絹が帳場の向こうの賄場から徳利を盆に並べて、持ってきている。
「絹。わしらのところか?」
徳利のいく場所を訪ねると
「おまちかねでしょ?」
と、先のことなぞ忘れたように明るい。
数馬は絹の手から盆をとる。
「これは、わしが持っていってやるに、絹に頼みがある。使いを一つ、頼まれてくれぬか?」
「よござんすけど・・・」
何か、うろんげな事を言い出されぬかと絹の言葉尻は歯切れが悪い。
「この先の有馬殿の宿に何か見繕って酒と一緒に届けてくれぬか?」
「は?・・え、ええ」
「どうした?」
快諾できようはずの使いにすんなり快い返事がもらえぬとなれば数馬もいぶかしい。
「いえ。有馬さまがこられておらぬのは、どこぞに出かけてらっしゃるのかとおもっておりましたので」
慌てて口裏を還すと
「ああ。そういうことか」
絹にはどこかにでかけおらぬと思った有馬が実は一人で宿にいるという事が不思議だったのだろう。
「じつはの・・・」
数馬は絹の顔を窺いながら
「絹だから話すが、有馬殿の周りに最近不穏な者がうろついておるのだ」
「だから、だいじをとって、一人でいらせられるのですか?そのほうがあぶないのでは?」
間者にすれば結構なことである。
「そうしておいて、ここしばらくでねずみをおびきよせようとな・・」
「そうですか。わかりました」
酒の肴は冷たい豆腐がよかろう。ここの小えびの甘露煮も有馬は好きだ、と。数馬は付け足した。
「はい」
返事を返しながら絹はおもう。
酒を持っていったところで、今頃は才蔵の手にかかった有馬を知るだけである。
才蔵の首尾を早くも自分が確かめに行くことになる。
その運命の手際よさに絹は微かにほくそえんだ。
「では」
絹は賄いに戻り数馬の注文をこなすことにした。
すると、背を向けた絹に数馬がいった。
「ああ。そうじゃ。有馬殿は今日よりやどをかえておる・・・」
「え?」
すると・・・才蔵の首尾はどうなる?
「どうも、むこうもせいておるようでな。ほれ、さっき、絹に手水を借りに来ていた男がおったろう?・・・・あれも、間者じゃ」
「え?」
数馬はしっていた?
「何、女子供を狙ってはこぬ。だが、絹。気を付けおれ。我らの情報を得たいがため、お前にちかよってくるともかぎらぬ」
絹の内心はおだやかでない。
才蔵の正体を知っている数馬が絹の事はいつ何時疑いだすかわからない。が、とにかくは今は絹の事は露一つ感づいてもいない。
そこだけ安心すると才蔵の事が気になりだした。有馬のいない宿にもぐりこんだ才蔵が有馬の不在を知って遁走しておればよいがまだ、有馬の隙を窺って宿にはりついているのかもしれない。とにかくは才臓に有馬の宿を教えなおし網をかけ始めている事を告げなければいけない。と、なると、絹が外に使いに出れる事も好都合であった。
「のう。絹。本にきをつけおれよ」
絹をいとう数馬の言葉は心からやさしい。
「わしとまだ、成しておらぬうちに絹になにかあっては、わしもくやみきれん」
又も、不埒な言葉に代わるのは数馬の照れなのである。
が、そんな男心に明るい絹でない。
「成した後でなら、絹がどうなってもようございますか?それだけのお心がよう、本意だと・・。その口ねじまがってしまえばよい!」
途端に、数馬はおおきなこえでわらいだした。
「絹は本に、まだ、男をしらぬな・・」
誰の手にも落ちていない絹にホッとするかのように数馬が呟き、絹の腰を叩くと促した。
「まあ、いってくれ。有馬もおまえをあいたいといっておった・・・」
「わたしに?・・」
生真面目な男で無口な部類になる。およそ、女なぞに興味はない。
その有馬が絹にあいたいなぞというかと疑問であるが、それを又、何故か数馬がくちにだすか?
「いってみれば、わかろう・・・」
腑に落ちない言葉が残ったが、とにかく才蔵が気になる。
絹は再び賄いに足を向けた。
絹の後ろから数馬がひとくさり大きな声でいいはなった。
「絹。わしが絹と一度成せば後はともにいきてゆくしかのうなる」
廊下の向こうから絹の嘲りが聞こえた。
「ご冗談を。貴方となぞなしたれば絹はその場で舌を噛みます」
「そうか」
小さくこたえて数馬は座敷にもどった。
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