日本の特撮作品を語る上で忘れられない作品があります。1954年、その後50年に渡る一大シリーズが誕生しました。
1954年半ば、映画会社東宝のプロデューサー田中友幸はアジア某国から日本へと帰る飛行機に乗っていた。彼は新しく製作する予定だった合作映画の企画をまとめる為に出国していたのだが現地の反日感情はすさまじく企画は頓挫してしまった。何か代作を考えなくてはならなくなった田中は何気なく飛行機の窓から海を見てある事件を思い出した。
1954年3月、米軍は新たに開発された水爆実験をマーシャル諸島のビキニ環礁で行った。だがその威力は米軍の予想をはるかに上回り、危険海域外で操業していた日本の漁船までも被爆するという事件が発生した。しかも、その後の調査で太平洋のほぼ全域に放射能が拡散し、マグロやサメまでも汚染されていた。
田中の脳裏にあるアイディアが浮かんだ。『もしも大昔の海に住む生き物が生きていて水爆が原因で目を覚ましたら…』
すぐさま帰国した田中は上司に事の次第を説明し、企画書を提出した。これはすんなりとOKされ、田中は東宝撮影所内の「円谷特殊技術研究所」をたずねた。ここの所長こそ後に日本特撮の神様と呼ばれる特撮監督円谷英二氏である。彼は昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、彼が特撮監督として参加し、1942年に製作された「ハワイ・マレー沖海戦」はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)さえも騙した傑作であった。彼の協力なくして完成はありえないと田中は円谷のもとを訪れたのだ。企画を聞かされ難色を示した円谷であったが田中の説得に応じた。画してこの企画が現実のものとして動き出し、「G作品」という名がつけられた。
これこそ後に50年にも渡ってシリーズが作られ続けた東宝特撮映画の代名詞、「ゴジラ」の誕生でありました。
1954年、日本近海で貨物船「栄光丸」が沈没事故を起こした。さらに救助に向かった貨物船「備後丸」と大戸島の漁船も次々と行方不明になり、救出された大戸島の漁師は「巨大な怪物に襲われた」と証言する。そのことを聞いた島の老人は、大戸島の伝説に伝わる怪物「ゴジラ」の仕業ではないかと漏らす。
そして雨の夜、謎の巨大生物のような姿が目撃され、家屋や新聞社のヘリが破壊された。政府には大戸島災害陳情団が列をなし、政府公聴会ではこれを未知の生物の仕業とする一連の証言を受け、古生物学者の山根恭平博士らによる調査団が結成され、海上保安庁の巡視船が大戸島へ出航した。このメンバーには、物理学者田辺博士、新聞記者の萩原のほか、山根娘の恵美子やその恋人で南海サルベージ所員の尾形秀人らが同行。大戸島では、村の所々で放射能反応が確認され、山根博士は残された巨大な足跡からジュラ紀の古生物である三葉虫を発見。そのとき不気味な足音が鳴り響き、海へ続く山の峰に向かった一行が見たのは、巨大な恐ろしい怪獣だった。
東京へ戻った山根博士はその巨大生物を大戸島の伝説に従って「ゴジラ」と呼称し、三葉虫と残留放射能を根拠に「ジュラ紀に生息し、海底の洞窟に潜んでいた太古の生物が、水爆実験の影響で出現したのではないか」とする見解を国会での公聴会で報告。この事態に国際問題を鑑み公表回避を主張する与党と、事実の公表を主張する野党とで国会は紛糾。人々は再びの疎開を話題にするのだった。
山根博士らの報告を受けた政府はゴジラに対し、大戸島西方沖の海上で巡洋艦部隊による爆雷攻撃を実施。これを報じるテレビに、山根博士は古生物学者という立場上、太古の生物の生き残りであるゴジラを抹殺しようとする政府の方針に心を痛める。政府は特別災害対策本部を設置、山根博士にゴジラ抹殺の方法を尋ねるが、博士は水爆の影響を受けなおも生命を保つゴジラの抹殺は無理とし、その生命力の研究こそ急務と主張した。
その夜、東京湾に現れたゴジラは防衛隊の戦車部隊や航空攻撃、5万ボルトの高圧電線バリケードを突破、二度の上陸によって京浜地区は壊滅状態となり、都心部も国会議事堂をはじめ銀座中央通り、国鉄(現JR東日本)品川駅、日劇、勝鬨橋などを次々と瓦礫の山へと変えていった。
