武弘・Takehiroの部屋

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啓太がゆく ⑬(警視庁の記者時代)

2024年06月17日 01時05分33秒 | 文学・小説・戯曲・エッセイなど

(18)幼稚園児殺害事件

4月、春らんまんの季節になる。桜が散ったちょうどその頃、記者クラブに素晴らしい知らせが入ってきた。それは、この夏から『警視庁ニュース記者会』が2階のより広い部屋に移り、それに伴うようにNIPPON、FUJI、NETのテレビ3局が毎日「泊まり勤務」を行なうことになった。
これまで毎日 泊まりをしていたのはTOKYO放送だけで、FUJIなどの3局は順番に交代で泊まっていた。しかし、ニュースの重要性が増すばかりの時代なので、3局ともそれぞれ泊まり込みをすることになったのだ。
これには誰もが賛成で、民放4局のキャップは警視庁と交渉し、同じ2階のより広い部屋を確保することで話しがついた。同時に、FUJIなどの3局は記者の“増員”を会社側に要求し、それを夏までに実現しなければならない。これは草刈キャップに任せるとして、啓太は警視庁の報道態勢が一段と重要になってきたことを実感したのだ。
「独自に泊まるとなると、最低でも6人ぐらい必要となるな。あとは裁判所クラブからの応援が1人・・・これで1週間をカバーするわけだ」
「キャップ、広い部屋に移ると麻雀や“こいこい”がやりやすくなりますな~」
草刈が早くも人員の皮算用をするので、森永が茶々を入れた。
「おいおい、君は遊びのことしか興味がないのか。困ったもんだ、はっはっはっはっは」
人員の増加と広い部屋への引っ越しに、記者クラブの中は少し華やいだ気分になっていた。特に草刈は、キャップだけに張り切っているのだろう。
「できるだけ早く現場へ行くには、クラブに常駐の車があった方がいいですね」
松本が草刈に向かって言った。
「うん、それはもちろんだ。デスクとも相談し、報道の総務にも当たってみよう」
ハイヤーの常駐となると、けっこうな費用がかかる。総務がそれを認めるか・・・ いろいろな話が出てきてクラブの中は活気づいた。啓太はそんな話を聞きながら、先日会ったばかりの白鳥京子を思い出していた。彼女ならなんと言うだろう? そんなことは京子には関係ないが、なぜか彼女の面影が脳裏に浮かんでくるのだ。

相変わらずデモの取材が続く中で、啓太にとって忘れられない殺人事件が起きた。それは、主婦が顔見知りの幼稚園児を殺害するという残酷なものだった。 事件は4月下旬のある日に東京の三鷹市で起きた。広い麦畑の中で、幼い男の子が絞殺されていたのである。この第一報が届くと、クラブにいた記者たちはわれ先にと現場に駆けつけた。
被害者の遺族には申し訳ないが、こんな凶悪な事件は滅多に起きないので、記者たちを奮い立たせたのだ。啓太も会社のハイヤーに乗り、現場に急行したあと三鷹警察署に回った。そして、担当官のレクチャーを聞いたあと、記者たちは一斉に聞き込み調査を開始する。こうして激しい取材合戦が始まったのである。
夕方には捜査一課長のレクがあったが、警察側は、中年の女性がある農家で幼い男の子と一緒にいたという情報を発表しなかった。捜査の途中だから、こういう情報はいちいち公(おおやけ)にしないが、この時点で警察は有力な手がかりをつかんだことは間違いない。このあと、捜査は一挙に進んでいったのである。

