<まえがき>
<映画『罪の声』を見ていたら、どうしてもグリコ・森永事件について何か書きたくなった。この小説は、当時の個人的な体験が元になっている。悪しからずご了承願います。>
その日、山本啓太はテレビ局の“遅番勤務”のため、午後2時過ぎに家を出た。彼はそのままTOKYO(東京)テレビの報道局の部屋に入ったが、時間があったので“早番”の政経デスク・熊沢と少し雑談を交わしていた。
「このところ、中曽根と金丸(かねまる)の関係はうまくいっているようだね」
「うん、まあまあだな。長い目で見ないと・・・」
第2次中曾根改造内閣の発足にともない、自民党幹事長の金丸信(かねまるしん)と中曽根康弘首相の関係について雑談を交わしたのだが、2人は共に政経デスクとして仕事をしていた。
「それより、地方デスクがさっきから忙しそうにしているよ。どうも、グリコ・森永事件で何かあったようだな」
「えっ、グリコ・森永事件で」
熊沢の話に、啓太はやっぱりそうかと思った。前日の地方デスクの報告では、グリコ・森永事件で、大阪府警と地元のマスコミが“報道協定”を結んだというのだ。すると、それにともない何か大きな進展があるのか・・・
啓太が地方デスクの山村の方をうかがうと、彼はなにやらOHSAKA(大阪)テレビと盛んに連絡を取っているようだ。
グリコ・森永事件とはこの年の3月、兵庫県西宮市で江崎グリコの社長が誘拐され身代金を要求されたのに続き、森永製菓などの“食品企業”が次々に脅迫された凶悪な事件で、青酸入りの菓子が店頭に並ぶなど、その悪質さは例を見ないほど酷いものだった。
このため4月には、警察庁の広域重要事件に指定され、全国的な捜査協力体制が敷かれたのだ。
OHSAKAテレビとの連絡が終わると、山村は杉野社会部長に何やらささやいた。
すると、杉野は一呼吸置いて、報道局の全員に対し大声で呼びかけた。
「皆さん、お仕事中に申し訳ないが、緊急事態の連絡をします。いま、OHSAKAテレビから入った情報によると、ハウス食品工業の現金輸送車が犯人側の要求に応じて、会社を出発したそうです。
報道協定が結ばれているので、以後の取り扱いについては厳重に対処してください。以上です」
杉野の報告が終わると、報道局内は緊張感に包まれた。
「お~、いよいよ始まったか」
「今度こそ、犯人を捕まえないとな」
あちこちからつぶやきが漏れたが、啓太も、これは犯人側との最終的な戦いになると予感した。
このあと、いつものように夕方の編集会議が開かれ、各デスクが所轄の報告を行なったが、最後に西田編集長がこう述べた。
「先ほど、杉野さんが報告されたように、グリコ・森永事件は東京でも報道協定が結ばれている。その点を十分に気をつけて対処していただきたい。
なお、事件が解決されたら“報道特番”をやる予定だ。担当は遊軍班で、箕輪君に指揮をとってもらう」
すると、遊軍デスクの箕輪亘(わたる)が立ち上がって一礼した。編集会議はそれで終わり、熊沢が啓太に声をかけてきた。
「大変な夜になるかもしれないね。政経部には関係ないが、よろしく」
そう言って、熊沢は部屋を出ていった。たしかに、政治や経済とは関係ないが、全国民が知っているはずのグリコ・森永事件は、解決されれば大きなニュースになる。啓太ももちろん、捜査の進展に関心を持っていた。
彼は注文していた仕出し弁当を早めに食べると、地方部の様子をうかがった。山村デスクの側には箕輪がずっとついている。2人は“警察無線”を熱心に傍受しているのだ。
すると、遅番の社会デスク・橋口が声をかけた。
「山村さん、無線の音をもっと上げてよ」
「うん、分かった」
