武弘・Takehiroの部屋

日一日の命

<小説> 高齢期 ②(休止)

2024年09月26日 14時40分49秒 | 文学・小説・戯曲・エッセイなど

(4)ミッチー・サッチー騒動

そういう日々を送っているうちに、先輩の大森、山口が相次いで定年退職を迎えた。視聴者センターでは2人の送別会を手厚く行なったが、彼らがいなくなったので行雄が山崎室長に次ぐ“ナンバー2”の立場についたのである。
彼は日報・月報作りを初めて担当したり、レスポンスはもちろんのこと、センターの勤務表を作ったりとけっこう忙しく充実した毎日を送っていった。こうして新しい年(平成11年・1999年)を迎えたが、間もなく、センターの職場は14階に引っ越した。そこは外の景色が眺められる所なのでみんな気分を良くしたのだ。
また、この頃から、レスポンスをするメンバーは“通り名”を準備するようになった。それはクレーマーやストーカーみたいな視聴者が増えたからだ。通り名とは“偽名”と同じものだが、厄介な視聴者もいるから仕方がない。もちろん必要なら、通常のほとんどの視聴者には本名で応対する。行雄は通り名を『司馬』に決めた。
若い女性アルバイトが聞いてくる。
「村上さんはどうして司馬って名乗るのですか?」
「司馬遼太郎さんの司馬だよ。彼は大作家だからね」
「まあ、司馬遼太郎が好きなんですか?」
「そうだよ、彼みたいになりたいけれどなれないな、ハッハッハッハ」
そう言って行雄は笑ったが、司馬と名乗って満更でもない気分になっていた。
こうして平穏だが充実した日々を送るうちに、春本番の暖かい季節を迎えた。そして桜の花が散る頃だったろうか、ある日、ワイドショーを見ていると、浅香光代と野村沙知代が対決する話題を盛んに放送している。すると、急に視聴者からの意見や人物批判が増えてきた。特にサッチーこと野村沙知代に対する批判が多かったと思う。
急いで調べてみると、ミッチーこと浅香光代がつい最近、ラジオ番組で野村を激しく罵倒したというのだ。すると野村も負けていないで、大阪の講演会で浅香がしたことを“売名行為”だと厳しく反論したという。
それで2人の対決はマスコミの格好の話題となり、スポーツ紙や週刊誌、そしてテレビで盛んに取り上げられるようになった。特にワイドショーでは、浅香と野村それぞれの応援人物が登場し、両者を批判したり擁護したりするので、一般の視聴者もそれに巻き込まれて意見や批判を寄せるようになった。
世にこれを『ミッチー・サッチー騒動』と呼んだのである。

実は浅香と野村は舞台で共演したことがあるが、その時の言動や態度に互いに“不満”を持っていたという。それが高じてミッチーの罵倒発言になったようだ。これに対しサッチーも反撃したから、恐るべき老女同士の対決になったのだ。
浅香は女剣劇の大スターであったが、一般にはあまり知られていない。一方、野村は有名なプロ野球監督の夫人であり、しょっちゅうテレビやCMなどに出演しているから知名度は高い。しかし、態度がどこか横柄で、人を見下すような雰囲気があった。
だから始めは、両者の衝突はミッチーに同情し、サッチーを敵視する意見が圧倒的に多かったと思う。
「浅香さんの言うとおりだわ。野村沙知代は威張りくさって不愉快だ」
「沙知代は気に入らないと周囲の人を大声で怒鳴り散らし、みんながたいへん迷惑してるようよ。あんな女は大嫌い!」
「サッチーはプロ野球のことにも口出しし、選手の“えこひいき”を平気でやってるのよ。許せないわ!」
「野村沙知代は少年野球を指導していたけど、とてもワンマンなので子供たちがどんどん辞めていったそうよ」などなど・・・ 
こういった視聴者の意見を、行雄はずいぶん聞いた。電話に出るたびに、またサッチー批判かと思ってしまうのだ。
こうした状況は拡大していったが、その背景には、テレビなどで騒動を煽っている気配が感じられた。サッチーが不利と見られたのか、ワイドショーでは双方の“応援団”が平等に出演してくる。これにはタレントや有名人らが次々に登場してくるのだ。
そのうち、行雄は電話に出るのが嫌になってきた。もう沢山だ、という気持になる。民放テレビは視聴率を稼ぐために、騒動を余計に煽っているのか。TBSテレビとFUJIテレビはまあまあといった感じだが、NIPPONテレビとテレビASAHIはことさら力を入れていたように思う。NHKはもちろんやらないが。
やがて1カ月ぐらいたった頃だろうか、視聴者の意見がだんだん変わってきた。つまり、テレビ局の姿勢に疑問を持つ声が増えてきたのだ。
「いつまでこんなことを放送しているのですか。もう、いい加減にやめたらどうですか!」
「他にやるべきことがあるでしょう。ミッチー・サッチーももう沢山だわ!」
「恥ずかしくないのですか。これがテレビのワイドショーなの? もうテレビは見ません!」などなど・・・
こういったテレビ局への批判が増えてきて、行雄が受けた電話の3分の1ぐらいはそうした内容だったと思う。