殺された男の子の身元が分かったことが、捜査や取材を加速させた。その子は5歳の幼稚園児・Kで、市内の建材業者・Sさんの長男である。啓太はSさん宅の近辺を徹底的に調べようと思った。何か“手がかり”がありそうな気がしたからだ。
そして、数件の家を取材するうちに、Sさん宅からそれほど離れていないFさん宅にたどり着いた。夜もだいぶ更けた時刻である。啓太はすぐに近くの幼稚園児K君が殺されたことを伝えると、Fさん夫妻は非常に驚いて啓太を家の中に招き入れた。彼らはSさん一家と深い付き合いがあったのだ。
「私らはSさんをよく知っていて、Kちゃんやお姉ちゃんを可愛がっていたのよ。もっとくわしく教えて」
Fさんの奥さんが真剣な眼差しで聞くので、啓太は事件の概要を教えた。すると、彼女は見る見るうちに顔を覆って泣き崩れた。その動作があまりにも“露わ”なので、啓太は当惑したほどだった。
「Kちゃんはもう帰ってこないの・・・そんな、そんなことってあるかしら」
妻が泣きじゃくるので、Fさんが盛んにいたわり慰めている。
「何か、何でもいいですが、気がついたことがあれば教えてください」
啓太が探るようにF夫人に尋ねると、やがて彼女は思い当たるフシがあったのか、きりっとした顔つきに変わった。
「そうだ、あの人よ、あの人ならやりかねないわ・・・」
「どんな人ですか、その人は?」
啓太が畳み掛けて聞くと、F夫人が語り始めた。その人とは、2年ほど前まで建材業者のSさんと共同で事業をしていたN氏の妻だという。彼女はとても猜疑心が強く嫉妬深かったため、S夫妻とはなにかと上手くいかず、結局、N氏は共同事業から手を引く結果になったというのだ。また、N氏の妻には窃盗歴があると語った。
「あの人ならやりかねないわね。あの人のことを調べるべきよ」
F夫人が重ねて言ったが、話によると、N夫妻は今は大田区の田園調布に住んでいるという。大工のN氏は独自に仕事を始めたが、上手くいっているかどうか知らないと夫人は語った。その話を聞いて、啓太は何かピ~ンと来るものがあった。
捜査一課長は公表しなかったが、事件現場の近くで“中年の女性”が幼い男の子と一緒に歩いていたという目撃情報を、ある刑事が啓太に内々に教えてくれていた。その女に間違いない! その女がN氏の妻だ! 警察はもう田園調布のN氏宅を調べているだろう。そう思うと、啓太はいち早く“裏”を取りたかった。つまり、真偽を確かめたかったのだ。
しかし、彼は“夜回り”をしようにも担当の刑事たちの家を知らなかった。忙しさにかまけて、日頃の地道な努力を怠っていたのだろう。仕方がないので、啓太は朝ニュース用に『重要参考人』に近い某中年女性(N氏夫人)の名前が浮上してきたという原稿を書き、局の泊まり班に電話で送稿した。
彼は翌朝にかけて、警察がN氏夫人の逮捕状を取るとは想定していなかった。多分、明日中には逮捕するものと見て帰宅したのである。

ところが、翌日になって啓太は愕然とした。SANKEI新聞が「今日 N氏夫人を逮捕へ」というスクープ記事を載せたのだ。新聞に出し抜かれて、しまったと思ったがもう遅い。朝食も早々に切り上げ、彼は三鷹警察署に駆けつけた。警察の前にはテレビや新聞のカメラマンが大勢待機している。
やがて、中年の背の高い女性が警察官に護送され三鷹署に入ってきた。彼女は手錠をかけられたまま両手で顔を覆い、なにやら泣きわめいている。この女こそ37歳のN夫人だった。こうして、幼稚園児殺害事件は容疑者のスピード逮捕で終わったが、こんなに早く事件が解決するのも珍しい。わずか丸1日にも満たない幕切れとなった。
その後の取り調べで、彼女はSさんの様子を見るため田園調布からやって来たが、彼の会社が予想以上に順調にいっているため、ムラムラっと嫉妬心を燃やし復讐しようと思ったという。そこで、Sさんの長女(9歳)に手を出そうと小学校へ向かったが、途中で5歳のK君に出会ったので麦畑に連れ込み、コードで首を絞めて殺したというのだ。
N夫人には3人の子供がおり、生活に特に困っているわけではないが、おぞましい嫉妬心が凶悪な犯罪を招いたと言って良いだろう。啓太は警察の発表を聞いてそう思ったが、三鷹署からの帰りに蒲田先輩に話しかけた。
「とにかく早かったですね。どんな事件もこういう風に解決してくれれば・・・」
「こんなスピード解決は異例だよ。しかし、君も朝ニュースで重要参考人が浮かぶと言っておいて良かったな。そうでないと、完全に“特落ち”になるところだった。はっはっはっはっは」
「いや、SANKEI新聞に抜かれたのは事実ですからね」
蒲田はよくやったと言わんばかりだったが、啓太には、もうひと押しが足りなかったという無念さが少し残った。

