おはようございます。朝の哲学・政治学・心理学?
昨夜、ある人から、突然のお誘いを受けた。もしもメールでなかったならば、私は激怒していた。メールだから考える暇がある。何を思ってよこしたのか、悪意があるのか、善意なのか。どちらでも問題だが、それぞれの対処法が問われる。
辺野古テント村時代のことだが、右翼が時々押しかけてきた。穏便にお引き取り願いたいものだ。しかし私たちは、これは何を狙っているのかを理解できているから、まだ対処は容易だった。
時に初めて来て、突然「こうだ!」と叫ぶ人が居た。彼はキリスト者を自称していた。「米国のキリスト者は平和的だ」と絶叫されてしまった。絶叫されたのは、私が直対応してしまい、「そんなことはありえない!」と反論したからだ。私はここでそんなことに一言も言及していなかったのに、何だよ!と思う。こうなってしまってからでは、もう議論にならない。寒い空気を払うためには、お帰り願うしかなかった。
お互いに拠って立つ足下(土台)が違うのだ。足下が違っても、すりあわせていけば、議論になることもある。できる限りそうしたいと私は考えてきた。個々人はそれぞれ幾つかの足下をもっているはずだ。一本しか持ち合わせていない人は希だろう。カルト集団・カルト国家の属人以外。
日本という国はかってカルト国家だった。何百万人、何千万もの人々が死地に追い込まれていった。天皇制国家。この国はそうした歴史を全く総括しようとしていない。人民も「国民」と言い直されて、このことを総括しようとしていない。米国もおかしいが、この国もそうとうおかしいのだ。
私は「信じる者は、救われない」と考えている。信じる者は、救われたいのだが、その「教え」と向き合わなければ、打開の道は開けまい。簡単ではないのだ。
先のメールも、宗教論争に重なるものがあると私は考える。事前の脈略のない案内。虚しすぎる案内。信じる者は救われるという思い込みがなければ、無理だと分かるだろうに。私は如何なるカルトをも信じない。無神論なのだ。如何なる思い込みを脱しない限り、現実の闇夜を抜け出すことはできないだろう。
漆黒の闇夜を照らし出すのは、私たちが生きようと実践し続けるしかないだろう。身も心も頭もひとつであり、双頭はいらない。但し、自主的に自律的に生きること。悩みは死ぬまで尽きないだろう。悩み抜く頭と心が問われているのだ。
朝っぱらから厳しい哲学となり、申し訳ない。