やがて、野村沙知代の経歴に疑問が出てきた。これは沙知代が先の衆院選で東京5区から新進党公認で立候補した際、選挙公報などに“虚偽”の経歴を記載したというのだ。
これに目をつけた浅香光代側はついに7月、公職選挙法違反の疑いで沙知代を東京地検に告発した。これは公選法第235条の「虚偽事項の公表罪」に当たるというもので、これによって、両者の対決は法曹界を巻き込む騒動にまで発展したのである。
しかし、さすがにこの頃になると、テレビ局の取り扱いも下火になってきて、あとは裁判の行方がどうなるかということに焦点が移っていった。4カ月も見苦しい争いが続いていると、視聴者も嫌気が差してきたのだろう。その反響が鈍くなって、行雄は安堵したのである。
ミッチー・サッチー騒動は結局 沙知代が嫌疑不十分で不起訴になったが、このあと2001年には脱税事件で東京地検に逮捕されるなど、いろいろと尾を引いた。しかし、ここではテレビなどマスコミが余計に騒動を煽ったとして、人権問題などの報道被害を引き起こしたことも指摘しておこう。

 

(5)苦あれば楽あり

視聴者センターへの苦情や要望はいろいろあるが、その頃は特に、プロ野球の放送時間に関するものが多かったと思う。FUJIテレビはヤクルト・スワローズのナイター中継が“売り物”だったが、放送時間内に試合が終わるというのは少ない。このため、夜遅くなると電話が急に増えてくる。
「試合終了までちゃんと放送するの?」
「時間を延長して放送してよ」などの要望が寄せられる。
しかし、放送時間を20分ほど延長しても試合が終わらないケースがあり、そういう時は、野球ファンのクレームが一段と強まるのだ。
「どうして最後まで放送しないのか!?」
「最終回で一番面白くなってるじゃないか、放送時間を延長しろ!」
こういったクレームには、ひたすら弁解したり謝るしかない。中には酔っ払って長々と電話をかけてくる者もいるが、センターのメンバーは努めて低姿勢でレスポンスに当たったのである。