話は変わるが、記者クラブでは昼食時に1人が留守番をして、交代で“外食”に行くのが通例だった。昼食ぐらいは外で食べようという気分になるものだ。ちょうどその頃、近くのビルの地下街でパーコ(排骨)ラーメンを食べるのが流行った。特に草刈はこれが大好きで、みんなに食べに行こうと誘う。
松本と森永はあまり乗り気ではないが、蒲田と啓太はこのラーメンを気に入っている。だから、この地下街へ行くのが多くなったが、ボリューム満点のパーコラーメンが出てくると、草刈の“おしゃべり”が火を吹くのである。
「いいか、昔の話をするようだが、俺は・・・」と言って、過去の取材体験をよく話す。彼が一方的にしゃべるので閉口することがあるが、時には参考になったり面白いものもある。ある時、草刈が啓太を睨みつけるようにして言った。
「俺はだいたい何でも食べるが、シャコ(蝦蛄)だけは絶対に食べない。どうしてだと思う?」
「さあ・・・」
唐突な問いかけに、啓太は答えようがない。すると、草刈が一気に語り出した。

「あの伊勢湾台風の時、俺たちは名古屋の方へ取材に行った。あの台風の被害はもの凄く大きかったし、地元のTOHKAIテレビはできたばかりだから、応援に行くのは当たり前だよ。とにかく徹夜で取材したな。
それは良いが、収容した水死体を見てびっくりした。多くの死体に“シャコ”がびっしりと貼り付いていたんだ。俺はヘドが出そうになったよ。あんなに気持ち悪いことはなかったな。それから、俺は寿司屋に行ってもシャコは絶対に食わなくなった、というわけだ」
草刈の声が大きいので、隣のお客さんが変な目付きでこちらをうかがった。啓太も聞いていて少し気持ち悪くなった。9年前の伊勢湾台風は、死者・行方不明が5000人を超える大惨事になったことは知っているが、悲惨な事例を具体的に聞いたのはこれが初めてだ。そういう意味で、草刈の話はけっこう参考になったのである。

5月になる。ちょうどその頃、啓太は家で両親、特に父と気まずい雰囲気になってきた。というのも、毎日のように“不規則”な生活ぶりが続いていたからだ。これには仕方がない一面がある。取材や夜回り、それに夜遊びなどで遅くなったり、事件が発生すればどんな時でも駆けつけなければならない。
住んでいる浦和(現さいたま市)が警視庁から遠いということもあるが、ある晩、父の国義が啓太に文句を言ってきた。
「もう少しなんとかならないのか。毎晩 遅かったり朝早く出かけたりと、これでは母さんがかわいそうだ。お前が忙しいのは分かるが、母さんもだいぶ疲れてるぞ」
そんなことは分かっているが、仕事だから仕方がない。啓太は少し考えてから返事をした。
「それなら僕が家を出て、都内のアパートにでも住もうか・・・」
「そんなことを言ってるんじゃない。もう少しなんとかならんかと言ってるんだ!」
う~む、そう言われてもすぐに良い返事はできない。
「考えてみるよ」
それだけ言うと、啓太は自分の部屋に戻った。いくら考えても他に妙案があるわけではない。結局、家を出て都内のアパートに移るしかないか・・・ そう思うと、急にアパート探しをしたくなった。それは自分の独立にもつながる。探そう、アパートを探そう! せっかちな彼はすぐその気になった。
そして、啓太なりに理屈をこねた。俺は「警視庁」担当の記者だ。警視庁とは、東京都を管轄している。よって、俺は都内に移る。何事も“大義名分”が好きな彼は自分にそう言い聞かせ、アパート探しに入っていった。

 