そう答えると山村が音量を上げた。夜なので人が相当に少なくなり、無線の音はあまり気にしなくて済むのだ。 橋口は事故などのローカルニュースの原稿に取りかかっていたが、啓太の方はこれといったニュースがないため、余裕を持って警察無線を聞くことができた。
こうしてしばらくして、ハウス食品の現金輸送車(1億円を積んでいるようだ)は、名神高速道路を大阪から京都府へと入った。
この日、大阪・京都と兵庫、滋賀、愛知、岐阜の6府県警は捜査員900人以上(一説には924人)、車両200台以上(206台とも)を用意するなど、万全の態勢をとって犯人逮捕に向かった。前代未聞の“大捕り物帳”が始まったのである。
このため、啓太たちも事件が解決するものと思い、またそれを期待していた。
警察側とマスメディアの間に「報道協定」が結ばれると、マスメディアは事件に関する報道を一切しないことになる。その代わり、警察側は入手した情報や捜査の進展具合などを逐一、マスメディアに公表しなければならない。
報道協定は主に誘拐事件など“人命”に関するものが多いが、世間を騒然とさせた重大な事件についても結ばれることがある。 グリコ・森永事件などはその典型的な例で、報道関係者はこぞって警察側の発表に神経を集中させた。
このため、警察無線は常時 公開され、ハウス食品の現金輸送車の動向が手に取るように分かる。 輸送車はまず、名神高速道路で京都府内の城南宮バス停に着いた。午後8時半過ぎのことだった。
そこで犯人側からの“指示書”を見つけたらしく、輸送車はさらに東へと進む。
「おい、これは滋賀県に入るぞ。けっこう遠くなるな」
「どこまで行くのだろう?」
箕輪たちが話し合っているので、啓太が近寄って見ると、高速道路のインターやサービスエリアの“定点カメラ”の映像も写っている。行き交う車の様子がよく分かるので、彼はなんとなく眺めていた。
啓太は政経デスクの席を離れ、警察の大捕り物にすっかり引き寄せられていたが、ある呼びかけに後ろを振り向いた。
「山本さん、夜回りの報告をしますよ」
それは、自民党担当記者の河合信彦の声だった。
「いや、すまん、グリコ・森永事件が大きく動いているからね」
啓太が苦笑しながらデスクに戻ると、河合が言った。
「それは大ごとですね。では、簡単に」
「うん、田中派の動きはどうだったの?」
「ええ、若手や中堅の竹下(登)を担ぐ動きが、水面下で相当に進んでいるようですね」
「そうか、田中派も分裂状態になっていくのかな・・・」
田中派とは元首相の田中角栄が率いる派閥だが、ロッキード事件で田中が有罪判決を受けて以来、派内が二階堂進(前副総裁)か、竹下登(大蔵大臣)かの支持勢力に分断される様相を呈してきたのだ。
「じゃ、メモを書いておいてね」「ええ、山本さんはどうぞあちらへ」
啓太がそう言うと、河合が笑いながら答えた。彼もグリコ・森永事件の重大さをもちろん知っていたから、啓太にそう促したのだ。
午後9時前、現金輸送車は大津サービスエリアに到着した。つまり滋賀県警の管轄下に入ったが、高速道路とインターには近づくなという指示が大阪府警から出ているという。滋賀県警はそれを守っているのか?
警察同士の連携は上手くいっているのだろうか、と啓太はいぶかった。これは完全に“広域捜査”なので、相互の連絡や確認事項はとても大切なのだ。
「一つの山場を迎えたな」「うん、ここで犯人の動きがどうなるか・・・」
山村のつぶやきに箕輪が答えたが、あとは警察無線のやり取りにみんなが耳を傾ける。 すると、無線から重要な知らせが入った。電話ボックスに例の『キツネ目の男』に似た者がいるというのだ!