そして7月になると、会社は人事異動の季節を迎えた。視聴者センターでは山崎室長が関連会社の役員に転出、後任の室長には情報制作部から青田正明が移ってきた。
「やあ、村上さん、久しぶりですね。よろしくどうぞ」
青田はわりと丁寧に挨拶したが、彼は行雄の4年後輩でかつて報道局で一緒に仕事をしていた仲だ。
「いや~、君が僕の上司になるなんて・・・これから青田さんとか、青田室長と呼ばなくてはならないな」
そう言って、行雄は苦笑した。青田は特に反応を示さなかったが、彼も先輩を部下に持って少し“やりにくい”と感じたのか・・・それは分からないが、もともと仲の良い2人だから問題はないと思ったのだろう。
この時の人事で、行雄は完全に役職を離脱し『理事』という身分になった。そんなものは会社の都合だからどうでもいいが、彼は60歳の定年退職まであと2年だという思いを新たにした。あと2年、なんとかこの職場でやり抜こうという思いだった。
その頃だったか、前年に結婚した娘の晴恵が妊娠し、行雄は初孫の誕生を心待ちにしていた。晴恵は所沢の実家によく帰ってきたが、ある日、彼女にこう言った。
「プロ野球のヤクルト戦の切符が取れそうなんだ。源ちゃんと一緒に見に行かないか?」
「いいわ、彼に言ってみる」
源ちゃんとは晴恵の夫・源太のことだが、1週間ほどして娘夫婦と神宮球場へヤクルト・巨人戦を見に行くことになった。試合は大したものではなかったが(ヤクルトがたしか3対1で勝った)、このあと、3人で近くのレストランに寄って食事を共にした。
晴恵のお腹はすっかり大きくなり、帰りに彼女が階段を上る時、行雄は源太とともに体を支えたりした。孫の誕生が近づいたことで、自分は間もなく爺(ジジイ)になるのだと思うと幸せな充実感を覚えたのである。
日ごろ、視聴者センターでレスポンスに骨を折っていても、そんなことは忘れる一日だった。
しかし、面倒くさいことは次々に起きる。

 

(6)不祥事・・・覚せい剤、やらせ etc.

発端は夏休み前のことだったが、行雄が軽井沢にある健保保養所の予約を申し込んだところ、会社の厚生部から承諾の通知状が手元に届いた。ところが、彼が封筒を開けて読むと、まったく別人に宛てた通知が入っている。
その人は技術局のS氏なので、行雄は確認のため電話をかけると、S氏は「こちらに村上さん宛の通知が届いている」と言った。要するに、厚生部の誰かが相手の宛先を取り違えて送付してきたのだ。こんなことは滅多にないことである。
そこで行雄は厚生部に出向き、担当者に会って保養所の再確認と注意をうながすことにした。担当のAは前年に入社した若者だったが、さすがに恐縮したのか行雄に素直に謝った。これで一件落着し、行雄は夏休みに妻子を連れて軽井沢の保養所へ赴いたのである。
ところが、それから1カ月ほどして(厚生部の不手際を忘れたころに)、事件は起きた。Aが覚せい剤所持と使用の疑いで逮捕されたのだ。テレビ局員の逮捕はすぐにニュースになり、視聴者センターにも苦情や抗議の電話が数多くかかってきた。
「FUJIテレビの社員が覚せい剤を使うとは何事か!」
「芸能人の覚せい剤事件は大々的にやるのに、社員のことは大々的に放送しないのですか?」
「FUJIテレビはたるんでるよ、真摯に謝罪しろ!」などなど・・・
行雄は苦情や抗議の電話を何本も受けながら、Aが起こした先の“不手際”を思い出していた。覚せい剤の常用が、あんなことを起こすのだろうか・・・ 
それは分からないが、ニュースなどによると、彼は会社に関係が深いNIPPON放送(ラジオ)の重役の息子だそうだ。ということは、コネでFUJIテレビに入ったのか? いずれにしても、不愉快な不祥事である。
そんなことを思いながら、昼休みに行雄は同僚たちと食事に出かけた。そして、会社に戻る道すがら見ると、どこかのテレビ局の記者がFUJIテレビの社員らにインタビューをしているようだ。
このため同僚たちは素早く逃げたが、その記者は動作が鈍い行雄を捕らえて聞いてきた。
「NIPPONテレビですが、今回の覚せい剤事件をどのように思いますか?」
しまったと思ったが、行雄は観念して質問に答えることにした。