(19) 田端のアパートへ引っ越す

啓太は大学時代に、北区の田端で女子中学生の家庭教師をしたことがある。これは友人が他のアルバイトをすることになったので引き継いだものだ。1年あまり家庭教師をしたので、その間 田端には親しみを持っていた。また、ここは山手線と京浜東北線が交わる所なのでなにかと便利だ。
そこで彼は、田端周辺のアパートを探すことになった。少ない休日を利用して地元の不動産屋に足を運んだ結果、田端駅から歩いて5~6分ほどの所に程よい物件を見つけたのである。そこは『平山荘』と言って相当に古いアパートだが、家賃は5000円とリーズナブルなものだった。(ただし、リーズナブルと言ってもトイレや炊事場は共同だし、風呂がない原始的な所だ。)
啓太はすぐに契約して両親に報告したが、内密にアパート探しをしていたため2人とも面食らったらしい。
「独りで大丈夫なの? やっていけるの?」と、母の久乃が心配そうに言う。末っ子の彼を甘やかしてきた母は、息子の独立に違和感を覚えたようだ。
「大丈夫だよ。警視庁にも近いし便利な所だ」
「ふん、お前は女を連れ込んだりしないだろうな」
国義のこの言葉に啓太はカチンときた。
「馬鹿な、僕はそんなことをするために引っ越しをするんじゃないですよ!」
国義が薄ら笑いを浮かべていると、久乃が言った。
「そうすると、あなたがいま“仕送り”をしている5000円は帳消しね」
「うん、そうして欲しいな。とても払えないよ。家賃のほかに食事代や光熱費などがかかるんだ。素寒貧(すかんぴん)になるよ」
「洗濯はどうするの?」
「やってみるよ。ビーズがあるから大丈夫さ」
「そう・・・まあ、やってみなさい」
アパート暮らしに向けて、啓太は両親とそんなやり取りをした。やがて、6月上旬になって田端へ引っ越す時がやって来た。業者の車に持参の荷物を積み込んだが、自分でも驚くほど少ない。必要最小限に絞ったからだ。啓太は来なくてもいいと言ったが、久乃が車に乗り込んだ。やはり心配なのか、引っ越し先のアパートを見ておきたかったのだろう。
こうしてアパートへの移転が終わったが、2階の古びた6畳間で仰向けに寝転ぶと、よし、やろうという気持ちが湧いてくる。これで俺は東京在住の人間になったのだ。警視庁の記者として、思う存分 働いてやろう。いつまでこのアパートにいるか知らないが、やるだけのことはやってやろうと啓太は思うのだった。
そして、その晩、彼は初めて近くの銭湯へ行った。そこは広々としていて気持ちがいい。湯船にゆったりと浸かり高い天井を見上げながら、啓太は鼻唄を歌っていたのである。

彼が浦和から田端に引っ越したことを、草刈たちは少し意外に思ったようだ。今まで甘ったれの“ぼんぼん育ち”のように見えた啓太が、親元を離れたことが予想外だったのだろう。
「親の“すねかじり”から独立したということだな」と、先輩の森永が偉そうに言った。
「そう、森永さんのようにすねかじりじゃありませんからね」と、啓太が言い返した。
一方、草刈はキャップのせいかかなり気を遣っていた。彼はアパート生活のことをいろいろ聞いてくる。しまいには母の久乃に電話をかけると言い出した。これには参ったが、どうしてもかけると言うので啓太は電話を母につないだ。
「警視庁クラブのキャップの草刈ですが・・・」と、彼があれこれ話し出した。横で聞いていると、いろいろご心配でしょうが、私が責任を持って山本君を見守っていくのでご安心をといった案配だ。これには少し照れくさくなったが、啓太は黙って聞いているしかない。
記者クラブに配属になった時、彼をクズ、馬鹿などとクソミソに罵倒した様(さま)とはえらい違いである。今では草刈はそれなりに啓太を評価しているのだろうか。 

やがて、夏の人事異動の時期が近づくと、草刈が啓太ら部下にこう言った。
「いいか、石浜部長が何を言おうと、警視庁から決して離れたくないと言ってくれ。これは君たちへのお願いなんだ」
彼はそう言って、7月からFUJIテレビも毎日 泊まり勤務が始まることを強調した。このため、クラブの人員は最低でも6人が必要となる。(あと1人は司法記者クラブからの応援だ。)
こうした中で、石浜報道部長による各部員の志望などの聴き取りが始まった。啓太の番になって、石浜は単刀直入に聞いてくる。
「どうだ、警視庁はもういいだろう。政経班へ行かないか。(首相)官邸記者クラブなんかどうだ?」
「僕は警視庁にまだ1年もいません。これからが勝負だと思います。それに“70年安保”を控えて警備・公安の取材も増えてきたので、このまま警視庁にいさせてください」
「そうか・・・分かった」
啓太がはっきり答えると石浜は少し意外だという表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。帰り際に彼は報道庶務の側を通ったが、末永牧子が働いているのを見て、妙に気になったのである。彼女は一段と可愛く清々しい感じがした。
やがて人事異動の発令があり、警視庁クラブから蒲田と松本が他へ移り、新たに池永敦夫と吉川一郎、それに坂井則夫の3人が入ってきた。草刈と森永、それに啓太は留任ということだ。
こうしてFUJIテレビは新しい陣容でスタートしたが、「警視庁ニュース記者会」も同じ2階のより広い部屋へ移った。これは前にも述べたように、クラブ側と警視庁の交渉で決まったもので、民放テレビ4社の存在価値が、以前よりさらに大きくなったものと言えるだろう。

