鎌倉公方(後に古河公方、堀越公方)という、いわば多重の権力構造によってかなり複雑な状況であった。

関東管領上杉家が力を持ち始めると、また様子が変わってくる。

農民もまた武器を備えて守らねばならなかったが、専業武士にはかなわない。

鎌倉近隣の農地はまだましだが、地方の農民は様々な力に脅かされていた。

映画「七人の侍」を思い起こす。

 

小竹ヶ谷を詰めて尾根を越えると室ヶ谷。

農村の景色が生きている。田畑が生きている。

梅の咲き始めた頃に撮ったまま放り出してあった写真を含めて・・・。


御所ヶ谷 広町緑地

2021-04-28 21:37:43 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集

 

御所ヶ谷奥

室町時代、武家や社寺の領地に関する問題が各所で起きている。

土地は社寺などに寄贈されることがある。管理する者が、領主の思惑で代ることもある。

権力構造が変わると、それら以前に行われた領地管理が一変する。

加えて土地の横領があった。

武力で奪取するわけだ。

横領は、裁判所に提訴すれば、審議されて返還されることもあれば、戻らないこともある。

権力構造によって、限られた土地の所有権があっちへ行ったりこっちへ行ったりと、目まぐるしく変わった。

ではその時、農民はどのように扱われたのだろう。

例えば北条家の先祖が開発した土地を室町時代に足利家が領地としたわけだが、農民はそもそも北条家に関わりのある人々であったに違いない。

農民も足利家の農民にそっくりそのまま入れ替えられたのであろうか。

 

広町緑地には、掌のように幾つかの谷戸が遺されている。

支谷戸の呼称もそれぞれにあったようだが、竹ヶ谷、御所ヶ谷などが知られているのみ。

下の写真は冬場に撮影した竹ヶ谷の様子。


広町緑地 水田地帯

2021-04-27 21:30:51 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集

 

広町緑地。

鎌倉中央公園と同様に里山として谷戸が遺されている。

田園地帯であったろう。

谷戸の周りは宅地開発されており、木々の上に住宅が見えている。

かなりの湧水があり、水田としては適地ながら、住宅を設けるには排水の工夫が必要であったろう。

谷戸は田畑だけだったのかもしれない。

緑一色の湿地帯。

鎌倉の谷戸の様子や特徴は、よく判らない。

これでは、どこにでもある小さな谷間の風景だ。


鎌倉中央公園を歩いている

2021-04-25 19:23:33 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸

《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集

 

山の斜面を切り拓いた平場がある。

たくさんのホウチャクソウが咲いていた。

平場は畑とされているところが多い。

低湿地は水田であったろう。

この谷戸が農地であったとすれば、平場は住居であろうか。

寺院があったようには思われない。

辺りを歩きながら江戸時代、室町時代へと想いを廻らせるのが楽しい。