「このようなことが起きて、まことに残念です。社内の人事管理が甘かったのでしょうか。
本人にももちろん責任はありますが、今後 二度とこのようなことが起きないよう注意しなければなりません。テレビ局が世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」
月並みな謝罪の言葉になってしまったが、行雄はそれで良い、また、そうするしかないと思った。彼は以前 報道局にいたので、何度もインタビューをしたことがあるが、なかなか思うようにいかなかったことを思い出した。
いま、他局の若い記者が同じことをしているのに懐かしさを感じ、共感さえ覚えたのである。行雄はなお二、三の質問に答えてその記者と別れた。このインタビューはNIPPONテレビで放送されたため、翌日、数人から見たという知らせがあった。
また、ちょうどその頃、FUJIテレビ社員の痴漢騒ぎもあり、不祥事が続いたので行雄はレスポンスに当たるのが苦痛だった。
しかし、不愉快なことばかりではない。ドラマや報道番組などで「FUJIはよくやっている、頑張ってね」「面白いから必ず見るよ」などの好意的な意見も寄せられ、視聴者センターのメンバーは激励される気分にもなったのである。
仕事のことはさておき、行雄はその頃、自伝的な小説の続編を書く気になりそれに取り組んでいた。しかし、それは休日にしかできないので遅々として進まなかったが、やり甲斐はあったのである。
また、仲間とゴルフをしたり(下手くそだが)、同僚の子女の“お見合い”を斡旋するなどけっこう充実した日々を送っていた。
そんなある日、行雄がレスポンスをしていると、気になる電話がかかってきた。
「君のところで放送している『愛する二人別れる二人』は“やらせ”じゃないのか。ちょっと変だよ」
「そんなことはないと思いますが、ご意見は番組担当者にも伝えておきます」
中年風の男からの電話に行雄はそう答え、後で番組担当の編成部員に伝えた。
この『愛する二人別れる二人』は離婚の危機に直面した夫婦が登場し、お互いに言いたいことを言い合うバラエティ番組で、有名人をパネリストに揃えてけっこう人気のある番組だった。

ところが、その後も“やらせ”を疑う電話が後を絶たない。行雄もこの番組を注意して見たが、離婚寸前の夫婦や愛人が顔を隠して登場し、ドタバタ劇を繰り広げるなどの場面がほとんどで、それほど変だとは思わなかった。
それより『愛する二人別れる二人』は低俗な感じはしても、視聴率だけは20%を優に超える人気番組になり、9月上旬のある日には24,6%を記録した。FUJIテレビの番組ではナンバーワンになったのである。
しかし、やがて“やらせ”の事実が明らかになる。スポーツ紙などの取材で、番組に登場したある女性が未婚なのに妻を演じたが、のちに自殺し、その遺書で番組の“やらせ”が発覚したのだ。
このため、番組は11月上旬で打ち切りとなったが、社会的関心を集めたのか最後の放送は過去最高の視聴率27,4%を記録した。
この間、行雄たちは視聴者とのレスポンスに骨を折ったが、番組担当者は最後まで“やらせ”を否定していた。
「視聴率を取れば、何をやってもいいということか!?」
行雄が吐き捨てるように言っても、周りのメンバーは黙っている。彼は昔のある言葉を思い出した。それは大宅壮一(評論家)や松本清張(作家)がテレビを『1億総白痴化』の元凶と呼んだことだ。
しかし、大宅壮一はテレビによく出演したし、松本清張にいたっては数多くの作品がテレビドラマ化されたのも事実ではないか。良し悪しは別にしてテレビの『魔性』というものを、行雄はこの“やらせ騒動”から感じ取ったのである。
しかし、このまま黙っているわけにはいかない。番組担当者にどう言おうか青田室長に尋ねると、彼はこう答えた。
「番組は打ち切りになったのですよ。彼らも反省しているはずです。村上さん、今後のバラエティ制作を見守っていきましょう」
青田の言うことに、行雄は特に反論はできなかった。

 

