ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

沖展、残念でした(20220121)

2022年01月21日 | 文化の目

 おはようございます。今朝の沖縄タイムスに沖展の写真部門の結果がでました。残念ながら、私の名前はありませんでした。今回の私は、かなり沖展の写真部門の選抜の目を意識しました。言葉は悪いですが、すり寄ってみました。これ以上すり寄ったら、私じゃなくなるぐらいに。

 美というものについて、自然というものについて、人間というものについて、写真というものについて、私と沖展の審査委員は違うようです。審美眼の違いは、いかんともしがたいです。写真であり、その現場性を重視している私は、今回の例で言えば、茎や葉の下に落ちていた櫛の破片をつまみ出しませんでした。そうすれば、必ず不自然な隆起が起きます。アカバナーとアダンの間に潜む櫛は、確かに「異物」ではありますが、海岸への漂流物であり、そんな環境なのです。写真における美は、空想空間での表現を追求することではありません。美と言いがたいものも含む矛盾した場所であり、行為だと私は考えています。

 また、主たる被写体は、落下したアカバナーの花びらです。まだ赤く、黄色い輝きが残っていました。むろん、シミができ、100%の美しさが残っているわけがありません。いや、花の美しさは、実は満開前の6割、7割の開花状況が相対一番美しいものですが、ベストタイミングでも100%はないのです。絵画ならば、これを直して、仕上げることはできます。写真は、そうした生命活動の矛盾(活動そのもの)を拾い上げることでもあると、私は考えています。

 で、今回の場合、そのシミが目立たないように被写界深度を浅くし、ややぼかしています。一見して落ちた花弁だとわかるわけで、敢えて言えば、生命活動とは美と醜の矛盾でもあると分かって頂きたかった。写真とはただ、対象物を作者の意図どうり、切り取るものではないはずです。そこには写真の醍醐味は生まれようがありません。

 そして落ちたアカバナーを取り囲むようにあったアダンの茎と葉。無論偶然ですが、これが絶妙で、私はこの図にこだわりました。アダンの茎は朽ちていました。それがアカバナーの上に一部被さり、「絶景」を構成していました。微妙すぎて地味すぎるかもしれませんが、人間の主観性を超える目をもちたいのです。生きものが朽ちていくことへの想像力が、人類の自滅への歯止めになるかもしれません。

 私が追求したい美とは、フォトグラファー(制作者)の頭の中にある「世界」を超えでなければ、「想像力が世界を変革する」ことはできない様なものです。美を、芸術を作者の作為の中に閉じ込めないことが、私は重要だと思っています。生意気言って申し訳ありませんが、私が私の道を行く以上、妥協できないことはできません。

 ということで、私は「視点」2022に取りかかりますが、沖縄での発表の場は、沖展以外にも多数あるはずです。少々様子を見ながら、また考えさせて頂きます。

 

 



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