ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【補足】「○○家(カ)」を離れ、もっと自由に、生きたいな(20220411)

2022年04月11日 | 文化の目

 日本という社会は、自由なのだろうか? 一見、自由に見えるが、私は疑っている。「表現の自由」(日本国憲法第21条-「集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密」とあり、前者と後者は組み合わされて意味をもつ)、「思想・良心の自由」(日本国憲法第19条)などと日本国憲法に書かれているが、問題は条文にあるかないかだけでは計れない。文字面(もじづら)と実態が乖離していたらどうにもならないからだ。頭の中を「自由なのかな」とただ過ぎていくだけでは、しかたがない。

 結婚し、入籍すると、殆ど女性が男の籍に入り、氏を変えている形が、この国では圧倒的に多い。選択的夫婦別姓制度すら、未だに認められていない国なのだ。同性婚は、埒外に置かれている。天皇を頂点とした家父長制の支配が、まだ日本国憲法の影で生きているのだ。男女同権(憲法第24条ー「個人の尊厳と両性の平等」とあるのだよ)や、法の下の平等(日本国憲法第14条)が犯され続けている。

 ところで、私たちの日常には「○○家」が余りにも多い。「○○家(け)」にも反吐が出そうだが、この「○○家(か)」にも私は腹立たしく思っている。写真家・画家・音楽家・書道家・作家・登山家などなど。権威の匂いがぷんぷんとしてくる。家元制のあるような分野ならば、さもありなんだが、無関係な分野まで、日本ではこう呼ばれている。

 権威的な甲(かぶと)に、表現の自由が侵されているのだ。その道に精通するために師匠につくとか、美大に入るとか、写真学校に入るとかは、必要ではあろうが、全てではない。

 私は「家」など背負っていない。背負わされていない。だから「フォトグラファー」といっている。英語ならば、photographer (er)か、 artist (ist) と呼ぶのが一般的だ。写真を撮る人だ。権威に寄りかかるのではなく、もっと自由にやりたいことを追求したいのだ。

 こうした「○○家」的な発想を一掃できれば、もっと素直に表現したいと思う人が増えるはずだ。もっと気軽に始める人が増えるだろう。現にスマホでぱぱぱ(音もしない)となってきた。

 本来、表現力にプロも素人もないはずだ。むろん、巧い、下手の差はある。だからといって、技巧的に下手だからと、価値がゼロではない。「○○家」となると、やたらと敷居が高い気がする。私の若い友人に、ひょいと絵を描きたいと始め、1年足らずで個展をやったひともいる。今や、○○展覧会に招待されたり、海外の展覧会に出品したり。彼女は大学・大学院、理学部・工学部です。

 表現したいことがあれば、そんな形はともかく、ぽんとできる人もいるのだ。社会的な敷居をさげれば、素直なノリでやれるはず。

 表現するためには、自分を問い直すことがなければ、不可能だ。自分を見つめることは社会を見つめることに繋がっていく。自分を問うことがないと、何をどう表現したらいいのかがみえてこないのだ。生きる人は、専門家にならなくても生きていける。表現もそうだ。もっとも常に考えることなしでは、表現していくエネルギーは枯れてしまう。

 私は「写真家」だとえらそうに自称するのではなく、「写真を撮る人」と称し、そう呼ばれたい。「写真を撮るヤマヒデさんです」と。観光地などに行くと、「撮ってください」と声をかけられることが度々ある。こちらが撮影中だと、お断りしてしまうが、撮って差し上げることは少なからずある(こういう場合、知らない人を自分のカメラでは撮りません)(註ー末尾に記す)。

 大切なことは、人が(何であれ)表現力をもち、磨いていくことだ。10人の写真家よりも、100人の写真を撮る人がいれば、もっと事実を伝えていける。根拠を据え感動をつたえられるはずだ。無論、演習の積み重ねと向上心は不可欠だ。

◎註:今はデジカメ時代です。インターネットで、世界中に画像を飛ばせる。悪意をもつ奴がいれば、簡単に画像の加工もできる。どこに性格の悪いのがいるか、わかったものじゃない。他人のカメラに易々と撮られないことだ。撮る側は、不必要な人を許可があっても撮らない事だ。不断に人権と倫理を磨いておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いたいことは、いささかtそういうことともからなるのだが

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