さて、アパート暮らしだが、朝食はすぐ近くの大衆食堂、いわゆる“飯屋”でとった。唐揚げ定食やカキフライ定食が美味かったが、ここはたいてい工事の労働者や職人らで混んでいる。彼らと一緒にいると、啓太は庶民生活のど真ん中にいるなといつも実感した。
また、駅の近くには小さな喫茶店があってそこにも時々通った。田端周辺は雑然としているが、いたって庶民的、大衆的な雰囲気に包まれていた。彼はそうした町並みがだんだん好きになり、落ち着いた気分になれたのだ。

その頃、嫌なことが起きた。会社の人事部のK主任が酒酔い運転で事故を起こし、通行中の女性に瀕死の重傷を負わせたのだ。それだけなら事故のニュースとして済むのだが、会社側は警視庁当局に“穏便”に扱ってもらうよういろいろ働きかけてきた。このため、キャップの草刈は交通部や広報へ行って交渉に当たったのである。
「草刈さん、警視庁のクラブはそんなことまでするのですか?」
「仕方がないよ。会社の指示だからな」
啓太の問いに彼はそう答えたが、しょせん世の中とはそういうものだろう。マスコミは正義と公正を旗印にしているが、民放テレビ局も一皮むけば単なる民間会社に過ぎない。若造の啓太は“世間の常識”とはそういうものだと初めて分かった気がしたのだ。
一方、草刈は将来 海外特派員を志望しているせいか、この頃から特に英会話に力を入れ始めた。それは良いが、部下にも盛んに学習を勧めてくる。
「四谷の外国語学院に頼んで、週1回 英会話のレッスンを始めようと思う。受講の希望者はどしどし参加してほしい」
「毎日忙しいのに、僕らも英会話をやるのですか?」
記者クラブに来たばかりの坂井が聞いた。
「いや、これは強制じゃないが、君たちも大いに勉強した方がいいぞ」
「せっかく警視庁に来たのに英会話とは・・・僕はどうも」
池永が困惑した表情を浮かべたが、みんな懐疑的だ。しかし、草刈は国際化時代の英会話の重要性を強調する。彼は去年初めてベトナム戦争を取材した経験があり、こうと決めたら何にでも突き進む性格なのだ。結局、池永を除く5人が毎週金曜日の夜に英会話レッスンを受けることになった。
場所は会社の談話室で、外国語学院の講師がやって来る。授業は2時間程度で1回当たり300円だからリーズナブルなものだ。もちろん、緊急の事件や事故が発生すれば中止になる。
こうして英会話レッスンが始まったが、草刈は剣道にも興味を持ち、昼食後の休み時間に警視庁の道場で稽古に励んでいた。早く“初段”になりたいと言っていたが、佐渡島(新潟県)の僧侶の家に生まれた彼は何事にも熱心に取り組む男であった。

 

(20)東大紛争などが激化

王子野戦病院反対闘争は少し下火になったが、成田空港反対闘争はいつ終わるとも分からず、かえって激しさを増していった。しかし、それと並行してもっと深刻になったのが東京をはじめ各地の大学紛争である。
特に東京大学では、“インターン制度廃止”などの要求に端を発した医学部のストが、全学を巻き込んだ紛争に発展していった。6月には一部の過激な学生が安田講堂を占拠、これに対し大学側は警視庁の機動隊を導入し、占拠学生を排除した。
ところが、この機動隊の導入は“大学の自治”を侵すものだとしてかえって反発を招き、法学部を除く全学部の自治会が6月20日、一日ストに踏み切り抗議集会を開いたのである。
そして7月上旬には、過激な大学院生らが再び安田講堂を占拠、これに新左翼のセクトが加わり、ついに『全学共闘会議』(全共闘)が結成された。こうなると東大闘争は拡大の一途が予想され、紛争の長期化は必至の情勢となった。

