Moo_ooMさん の記事を読んで、なにか、ひっかかる憂生が居ます。
なんじゃろうと?自分でもおもうわけで。。。
このブログのアドレス・・創作談義からなまえをつけたのですが、
実は捜索談義ではないかいな・・・と。
で、まあ、おもうままにかんがえてみようと(わからん、日本語ですな)。
憂生は歴史を齧ってみるのなかで、
日本語は音と意味を同時にあらわすということがあるとかいたことがあります。
羅馬船(かがみふね)のこともそうですが、
万葉集の刺す竹という枕言葉も
直訴の手段の文を竹に刺して掲げるという実際の意味合いと
刺す竹の大宮人とかかるように、
刺す竹で文を渡すような高貴な方という意味と苦言を呈したい方という意味が絡まった上に
万葉集の原文をみると、
刺す竹の・・は
「佐須太気能」
と書かれています。
単に音を当てはめただけの漢字だと想われているようですが
音のもつ意味を考えていきます。
佐・・さ・・精神・神
須・・す・・清める・導く
太・・た・・他・影響力
気・・け・・考え・心
能・・の・・働き・動き
ここまで、書けばつながるでしょ?
人の精神。生き方を教えたり、導いたりできるほどの、考えがある大宮人
と、いうことになり、そんな立派な方であるのに関らず
苦言を呈したくなるようなことをやっている。
つまり、刺す竹の・・は苦言文書ってことになりますか。
まあ、こんなふうに
「刺す竹の」の「音」が「「佐須太気能」という意味合いになっているわけであり、
字の持つ意味と音とのふたつでの、複合的なものが日本の文字にはある。
と、考えるわけです。
ですから・・Moo_ooMさん のいう「ナマステ」の意味合いと
音の意味。
な・・汝
む・・無
と、言う意味合いがとれるのです。
南無八幡大菩薩・・にしろ、
汝(私)は無の状態です。(同行二人という考え方もあてはまるので、汝=貴方・私)
無の状態だから八幡大菩薩がおりてこれます。
おはいりください(加護してください)
って、ことでもあり、転じて難無くしてください。
なんだけど、これが、言葉を文字にかえると
字面が悪い。
難を菩薩におしつけるような・・。
南という字に変える。わけですが、
南という字にかえるのには、
ひとつに、南の天?の座にそういう存在が居る。
だから、南に菩薩がいたら、助けにならない。
南にはいない。そこにはいない。
ここにオワス・・ここにいらっしゃる。
こういう考えが南無という文字になってきている。
ここらへんの日本的精神が解けないと
南が無いとはどういうこっちゃ?
って、なってしまうわけで・・・。
さらにすすめると、
一番、良くないのは南無妙法蓮華教と聞きます。
南無妙法
と、いうのは、
己を無にしていけば、法が働くという意味合いでしょう。
それに、教がはいると、
いわゆる念仏?を唱えたり、おかげ信仰をあらわしてしまう。
ようは、南無。
おろがむ。
(己が無)
ここが、肝心なわけです。
南無になれば、あとのことはついてくる。
簡単などうりですがああああああ。
無になるつ~~ことが
一番、むつかしい・・
Moo_ooMさんの記事をもとに、勝手に記事をあげました。ご容赦。
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