武弘・Takehiroの部屋

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日本は「邪馬壹(やまいち)国」から始まった!

2024年03月06日 05時30分43秒 | 歴史

古田武彦氏は2015年10月14日に京都市内の病院で亡くなられた。享年89歳。ここに謹んでご冥福をお祈りするものである。

(2008年1月1日に書いた以下の文を復刻します。 なお、この記事に批判的な方のコメントもきちんと載せていますので、ぜひご覧ください。日本の古代史について、関心が高まることを切に願っています。

1) 日本の古代史について、私は古田武彦氏の学説に大いに共鳴し感謝している。古田氏によれば、中国の三国志の中の有名な「魏志倭人伝」には、邪馬臺(台)国(やまたいこく)と記述したものは一つもなく、全て「邪馬壹(壱)国(やまいちこく)」となっているのだ。
それでは、どうして「邪馬壹(壱)国」が「邪馬臺(台)国」に変わってしまったのだろうか。これは江戸時代後期の儒者である松下見林という者が、邪馬壹国を「ヤマト」と読むために、勝手に「邪馬臺(台)国」に書き直したというのだ。(ただし「臺」は「ダイ」と読むのが通例である)
つまり、日本史上初の国名を大和朝廷に因んだ「ヤマト」と読ませるために、独断で「邪馬臺(台)国」に変えてしまったというのである。しかし、これは非常に悪質な改ざんである。 日本の古代史を解明するために、中国の史書の原文を一方的に都合の良いように変えてしまったのだから、学者の風上にも置けない仕業だと断定せざるを得ない。
もっとも、これは「大和朝廷」を唯一絶対の王朝として認めようという江戸時代の試みだから、多少は大目に見ることも出来るだろうが、現代であれば許しがたい捏造行為である。 古田氏は三国志の中に出てくる86個の「壹」と56個の「臺」を全て調べ上げ、両方の文字が取り違えて使われたケースが一つもないことを立証した。

 従って文献上、初めて登場した日本(倭国)の国名は「邪馬壹国」であって、断じて「邪馬臺(台)国」ではないのだ。 この問題について、三国志よりも140~150年ほど後に出た後漢書で、「邪馬臺国」という表現がもっぱら使われているので、一部の学者からは「邪馬臺国」がもともと正しく「邪馬壹国」は間違いだという指摘が出ている。
しかし、現在残っている三国志の版本・写本は全て「邪馬壹国」となっているから、何の根拠も証明もなしにそれが間違いだと断定するのは、まったく非科学的な“こじつけ”以外の何ものでもない。 日本の古代史を研究する者が、三国志の「魏志倭人伝」にさんざんお世話になりながら、自分の考えに都合の悪い所だけを問題視するというのはどういうことか。
そんなに原文に疑いを持つのなら「魏志倭人伝」を捨て去ればいいではないか! 捨て去ることも出来ないくせに、結局それを頼りにして牽強付会な推論だけを展開するのは、原文に対する冒涜である。 素直な心をもって臨めば、日本(倭国)最初の国名は「邪馬壹国」であることは自明の理である。


2) さて「邪馬壹国」の所在であるが、これも古田武彦氏が説くように九州の北岸、現在の福岡市にあったことは間違いないと考える。古田氏は三国志の他の「東夷伝」にある記述との比較から、方角・行程・距離・日数を正確に割り出して邪馬壹国の所在地を確定した。
詳しいことは古田氏の著作を読んでもらえれば分かるが、私がここで言いたいことは、真実を探究する者はまず謙虚な心を持ち、あらゆる先入観や思い込みを排除し、物事を科学的に実証的に追究すべきだということである。
邪馬壹国が近畿にあろうと九州にあろうと、あるいはその他の地域にあろうとそんなことはどうでも良い。要は真実の追究である。 そのためには、あらゆる事柄や文献を客観的に科学的に検証しなければならない。

 一時の「邪馬台国論争」は下火になって、古田氏の所説はやや色あせたかのように見られているが、私はまったくそうは思わない。彼の文献への取り組み、その情熱、科学的で論理的な思考は必ず見直されるだろう。
中国では、紀元前91年頃に完成したと言われる司馬遷の「史記」以来、歴史書が営々として編纂されてきた。中国は何と言っても“漢字”の国である。漢字に対する造詣と認識は、我々日本人よりもはるかに深く鋭いものがあるはずだ。 従って、その史書の原本に対しては、私心を捨てて謙虚に接しなければならない。
「三国志」は「史記」より約300年後に世に現れたが、著者の陳寿(ちんじゅ)は蜀漢の出身で卓越した歴史家として知られる。その人の著書の原文を勝手に改ざんしたり読み換えたりすることは、断じてあってはならない。その一字一句を徹底的に科学的・実証的に分析していくことが、古代史を探究する者の姿勢であるべきはずだ。