「おい、東大がこの有り様じゃ大変だぞ。過激派の連中はここぞと集まってくる。ありきたりの殺人事件を追いかけているヒマはないぞ。いつ、何が起きるか分からない。山本君、ちょっと本郷へ行って見てきてくれ」
本郷とは東京大学のキャンパスがある文京区の場所だ。草刈が気ぜわしくそう言うので、啓太は記者クラブ詰めのハイヤーに乗って本郷へ向かった。このハイヤーは以前、松本が“常駐”を提案して草刈が報道総務と交渉していたものだ。記者クラブが新しい場所に移り人員が補強されたため、置かれたものである。
啓太は1課と3課の担当だから、火事などが発生するとすぐ乗車して現場に駆けつけた。まことに便利になったものだ。
昼ごろ東大のキャンパスに着いた。気のせいかなんとなくざわついた雰囲気だ。安田講堂の前に行くと、ヘルメットや角材などで“武装”した何人もの学生がいた。そして「医学部の処分を撤回せよ!」とか、「機動隊の導入を自己批判しろ!」などといった立て看板が目立つ。
啓太はそこを通り過ぎ、マスコミ用に急きょ設けられた臨時の記者クラブに入っていった。そこは意外に明るい感じの部屋だ。中に10人ほどの男たちがいたが、すぐに同僚の今村直樹を見つけた。
「やあ、ご苦労さん、いつからここに来ているの?」
「3日前からだ。ここはけっこう居心地がいいよ」
啓太が聞くと、今村は笑って答えた。彼の家は同じ文京区の西片にあるので都合がいいのだろう。
「君の家は近いから便利だね」「うん、歩いて来れるさ」
そう言って、今村はまた笑った。啓太は彼にいくつか質問をしたが、全共闘の要求と東大当局の回答に依然として隔たりがあり、紛争は長引きそうだという。啓太はくわしく理解しなかったが、医学部の処分撤回などの要求は一般学生の支持を集めているらしい。
「忙しくなるな~、日本大学でもどこでも学園紛争が起きている。いったい、どうなることやら・・・」
「ああ、日大紛争か、あれも長引くぞ」

啓太が“日本大学でもどこでも”と思わず言ってしまったのは、それほど大げさな表現ではない。その当時、戦後の『団塊世代』の若者が猫も杓子(しゃくし)もと大学に入ってきたため、キャンパスは学生たちであふれ返っていた。
これを“マスプロ教育”と呼んだが、マスプロはマスプロダクション=大量生産の略である。このため、校舎の増改築など教育環境を良くするため大学側はもの凄く金が必要になった。そうすると必然的に、授業料の大幅値上げをせざるを得なくなるのだ。
慶応や早稲田を皮切りに、各大学の授業料の値上げが相次いだ。しかし、大量の学生に対応するには、一朝一夕で教育環境を改善するのは無理だ。日本大学でもそうだが、500人、いや1000人以上の授業が当たり前になった。キャンパスも教室も学生たちであふれ返っている。日大ではさらに、巨額の“使途不明金”が明るみに出て大問題になっていた。
授業料はどんどん上がっていくので、学生たちの不満や反発はますます増殖していく。そこに、70年(1970年)安保闘争へ向けて、新左翼の各セクトが猛烈に煽動=アジテーションやオルグを行なったため、多くの大学で紛争や混乱、暴力行為が発生し、それはさらに拡大する方向にあった。
〈筆者注・・・その頃は、50年後の現在(2018年)からは想像もできない状況にあったと言えよう。〉

「僕らはよく警視庁の警備の部屋をのぞくが、70校も80校も紛争が起きているんだぜ。いずれ100校を超えるさ。もうどうしようもないね」
「そうか、あと1~2年は覚悟しよう。ところで、君は田端に移ったんだってね。どうだ、アパート暮らしは?」
今村が急に話題を変えたので、啓太はかえってホッとした。
「アパート暮らしはいいぞ。少しは金がかかるが、誰からも束縛されないし自由気ままにやっていける。警視庁にも近いし何かと便利だ」
「たまには家に帰るのか?」
「うん、お袋が洗濯物を持って来いとかいろいろうるさいから、たまには帰っているよ。正直言って、洗濯は面倒だからな。はっはっはっはっは」
「うらやましいな。俺も親元を離れたいが、今いる所が便利だから仕方がない。でも、近いうちに結婚するかもしれないな。そうすれば離れられるさ」
「えっ、結婚するって?」 啓太が聞き返した。

