釈迦堂
安国論寺のある支谷戸から松葉ヶ谷を含む大谷戸が名越大谷。現在、大町と呼ばれるこの地域は、中世鎌倉の武家にとっては重要な防御的意味合いを持つ場であった。鎌倉でも比較的標高が高く見晴らしの良い衣張山(121メートル)を背後にした要衝である。
幾つかの支谷戸を左右に見て、くねるような坂道を進むと北条時政山荘跡と言い伝えのある平地に至る。
伝承が先行しているものの、背後の衣張山の山並みは東の久木辺りまで続き、そのいたるところに切岸や平場が遺されており、また尾根筋は東勝寺跡や妙本寺のある西の屏風山にまで連なっている。北条一門の武家屋敷跡、あるいは寺院跡であったとしても北条氏に深く関わりがあり、敵を迎え討つことを想定した戦略的な意味合いの強い場であったと推考される。特に重なるように連なる山襞には切岸が設けられており、城壁の機能が備わっている。
時政山荘跡の釈迦堂の切通しと呼ばれる洞門も、高所から見下ろせば攻撃的な機能を持つ。時政山荘の背後に連なる尾根筋に設けられた様々な施設やヤグラに伴い、洞門上には門扉を設ければ明らかに入口とも思われる、尾根の一部を切り施したような場がある。
崩落が激しいことから通行が禁止されているその釈迦堂切通しの北側の釈迦堂ヶ谷に出ると、眺めは複雑だ。谷戸を歩いてくると、ぽっかりと開いた洞門ばかりが目につき、木々が茂ってその上部にある戦略的な施設には目が行かないのである。往時は洞門上まで階段が設けられていたのであろう。辺りは鬱蒼と木々が茂っているが、藪を掻き分けて進むと、山際にはヤグラが口を開けている。厩なども備わっていたのであろう、この谷戸には、北条時政山荘を守る施設が存在したと思われる。
また、複雑に連なるこの辺りの尾根の頂近くには無数のヤグラがある。昭和四十年代に不法な宅地開発が行われて破壊されてしまったヤグラ群の中には、北条氏滅亡の折に供養されたヤグラがあったという。