 かつて、トロイの遺跡を発見したシュリーマンは「ホメロスの言ったことには、何一つ嘘はなかった」と述べている。 ホメロスは“詩人”だったのだ。詩人とは想像力や創造力に秀でている。それにもかかわらず、ホメロスは一つも嘘は言わなかったとシュリーマンは述懐しているのである。
まして、陳寿は詩人ではなく“歴史家”なのだ。どうして嘘、偽りを後世に残すだろうか。 従って「魏志倭人伝」の一字一句を、我々は正確に吟味しなければならない。そうすれば、おのずと日本最初の国家は「邪馬壹国」であって、断じて「邪馬臺(台)国」ではなかったことが明白になるのだ。
邪馬壹国の「壹」は「壱(いち)」のことである。「壱」は「一」と同じだ。我々は日本の古代史を探究する際、この「一」からスタートしよう。そうすれば「邪馬壹国」の正しい姿が見えてくるはずだ。最後は“語呂合わせ”のようになってしまったが、一からのスタートが何よりも肝心である。
なお、壹と臺の違いを大文字で記しておく。である。(2008年1月1日)


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壹は臺の誤です (hyena_no_papa)
2020-11-30 19:06:37
突然の不躾なコメント失礼いたします。古田説に「大いに共鳴し感謝」されているとのことですが、古田説の反対説について何か読まれたことはおありでしょうか?

現在我々が見ている『魏志』倭人伝は南宋代の刊本であり、それは陳寿の三国志編纂から900年を経ています。その間に『三国志』は各種の本に引用され参照されていますが、そのなかに「邪馬壹」とするものは一切ありません。全て「邪馬臺」です。

既に明治43年に内藤湖南が「卑弥呼考」の中で「邪馬壹は邪馬臺の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。」と述べているように、唐代までに流布していた『三国志』には「臺」とあったと見られます。中でも『隋書』では【則魏志所謂邪馬臺者也】と魏志からの引用を明記して「邪馬臺」とします。北宋代の『太平御覧』でも「耶馬臺」で「臺」です。

つまり、「邪馬壹」なる表記は宋代に入ってから各種版本が刊行される際に発生された誤だと見るべきかと考えます。

古田説については「九州王朝説」「東日流外三郡誌」なども含めて、前世紀中に概ね否定されてしまっています。

せっかく古田説に対して「大いに共鳴し感謝」されているところへ水を差すようではなはだ申し訳ないのですが、今日に至ってもなお「古田説」に傾倒する方が絶えませんので、一言申し上げさせていただきました。
ありがとうございます。 (矢嶋武弘)
2020-12-01 03:43:32
私は古田説が正しいと思っていますが、現在、古代史に関して勉強、研究する時間がありません。 文芸、戯曲などの創作で手一杯です。
貴兄の御説はそのまま掲載させていただき、また時間ができれば勉強、研究したいと思います。
ありがとうございました。
御礼 (hyena_no_papa)
2020-12-01 09:02:45
お忙しい中、不躾なコメントに対し、早々にご返信いただき、ありがとうございます。貴兄の今後の研究の進展をお祈り申し上げます。僭越ですが、数十年古田説に向き合ってきましたので、ご質問等ありましたら何なりとお寄せ下さい。

併せてお手すきの折りにでも私のHPを覗いていただきましたら幸いに存じます。
「魏志倭人伝への旅」
http://hyenanopapa.obunko.com/index.html
この国の起源 (矢嶋武弘)
2021-01-01 02:21:09
この国の起源について、盛大な議論が行われることを期待しています。
騎馬民族征服王朝説 (矢嶋武弘)
2021-02-12 06:25:22
文化勲章を受章された考古学者の江上波夫さんは『騎馬民族征服王朝説』を唱えた。わが国の起源について、この学説は今やごく少数派だと聞いている。
しかし、考古学や東洋史学にまったく素人の私は、この学説を今後 学んでいきたいと思います。

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