震災や原発事故による避難のために亡くなられた震災関連死の記事が新聞に載っていた。
1都9県で「震災関連死」と認定された方は2303人でそのうち南相馬市は336人と最も多くの人が亡くなっている。
全体の約15%に達している。なぜこんなに多くの方が震災後に亡くなったのだろう。
南相馬市には、南相馬市立総合病院をはじめ大きな病院が6病院ありました。そのうち「警戒区域」に指定されたのが「市立小高病院」。「屋内退避区域」に指定されたのが、「市立総合病院」「大町病院」「渡辺病院」「小野田病院」。それぞれに重傷患者を多く抱えていましたが、原発事故の影響で避難を余儀なくされました。
「市立総合病院」では、「災害拠点病院」として3.11の地震発生直後から被災した患者の救急搬送が続き、病院のロビーも集中治療室として使用し重傷患者の対応に追われたそうです。しかし、12日の午後に原発1号機が水素爆発を起こし、避難指示が20kmに拡大したことにより病院内には動揺が広がり、次第に孤立を深めて行ったそうです。13日は20km内に取り残された「市立小高病院」の患者を搬送し受け入れます。患者の対応に苦労したことでしょう。狭いところに多くの患者を受け入れたことにより患者は非常につらい思いをしたことでしょうね。それでも必死に「災害拠点病院」としての機能は保ってきたそうです。
それが一変したのが14日の原発3号機の爆発でした。院長は全職員を招集し「これからは、自分と一緒に残ってもいい。避難したいと思う人は避難してください」と言ったそうです。その独自の判断がのちに問題を起こすようになるのですが、その状況下では非難できないかもしれません。翌日までに職員は3分の1に減ったそうです。
15日には20kmから30kmに「屋内退避指示」が出され、食料や医療品、ガソリン等の物資が途絶えました。物資不足が深刻化し多くの患者も避難を余儀なくされてしまいました。自宅療養の重傷患者も自家用車に乗せられて遠く離れた避難所へ移動を余儀なくされています。寝たきり老人にとって寒い避難所での生活は死を覚悟する環境だったのかもしれません。
その後の避難生活でのストレスや放射能汚染による農業への大打撃、将来への不安などで自ら命を絶たれた方も多くいます。
避難所等でのストレス・病状の悪化 45.3%
病院の機能停止による初期治療の遅れ・既往症の増悪 31.5%
高齢のための避難による衰弱 17.8%
交通事情等による初期治療の遅れ 1.4%
その他 4.0%
南相馬市の地震と津波の被災で亡くなられた方は636人です。その後に亡くなられた336人と合わせて972人になってしまいました。