「うん、テニスの同好会で知り合ったTOKYOガスの女の子とだよ」
「それはいいな、おめでとう」
啓太がすぐに相槌を打つと、今村が話を続けた。
「実は小出も婚約している子がいるそうだ。あまり話してくれないが」
「えっ、そうか・・・」
今度は啓太が少し意外に思った。二浪して2歳年上の今村に結婚相手ができるのは分かるが、同期の小出誠一までそういう状況だとは予想もしなかった。彼らに比べると自分は遅れているなと思う。 別に早く結婚しようとは思わないが、啓太は今村と小出に差をつけられたように感じた。そして、白鳥京子や末永牧子ら何人かの女性を思い浮かべたのである。
2人はなお雑談を続けたが、そのうち大学当局の会見が始まるというので、啓太は臨時の記者クラブを出てキャンパスの中を見て回った。やはり目につくのは立て看板である。中には「日米安保条約を破棄せよ!」とか、「佐藤反動内閣を打倒せよ!」などといった政治色の強いものもある。なんとなく、不気味な雰囲気に包まれているではないか。

東大のキャンパスを見終わったあと、啓太は警視庁クラブに戻り草刈たちに状況を報告した。
「ふむ、過激派のセクトがだいぶ入ってきたな。こりゃあ、そのうち大変なことになるぞ」
草刈はいかにも心配そうな表情を浮かべたが、すぐに気を取り直してこう言った。
「今日は英会話のレッスンの日じゃないか。さあ、張り切ってやっていこう!」
これにはみんなが苦笑いしたが、情熱家の彼は急に態度を豹変させるようなところがある。部下たちはこれになかなか付いていけない面もあるが、草刈の性格だから仕方がないだろう。
その日は金曜だから、2回目のレッスンの日だ。池永を除く5人は夜 会社に上がった。講師の塚本修(おさむ)は30歳ぐらいの温厚な感じの人で、何かと丁寧に教えてくれる。高校生の時、短期留学でアメリカで学んだことがあるというのだ。
講義が終わりに近づいたころ、彼は用意した小型のレコードプレーヤーに1枚のディスクをセットした。
「これは皆さんも聞いたことがあると思いますが、映画『慕情』のテーマ曲です。私が大好きな曲ですが、良かったらこういうものから英語の発音やセンスに馴染んでいただきたいですね。手前勝手ですが、かけさせてもらいます」
塚本はそう言うと、レコード針をディスクの上に置いた。談話室には他の社員はもういないから、なんの気兼ねもなくレコードが聞ける。聞き慣れたメロディーが流れてきた。
映画は香港を舞台にした女医と新聞記者の悲恋の物語だが、啓太もこの映画が好きで、特に女医に扮したジェニファー・ジョーンズの知的な美しさに惹かれていた。『Love is a many splendored thing』の歌声が談話室に流れる・・・

参考→ https://www.youtube.com/watch?v=aJ-vJI6jypM&list=PLcQ0rTEWg-ZypnxmRBqQuMUR05L3nyzxr&index=2

こうして、その日の英会話レッスンは終わったが、最後に塚本が気になることを言った。
「今日はこれで終わりますが、草刈さん、そのうちFUJIテレビ見学のついでに、外国語学院の女生徒を連れて来ても構いませんか?」
「ええ、それはまあ・・・」
急にそう言われて草刈は言葉を濁したが、啓太は満更でもなかった。隣の坂井の様子をうかがうと、彼も嫌な顔はしていない。忙しい毎日だが“忙中閑あり”で、彼はいろいろな若い女性と会ってみるのも良いと思ったのだ。俺はまだ若いではないか・・・
しかし、仕事の量はますます増えていく。草刈キャップがついに『警備・公安』も担当するようにと啓太に命じた。捜査1課・3課は主に吉川が担当し、何か重要な事件などがあれば彼を手助けするということだ。警備・公安のチーフは先輩の池永に決まった。
学園紛争がこんなに拡大し、成田空港反対闘争などが激しさを増していれば、当然の人員配置だと言えよう。啓太にとってはむしろ好ましい、やりがいのある任務だった。

