ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

石木ダム建設工事等差し止め請求控訴審(20210325)

2021年03月31日 | 「公共工事」を考える

 2021年3月25日、石木ダム建設工事並びに県道等付け替え道路工事差し止め請求控訴事件の裁判が開かれた。誠に残念ながら、時間の関係で私たちは裁判に間に合わず、さらに報告会からも閉め出されてしまった。報告会の終わり間際に漸く会場に入り、様子を見聞きできた。結論を言えば、今回結審にならず、もう一回は裁判が開かれるみ通しとなった。

 意見陳述要旨をいただいたので、そこから私なりに整理してみたい。控訴人等の主張の権利を鍋島典子弁護士が簡潔に開陳。「自己が選択した土地で継続的かつ平穏に生活し、快適な生活を営む権利ないしは人格的生存を図る権利」として主張していると明言。だから個人の尊重や幸福追求権からして当然、工事の差し止めが認められるべきと主張している。また、「公共性」「公益上の必要性」の有無と程度から比較検討されるべきだと述べ、石木ダムの目的が「治水」「利水」と言われているが、これを検討しない判断はあり得ないと論じている。「公共事業」の名の下に、そこのけそこのけ行政がまかり通る時代であってはならない。

 次に利水の面を高橋謙一弁護士がこれまた明解に論じている。これは佐世保市の水需要を満たすためと言われてきたが、客観的合理的な根拠が示されていないとしている。「このくらいの水が必要」との予測値と現状の水需要に乖離が大きいとしている。万が一の水不足に備えて13世帯を排除していいのかと論じている。それは佐世保市の水需要予測が現実とかけ離れているからだ。同市が行った2013年調査、2020年調査を見ても、10万立方メートルを超える予測値を出しているが、2020年度の現実は73690立方メートルとかなり下がっている。また人口減が進んできたし、今後も同様の人口予測値が出されており、ダム建設の合理性はないと論じている。

 治水面について、緒方剛弁護士が述べている。川棚川流域の下流部の洪水被害が取り上げられているが、石木川は川棚川の下流部に合流しており、川棚川の流域面積の11%に過ぎず、石木ダムができても役に立つかと主張し、他の方法を提示している。

 そして控訴人でずーっとここで生きてきた岩本宏之さんが意見陳述。1971年当時の県の説明会で「利水ダムより、多目的ダムにした方が国から補助金を多くもらえる」との長崎県の回答をはっきりと覚えていると明言。また1979年の当時の久保知事は見返り事業をやるから利益を受ける佐世保市に全て負担させると公言したと。また1972年に「石木川の河川開発調査に関する覚書」を取り交わしたが、「地元の同意を受けた後に着手する」にも反していると。これに対して2020年9月の中村知事の答えは、「県としては一貫して皆様のご協力を得られるように努力してきたものと考え、今後訴訟の中で明らかになっていく」と「同意なき努力」にすりかえてきた。

 こうした県とのやりとりばかりか、彼が述べたことは強制収用後の生活にも言及している。補償金を受け取っていないにもかかわらず、所得税や国保税等が受け取った金額として課せられ、大変な負担を強いられていることにも言及。理不尽な行政を糾弾している。

 最後にとして「①石木ダムの問題で、私たちは半世紀以上に亘って苦しめられ、当たり前の日常を奪われ、精神的な苦痛と不安を受け続けており、心身共に疲れ果てています。この間、取り返しのつかない貴重な時間や能力、無駄な失費を強いられてきました。集落の人間関係まで破壊されてしまいました。もう殆ど親戚づきあいもできない状況もあります。中には兄弟姉妹との確執や不仲があるとも聞いています。②本来、行政は住民の命や財産を守るのが責務です。しかし実際には、住民の命を脅かし財産を奪い、生活を不幸のどん底に陥れようとしています。③これからも水没予定地に残る13世帯は、自分たちの生命や財産を自分たちで守るしか方法はありません。裁判の判決が、どうなろうと一致団結して闘い続けます。④石木ダムをどうしても完成させるためには、前代未聞の行政代執行を行うしかありません。しかしそうなれば、全国民を騒がせる大ニュースとなることは間違いありません。国民から大きな非難を浴びることは避けられないでしょう。⑤私たちも残り少ない人生です。もうダムに翻弄された人生はたくさんです。一日も早く自由の身となり、悔いのない人生を送りたいです。そのために、どうか工事の差し止めを命じる判決をお願いします」と結んでいる。涙なしには聞けない意見陳述だ。

 最後に平山博久弁護士が本件裁判についての留意点を示している。①事業認定の効力と工事差し止め請求の裁判は大きく異なり、事実行為としての工事が住民の人格権を侵害していると、事業認定の効力を問題にすることなく工事差し止めを請求している。②「失われるものと住民の怒り」でも、貴重な意見を表明している。これを引用すると長くなるので結論部分だけ引用する。「(前略)その多くの疑問や憤りをいだいたまま、控訴人等は生まれ育ったこうばるの地を、大切に耕してきた田畑を、思いを込めて建てた家や庭を奪われ、その地から追い出されようとしているのです。/この裁判が行われている今現在も工事が進められています。/本日は、多くの控訴人らが現地での説明要求運動をしており、自身の裁判を傍聴することすらできません。/控訴人等は、石木ダム工事から解放された自由な生活を求めています。/御庁裁判所では、改めて控訴人らが訴えかけた言葉の一つ一つを思い出して頂き、その言葉に正面から向き合った審理、そして判決をして頂くことを求めます」

 ざっとこうした裁判だったようだ。次回裁判は6月だという。現場と裁判という苦しい闘いが強いられているが、私は「公共工事」のデタラメさを痛感させられている。名目だけの「公益性」で、住民の命の営みが奪われてはならないことだ。利権と行政の継続性の名でだらだらと工事を進めることが住民の人格権を否定し、苦しめているのだ。

 私たち沖縄でもこうした「人格権としての平穏生活権」をもっともっと提唱していくべきではないか。少なくとも私は一歩彼ら当事者との隔たりが縮まった気がしている。



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