町には負傷者があふれ、多くの人々が悲しみにくれていた。もはやゴジラにはどんな手段も通用しない。このまま日本は壊滅してしまうのだろうか。
だが尾形と恵美子はある一つの可能性を求めて、二人は恵美子の元婚約者である芹沢大助博士の元へ向かった。博士が以前恵美子に水中酸素破壊装置オキシジェンデストロイヤーの完成品を見せたのだった。尾形と恵美子の頼みを断る芹沢博士。しかし、二人の説得とテレビから流れてきた東京の惨状を見、コーラス隊の平和への歌声を聴き芹沢博士はオキシジェンデストロイヤーの使用を決心し、原爆のように使用されぬ様に設計図を燃やしました。
そして東京湾にてついに作戦決行の日がきました。防衛隊、海上保安庁が警戒し、マスコミが注目する中、ガイガーカウンターによってゴジラが探知され、尾形と芹沢博士は潜水服を着てオキシジェンデストロイヤーを海底で作動させます。ゴジラはオキシジェンデストロイヤーによって死亡、細胞が溶解し骨となりました。ゴジラの最期を見届けた芹沢博士は先に尾形を引き揚げさせて「幸福に暮らせ」との言葉を遺して自らの命綱と酸素パイプを切断しました。
こうしてゴジラは葬られ、芹沢博士は静かに海底深くで眠りについたのです。
しかし山根博士は語ります。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。人間が核兵器の力を使い続ける限り、第二のゴジラが現れるだろう。」
日本初の本格怪獣映画ゴジラ。製作田中友行、特技監督円谷英二、監督本多猪四郎。観客動員数日本映画過去最高の960万人を記録。同年公開の黒澤明監督作品「七人の侍」を上回る大ヒットを飛ばしました。
キャストは主演宝田明、ヒロイン河内桃子、平田昭彦、志村喬と昭和東宝スターが続々登場。またチョイ役で菅井きんさんも出演されてました。
ちなみにこの作品に登場するゴジラの骨とオキシジェンデストロイヤーは後に平成作品「ゴジラvsデストロイア」「ゴジラΧメカゴジラ」「ゴジラΧモスラΧメカゴジラ・東京SOS」に登場します。
今年生誕60年を迎える日本を代表する大怪獣ゴジラ。ハリウッドの新作をご覧になる前に一度ご覧になるのもいいかもしれません。
次回のゴジラ映画紹介は初代ゴジラ製作の裏側をとりあげようと思います。
1954年半ば、映画会社東宝のプロデューサー田中友幸はアジア某国から日本へと帰る飛行機に乗っていた。彼は新しく製作する予定だった合作映画の企画をまとめる為に出国していたのだが現地の反日感情はすさまじく企画は頓挫してしまった。何か代作を考えなくてはならなくなった田中は何気なく飛行機の窓から海を見てある事件を思い出した。
1954年3月、米軍は新たに開発された水爆実験をマーシャル諸島のビキニ環礁で行った。だがその威力は米軍の予想をはるかに上回り、危険海域外で操業していた日本の漁船までも被爆するという事件が発生した。しかも、その後の調査で太平洋のほぼ全域に放射能が拡散し、マグロやサメまでも汚染されていた。
田中の脳裏にあるアイディアが浮かんだ。『もしも大昔の海に住む生き物が生きていて水爆が原因で目を覚ましたら…』
すぐさま帰国した田中は上司に事の次第を説明し、企画書を提出した。これはすんなりとOKされ、田中は東宝撮影所内の「円谷特殊技術研究所」をたずねた。ここの所長こそ後に日本特撮の神様と呼ばれる特撮監督円谷英二氏である。彼は昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、彼が特撮監督として参加し、1942年に製作された「ハワイ・マレー沖海戦」はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)さえも騙した傑作であった。彼の協力なくして完成はありえないと田中は円谷のもとを訪れたのだ。企画を聞かされ難色を示した円谷であったが田中の説得に応じた。画してこの企画が現実のものとして動き出し、「G作品」という名がつけられた。
これこそ後に50年にも渡ってシリーズが作られ続けた東宝特撮映画の代名詞、「ゴジラ」の誕生でありました。
1954年、日本近海で貨物船「栄光丸」が沈没事故を起こした。さらに救助に向かった貨物船「備後丸」と大戸島の漁船も次々と行方不明になり、救出された大戸島の漁師は「巨大な怪物に襲われた」と証言する。そのことを聞いた島の老人は、大戸島の伝説に伝わる怪物「ゴジラ」の仕業ではないかと漏らす。