(7)桶川ストーカー殺人事件

やらせ騒動はNHKを始め各民放テレビ局でも起きており、それを取り上げれば切りがないので、行雄はそれ以上この問題について考えるのをやめた。
ただ、仕事上の嫌なことばかりではない。ちょうどその頃、娘の晴恵が第一子の女の子を出産した。孫の誕生は行雄を大いに喜ばせ、暇さえあれば妻とともに顔を見に出かけた。孫と一緒にいると、すべての憂いや心配事は忘れる。こんなに良いものは他にないのだ。
一方、仕事の方は相変わらずだったが、行雄は自局のドラマやバラエティをできるだけ見るようになった。以前、報道局にいる頃はほとんど見なかったのとは大違いだ。
特に「月9(げっく)」と呼ばれる月曜日夜9時からの若者向けのドラマは人気があったので、時間があればほとんど見ることにした。年寄りには不向きだろうが、酒を飲みながら見る分にはけっこう楽しいもので、若返る気分にもなった。
こうしてドラマやバラエティの世界にも親しんでいったが、10月の終わり頃になって、世間を騒がせる恐るべき事件が起きた。後に「桶川ストーカー殺人事件」と呼ばれたが、埼玉県桶川(おけがわ)市で真っ昼間に、21歳の女子大生Aさんが交際相手のBの仲間に刺し殺されたのである。
これをきっかけにして、翌年には「ストーカー規制法」が国会で成立するという犯罪史上に残る事件であった。
概略を述べると、AさんとB(当時27歳)はこの年(1999年)の1月から交際を始めたが、やがてAさんはBの人柄に嫌気が差し、別れ話を持ちかけた。理由はBが偽名を使ったり、すぐに逆上することなどが原因だったという。
また、Bは金遣いが荒く法外な贈り物(ブランド品など)を贈ってくるので、Aさんは違和感を覚えたともいわれる。なお、Bは風俗店を複数 経営する裏社会の実業家だったそうだ。
Aさんが別れ話を持ちかけたことでBは逆上し、それからAさんをいろいろ脅迫するようになった。挙句の果てに6月になって、Bは仲間とともにAさんの実家に乗り込み、両親に難癖をつけて善処するよう脅した。
このため、両親らは所轄の上尾(あげお)警察署に被害届を出し捜査を願い出たのである。ところが、警察の対応はまったく“手ぬるい”ものだった。ここから、AさんとBのいさかいは最悪の事態へと進んでいく。

このあと、Aさんを誹謗中傷するビラが自宅の周りだけでなく、父親の勤務先にもばらまかれた。嫌がらせがますますエスカレートするので、ついに7月中旬になって、Aさんと母親が再び上尾署を訪れ、Bへの告訴などを求めたのである。
ところが、警察の態度はまったく冷淡なもので、Aさん親子の申し入れを相手にしなかった。このあともB側の嫌がらせは酷くなる一方だったが、上尾署はAさんらの訴えを事実上 無視したのである。
このため、Aさんは絶望的になり、友人に「このままでは殺される」などと語ったという。また、彼女は両親宛に“遺書”まで書いていたのだ。こうした悲劇的な状況が続くうちに、とうとう事件は起きた。
10月26日の昼過ぎ、Bの仲間たちはAさんの動きを見張った上、彼女が大学へ向かうため桶川駅の近くで自転車を降りたところを、仲間の1人がAさんの上半身を2カ所刺して逃走した。Aさんは近くの病院へ搬送されたが、間もなく出血多量で死亡したのである。
これが「桶川ストーカー殺人事件」の概要だが、この事件は警察の“不祥事”としても大きく報道され、のちに3人の警察官が懲戒免職になるなどの処分が行われた。
なお、Aさんに対し執拗なストーカー行為を繰り返したBは、翌年の1月に北海道の屈斜路湖で投身自殺し、またBから大金を受け取ってAさんの殺害に協力した仲間たちもそれぞれ逮捕され、後に有罪(実刑判決)が確定したのである。
問題はさらにある。衝撃的な事件だったためマスコミの取材が過熱し、遺族側に多くの迷惑をかけたことだ。特に21歳のAさんが「ブランド狂い」だったなど根拠の薄い情報が飛びかい、それがテレビのワイドショーで紹介されたのだ。
つまり、殺されたAさんにも“落ち度”があったかのような報道がなされた。これには遺族も耐えられない思いだったろう。
ちょうどその頃(11月上旬だったか)、行雄がレスポンスを担当していると1本の電話がかかってきた。
「もしもし、視聴者センターですが」と、いつものように応対する。
すると、相手の女性が言った。
「私は桶川ストーカー事件の被害者Aの母親です」
とたんに、行雄の全身に緊張感が走った。
「このたびは大変な事件に遭われ、ご愁傷さまでした。それで、どういうご用件でしょうか?」

