ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【補足】【訂正】川崎哲君の指摘に寄せて(20210811)

2021年08月11日 | 歴史から学ぶこと

 2021年8月9日の夜(?)核兵器に関するネット番組で、川崎哲(あきら)君がこう指摘した。川崎君は核兵器廃絶国際キャンペーン国際運営委員。核兵器禁止条約の運動を長年続けてきた人だ。

 彼は、こう言ったのだ。日本国内の反原爆運動は過去の被爆について問題にしているが、世界の反核運動は今現在の危機を問題にしているから強い(要旨)、と。全く同感だ。

 この彼の指摘について、20代の出席者二人は、「どうしてですか?」と質問をするかと思ったが、疑問の声は出てこなかった。

 この問題をしっかり考えたら、相当根の深い問題だとわかるのだが。ひとまず私が思い当たることを列挙してみよう。

(Ⅰ)軍事機密に覆われた原爆攻撃・被害

 1945年8月6日、8月9日に原爆が投下されたことを、当時の大日本帝国は軍事機密にした。米国も1952年4月28日(占領下)まで原爆にかかわる様々な資料、表現を封じた。軍事機密にしたのだ(堀場清子著「原爆 表現と検閲」朝日新聞社1995年刊)。被爆の実相が隠されたことは、戦後の日本政権にとっても「幸福」だった。米国の核の傘に入ることを決めたからだ。被害国が「共犯者」になったのだ。それが1952年4月28日の日本の独立と旧米日安保条約の発効だ。米国の核配備を含む軍事駐留を受け入れたのだ。もっとも核配備の大半をオキナワに押しつけてだが。

 日本において原爆反対の声が大衆化したのは1954年3月1日のビキニ環礁における第5福竜丸等(日本のマグロ漁船だけで約1000隻ー高知県ビキニ水爆実験被災調査団著「もうひとつのビキニ事件」平和文化2004年刊)の被爆に驚愕した市民が原水爆禁止署名を始めたからだ。ヒロシマ・ナガサキから9年後のことだった。

(Ⅱ)関心は自分事のみ

 このことに、被爆した第5福竜丸の乗組員らの告発が大きく貢献したが、それに応答したのはマグロを食べている、食べたい市民の体と結びついての大衆化だった。食と体に結びついたのはよかったが、被爆した海・島への想像力は喚起されなかった。現地の海、マーシャル諸島の島々・人々のことを想起することはなかったのだ。地理的な距離は、どうにもならないことなのか? マーシャル諸島はミクロネシアであり、大日本帝国が「南洋群島」と称し、植民地にしていた島々だ。こうした歴史をひもとけば、もう少し違う視点がうまれたのかもしれない。

 参考文献ー島田興生(写真)・渡辺幸重(文)「ふるさとはポイズンの島」(旬報社 2012年刊)、豊崎博光著「マーシャル諸島核の世紀(上・下)」(日本図書センター 2005年刊)など

(Ⅲ)軍事力というエスカレーションの恐ろしさへの想像力が欠けている日本人

 なぜ原爆が落とされたのか? これは大問題だ。米国が原爆開発に走ったのは凶暴なナチスドイツを降伏させるという大義名分があったからだ。しかし【1945年5月】にドイツは降伏した。米国はせっかく開発(中)・製造した核兵器を使う相手を日本帝国と定め直した。第2次世界大戦後の世界支配を見据えた米国。核人体実験としてのヒロシマ・ナガサキだった。

 昔から槍と盾の矛盾というが、力には力を、最大の力には、最大の力をの結果が原爆・水爆の開発に至り、使用してしまったのだ。攻撃のエスカレーションは、とどめようがなくなる。そんな戦争態勢が人間社会を壊していくのだ。未だに核を所有している米国等の核保有国、認めている日本国では、こうしたエスカレーションがもたらす破滅を想像できないのだ。

(Ⅳ)歴史認識を欠いたままの日本人

 なぜ原爆が落とされたのか? これが大問題だ。原爆投下は正当化できない国際法に反する無差別攻撃だ。日本も侵略戦争を侵したから総反撃されたのだ。毒ガスを使い、化学兵器を使ってきた。「アジア・太平洋戦争」というのは、大日本帝国のアジア侵略がにっちもさちもいかなくなり、資源などの確保を求めて、米国等との戦いに走ったわけだ。何事も結果には、原因があり、過程があるのだ。こうした歴史認識を遠ざけてきたのが、天皇制だ。天皇を特別扱いしてきたのだ。1945年敗戦を挟みながら大元帥だった裕仁は戦犯に問われなかった。人々は問えなかった。

 関連していることとして、元号という時間の単位がある。昭和・平成・令和というあれ。「昭和歌謡」などともつかわれるが、ムード的なもの。世界の出来事と無縁に生きる唯我独尊の時間。こうした頭で刻む思考では、事実をまともにつかむことは出来ない。

(Ⅵ)非核3原則とオキナワ

 1967年12月、佐藤首相は「核兵器をもたず、作らず、もちこませず」の非核3原則を表明した。これが1971年の衆議院本会議で可決され、国是とされていったのだ。佐藤首相は、沖縄の核撤去をもちだしたが、沖縄を核基地として容認してきたからこそ、言えたことだ。非核3原則も平和憲法があったからのみならず、核基地の、安保の島沖縄があったからこそでてきたことだ。

 また、68年1月、佐藤首相は、この非核3原則を、4つの核政策とした。①非核3原則、②核軍縮努力、③米核抑止力依存、④核平和利用推進。要するに、米国の核の傘の下にあるから、米日安保堅持、原発推進であり、非核3原則を表の顔として誇示したかったのだ。だから核密約を取り決めてきたのだ。

 沖縄は非核3原則とバーターにされたのでは、たまらない。非核3原則で平和国家日本を美化するな!

(Ⅶ)米日安保の歴史の中から核を捉える

 米国が核を使った1945年8月6日、9日。8月14日、大日本帝国は終わり、沖縄を基地の島として米国に明け渡し、安保体制を結んできた。米国は朝鮮戦争、ベトナム戦争を行い、何度か核兵器をつかう算段もした。核兵器を空母から海中に落としたりも含め、核戦争一歩手前の歴史が続いてきたのだ。戦後日本は、米国の戦争に多大な協力をしてきたのだ。そして米日の安保共同発表に米国の核抑止力のことを掲げてきたのだ。

 この意味で、ヒロシマ・ナガサキは過去のことではない。核実験なしに核開発はないのであり、核抑止力は軍事力の一環なのだ。核抑止力を前面に出している菅政権は、だからこそ8月6日の平和宣言の中で、読み飛ばしても、自らの非に気がつかないのだ。

 核廃絶を唱えるならば、私たちはこれまでの歴史を捉え返し、その根幹である安保破棄をめざさなければならないはずだ。もっとクールに!

 

 

 

 

 

 

 

ヲ早期知るはほとんど伝えられていない

 

 

 

 



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