そして雨の夜、謎の巨大生物のような姿が目撃され、家屋や新聞社のヘリが破壊された。政府には大戸島災害陳情団が列をなし、政府公聴会ではこれを未知の生物の仕業とする一連の証言を受け、古生物学者の山根恭平博士らによる調査団が結成され、海上保安庁の巡視船が大戸島へ出航した。このメンバーには、物理学者田辺博士、新聞記者の萩原のほか、山根娘の恵美子やその恋人で南海サルベージ所員の尾形秀人らが同行。大戸島では、村の所々で放射能反応が確認され、山根博士は残された巨大な足跡からジュラ紀の古生物である三葉虫を発見。そのとき不気味な足音が鳴り響き、海へ続く山の峰に向かった一行が見たのは、巨大な恐ろしい怪獣だった。
東京へ戻った山根博士はその巨大生物を大戸島の伝説に従って「ゴジラ」と呼称し、三葉虫と残留放射能を根拠に「ジュラ紀に生息し、海底の洞窟に潜んでいた太古の生物が、水爆実験の影響で出現したのではないか」とする見解を国会での公聴会で報告。この事態に国際問題を鑑み公表回避を主張する与党と、事実の公表を主張する野党とで国会は紛糾。人々は再びの疎開を話題にするのだった。
山根博士らの報告を受けた政府はゴジラに対し、大戸島西方沖の海上で巡洋艦部隊による爆雷攻撃を実施。これを報じるテレビに、山根博士は古生物学者という立場上、太古の生物の生き残りであるゴジラを抹殺しようとする政府の方針に心を痛める。政府は特別災害対策本部を設置、山根博士にゴジラ抹殺の方法を尋ねるが、博士は水爆の影響を受けなおも生命を保つゴジラの抹殺は無理とし、その生命力の研究こそ急務と主張した。
その夜、東京湾に現れたゴジラは防衛隊の戦車部隊や航空攻撃、5万ボルトの高圧電線バリケードを突破、二度の上陸によって京浜地区は壊滅状態となり、都心部も国会議事堂をはじめ銀座中央通り、国鉄(現JR東日本)品川駅、日劇、勝鬨橋などを次々と瓦礫の山へと変えていった。
町には負傷者があふれ、多くの人々が悲しみにくれていた。もはやゴジラにはどんな手段も通用しない。このまま日本は壊滅してしまうのだろうか。
だが尾形と恵美子はある一つの可能性を求めて、二人は恵美子の元婚約者である芹沢大助博士の元へ向かった。博士が以前恵美子に水中酸素破壊装置オキシジェンデストロイヤーの完成品を見せたのだった。尾形と恵美子の頼みを断る芹沢博士。しかし、二人の説得とテレビから流れてきた東京の惨状を見、コーラス隊の平和への歌声を聴き芹沢博士はオキシジェンデストロイヤーの使用を決心し、原爆のように使用されぬ様に設計図を燃やしました。
そして東京湾にてついに作戦決行の日がきました。防衛隊、海上保安庁が警戒し、マスコミが注目する中、ガイガーカウンターによってゴジラが探知され、尾形と芹沢博士は潜水服を着てオキシジェンデストロイヤーを海底で作動させます。ゴジラはオキシジェンデストロイヤーによって死亡、細胞が溶解し骨となりました。ゴジラの最期を見届けた芹沢博士は先に尾形を引き揚げさせて「幸福に暮らせ」との言葉を遺して自らの命綱と酸素パイプを切断しました。
こうしてゴジラは葬られ、芹沢博士は静かに海底深くで眠りについたのです。
しかし山根博士は語ります。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。人間が核兵器の力を使い続ける限り、第二のゴジラが現れるだろう。」
日本初の本格怪獣映画ゴジラ。製作田中友行、特技監督円谷英二、監督本多猪四郎。観客動員数日本映画過去最高の960万人を記録。同年公開の黒澤明監督作品「七人の侍」を上回る大ヒットを飛ばしました。
キャストは主演宝田明、ヒロイン河内桃子、平田昭彦、志村喬と昭和東宝スターが続々登場。またチョイ役で菅井きんさんも出演されてました。
ちなみにこの作品に登場するゴジラの骨とオキシジェンデストロイヤーは後に平成作品「ゴジラvsデストロイア」「ゴジラΧメカゴジラ」「ゴジラΧモスラΧメカゴジラ・東京SOS」に登場します。
今年生誕60年を迎える日本を代表する大怪獣ゴジラ。ハリウッドの新作をご覧になる前に一度ご覧になるのもいいかもしれません。
次回のゴジラ映画紹介は初代ゴジラ製作の裏側をとりあげようと思います。