7月下旬のある日、啓太は警備・公安両部へ取材も兼ねて挨拶回りに行った。大したことはなかったが、右翼や民族派の動静を見ている公安3課で面白い話を聞いた。世の中は過激派や新左翼の話で持ち切りだから、及川3課長はあえて気を引きたいと思ったのだろうか。
「最近、作家の三島由紀夫さんが面白い組織を造ったんですよ。『祖国防衛隊』と言って、これがその写真です」
及川は頼まれもしないのに、何枚もの写真を啓太に見せた。それは三島が隊員を引き連れてどこかの神社に参拝するシーンだった。
「へえ~、三島さんはこんなことをやっているのですか?」
「うん、軍服がなかなか似合ってますね。まるで“おもちゃの兵隊”だ、はっはっはっはっは」
啓太がびっくりして聞くと、及川は愉快そうに笑って答えた。たしかに三島たちの“軍服姿”は凜々しい感じがする。右翼や民族派が新左翼に対して、いろいろやっているんだなと啓太は思った。祖国防衛隊はのちに『楯の会』と名称を変え、やがて大事件を起こすのだが、この時点ではそれは予想もできないことであった。
こうして公安・警備の取材もするうちに、真夏の季節になった。草刈は最近、警視庁の道場でめでたく“剣道初段”に昇進したせいか機嫌が良い。そこである日、啓太は聞いてみた。
「キャップ、夏休みを取ってもいいですか?」
「ああ、いいよ。早く取ろう。そのうち何が起きるか分からないからな」
草刈は意外にあっさりと、啓太の申し入れを認めた。こうなれば早く夏休みを取ろう。啓太は8月中旬に、大した目的はなかったが紀伊半島や関西へ行ってみることにした。

 

(21) 白鳥京子

夏休みに旅行とは気分転換になる。仕事のことはしばし忘れて、啓太は伊勢から南紀、そして奈良などを回って4泊5日の旅行を楽しんだ。もっぱら民宿や安旅館を利用したが、途中、新婚旅行のカップルを見かけると妙に惹かれる。自分もいずれああなるのかと、どうでもいい想いにふけった。そういう願望が湧いてくるのだろうか。
帰ってから浦和の実家で休んだが、市民プールへ行ったり映画を観たりした。そのうち、啓太は半年前に知った白鳥京子に急に会いたくなった。どうしてそうなるのか? 自分でもよく分からないが、こうと思ったら矢も楯もたまらなくなるのが彼の性分だ。啓太は『女性の未来社』出版に電話をかけることにした。
ただし、白鳥に直接ではなく、彼女を紹介してくれた木内典子を通すのが“筋”である。もちろん、彼は木内とも会うのがベストだと思っていた(彼女を“キューピッド役”として)。 浦和の実家にいると、妙に落ち着いた気分になれる。啓太は『女性の未来社』に電話をかけた。
「もしもし、木内典子さんはいらっしゃいますか・・・」
啓太が自分の名前を告げると、間もなく彼女が電話口に出てきた。
「山本です、久しぶりですね。半年ぶりかな、お元気ですか?」
簡単な挨拶を交わすと、彼は木内と白鳥の2人に会いたいと正直に伝えた。
「京子さんはいま仕事に出ていますよ。私はもちろん大丈夫ですが、彼女の都合を聞いて返事をします。京子さんもきっと喜ぶと思いますよ」
典子は快諾した。彼女の明るい声を聞いて啓太は嬉しくなった。そして、典子からの連絡を待ったのである。
電話をかけて2時間以上たっただろうか、ようやく彼女から返事があった。
「今月(8月)27日の火曜日で、午後は空いていますか?」
「ええ、いいですよ、何も起きなければ大丈夫。場所は・・・」
そう言って、啓太は以前 3人で会った虎ノ門のイタリアン・レストラン「T」を指定し、時間は前回と同じように午後1時過ぎとした。こうして、啓太らは半年ぶりに再会することになったのだ。

夏休みが終わり警視庁クラブに出ると早速、草刈が聞いてきた。
「どうだった? 夏休みは」
「お陰さまでどうも。伊勢や和歌山、奈良などに行ってきましたよ」
「そうか・・・ 坂井もいま夏休みを取っている。大したことが起きなくて良かったな」
草刈はそう言うと、当面の仕事の説明を始めた。成田闘争や東大紛争、それに新左翼の動向などが主な内容だったが、一呼吸置くと、彼の話は会社の報道局のことに移った。
「10月からニュース枠が拡大して、ローカルニュースもどんどん入るようになるぞ。それに、KYODOテレビから新たに10数人が移ってくるというから、報道局はさらに充実し強化される。
また、来年4月から系列のUHFの新局が8つ誕生するそうだ。ますます賑やかになるな」


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