キツネ目の男とは、この事件に何度も登場してくる人物で“似顔絵”にもなっている。すわっ、捜査員の手で捕まるのか・・・
「でも、大阪府警は犯人たちを一網打尽で捕まえようとしているから、職務質問などはするなと指示しているそうだな」
「それはおかしいよ、せっかく犯人側の一人がいるのだから捕まえなくっちゃ!」
山村と箕輪が自分たちのことのように言い合っていたが、結局、キツネ目の男を見逃してしまったようだ。犯人側はもちろん“複数”だが、なにか変だなと啓太も思った。一人でも捕まえれば、そこから事件の解決に結びつくのではないか・・・
そう思っているうちに、現金輸送車は新たな指示書を見つけたのか、大津サービスエリアを出ていった。
このあと、輸送車は草津パーキングエリアに着いたが、啓太には、警察と犯人側がなにか“隠れん坊”か“鬼ごっこ”でもしているように感じられた。警察側が必死なのは分かるが、犯人側もしたたかな行動を繰り返しているようだ。
草津パーキングエリアでも指示書を発見、現金輸送車はさらに名古屋方面へ向かった。(ちょうどその頃、滋賀県警のパトカーが近くの県道で不審なライトバンを見つけたが、逃げられてしまう。)
警察の大捕り物は最終段階に入ったようで、TOKYOテレビの報道局内も緊迫感に包まれた。
「今度こそ犯人が捕まるぞ、警察の威信がかかっているからな」
山村がそう言っても、今度は誰も反応しない。ただ警察無線のやり取りに、みんなが神経を集中させているのだ。そして、警察の大がかりな捜査は最後のクライマックスを迎えた。
草津パーキングエリアから5キロほど行った所で、現金輸送車は防護フェンスに取り付けられていた「白い布」を発見した。これは犯人側の言うとおりだったが、布の中には指示された「空き缶」がなかったのである。
どうして、肝心の空き缶はなかったのか。警察をただ愚弄するための“茶番劇”だったのか? しかし、犯人側は今回、手の込んだ指定場所を何カ所も設定するなど、本気で1億円を奪おうとしていたのではないか? いろいろな疑問が湧くが、真相は不明だ。
ただ言えることは、連絡不足や府警と県警の“縄張り争い”みたいなことで、絶好の機会だったのに犯人を取り逃がしたという事実だ。特に滋賀県警のパトカーが、近くの県道にいた不審なライトバンを取り逃がしたことは大きなミスだった。そのライトバンから、あとで無線の傍受機が発見されたのだ。
午後10時20分、警察は捜査の打ち切りを発表した。
「な~んだ、大山(たいざん)鳴動して、ネズミ一匹も出なかったのか」
「900人以上も捜査員をつぎ込んだというのに、これじゃ警察のメンツも丸つぶれだな」
箕輪や山村が呆れたように言う。緊張感がほぐれて、報道局内は気が抜けた雰囲気になった。山村がOHSAKAテレビと盛んに連絡を取っている。
啓太もすることがないので、自分の政経デスクに戻った。警察の前代未聞の捜査は明らかに失敗した。しかし、グリコ・森永事件は“劇場型犯罪”だから、余計に失敗が目立ったのではないか・・・
東京でも、過去に大きな未解決事件があった。特に16年前(1968年)に府中市で起きた「3億円強奪事件」は、犯人の遺留品が山ほどあったというのに、とうとう未解決で終わったのだ。
啓太はその頃、警視庁クラブの記者だったから、さんざん取材したのに“お宮入り(迷宮入り)”した事件のことをよく覚えている。犯罪の解決には、どうしても“運不運”があるのだろう。そう思うと、かえって啓太は警察に同情する気分になった。
そんなことを思っていると、目の前の電話が鳴った。彼はわれに返ったように受話器を取る。
「もしもし、野党クラブの根岸です」「おお、夜回りはどうだった?」
啓太は通常の仕事に戻った。(終り)
<あとがき>
前述の不審なライトバンの男を取り逃がした警察官は、責任を取って後に辞職したという。 また、翌年の8月、滋賀県警の山本本部長は退職の日に、公舎の庭で焼身自殺を遂げた。遺書はなかったが、捜査の失態の責任を取ったものと思われる。合掌