すると、母親のKさんは落ち着いたはっきりした声で語り始めた。
「ご承知でしょうが、いまテレビのワイドショーなどで、娘のAの人格が不当に捻じ曲げられて放送されている面があります。
娘は決して男友だちにお金をねだったり、ブランド物をせびるような子ではありません。それだけは言っておきます。
どうかその点を理解していただいて、これからの放送で正しいことを伝えて下さるようお願いいたします。よろしいでしょうか」
Kさんの要望に、行雄は心にずしりと響くものを感じた。
「承知しました。弊社のワイドショーがどういう放送をしたかは後で調べてみますが、ご要望の件は担当者にも伝え、今後の放送が正しく行われるよう努めていきます。
その点をお約束して、こういうことはないでしょうが、万が一にも不当な放送が行われたなら、ただちにお知らせ願いたいと思います。こちらも十分に注意して見守っていきます。いろいろありがとうございました。私は『村上』という者です」
そう答えると、Kさんは丁寧に挨拶をして電話を切った。行雄はふだん、変なクレームに対しては“司馬”という通り名をよく使っていたが、この時ばかりははっきりと本名を名乗った。Kさんの心情と人柄に誠実に応えたかったからだ。
マスコミが凶悪な事件に関心を示し、それを大々的に報道するのは当然だろうが、時には冷静さを失い、騒ぎ過ぎて被害者の側にも思わぬ迷惑をかけることがある。
マスコミが“マスゴミ”に転落する時だが、今回の事件報道では残念ながらそういう面があったと言えるようだ。
行雄はすぐに生活情報局の担当者らに対し、殺されたAさんの母・Kさんから電話があったことを伝え、自局のワイドショーを検証するよう求めた。その結果、不適切な報道はほとんどなかったようだが、今後の放送についても十分に注意するよう申し合わせたのである。

 

(8)雅子妃殿下の流産

それから1カ月ほどして、ASAHI新聞のスクープ記事が注目を浴びた。「雅子様、懐妊の兆候」という記事が一面に躍ったからだ。皇太子妃雅子さまは結婚後なかなか御子に恵まれず、世継ぎの問題が世間を騒がせていたから尚更だった。
視聴者センターにもそれに関するいくつかの反響があったが、年末になって事態は急変する。雅子さまが稽留(けいりゅう)流産になったのだ。
ご懐妊の報道で大わらわになっていたマスコミは、一転して話題を“流産”に切り替えた。雅子さまの体調はもちろんのこと、皇室を取り巻く環境問題など話題は尽きないのだ。
こういう時は、宮内庁や東宮(とうぐう)のあり方をとやかく言う意見が多くなる。それは仕方がないとして、雅子さまの体調を中心にいろいろな反響があった。
そうしたある日、視聴者センターに一本の電話がかかってきた。アルバイトの女性がそれに出たが、話は雅子さまの件だというので、彼女はレスポンスをしている行雄に取り次いだ。彼が電話口に出ると、相手は皇太子妃の母・Y子と名乗った。
「最近のテレビやマスコミの報道について、ひとこと言わせてください」
行雄の全身に緊張感が走った。それは先日、桶川ストーカー殺人事件で被害者の母親の電話を受けた時の気持とよく似ている。
Y子さんについては、娘が皇太子妃に決まった時にマスコミがいろいろ取材したので、その“人となり”は知っているつもりだった。彼女はエリート外交官の妻ではあるが、とても気さくで、テレビのインタビューなどにも快く応じてくれたのだ。
その時の印象が残っていたので、行雄は緊張感がだんだんほぐれた。くわしく覚えていないが、Y子さんは雅子さまの体調を心配して、テレビ報道に十分に気を遣って欲しいと要望してきたのである。
行雄は番組担当者にもその旨を伝えると答え、電話を切った。
Y子さんは他局にも当然 電話をかけただろうが、それは別にして、行雄は先の桶川ストーカー事件を思い出した。
一方は男たちに娘を殺され、他方は娘が皇太子妃になったという大きな違いはある。しかし、娘を思う母親の気持はまったく同じなのだと思った。
ほぼ同時期に、2人の母親の電話を受けたことは、行雄にとって忘れられない出来事になったのである。(休止)


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