風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

アントロポゾフィーを改めて掲げる意味について

2017-03-14 13:33:02 | 雑感
「四大公害病」についての本を読んでいて、原田正純医師の名前が出てきたところで、心が激しく揺さぶられ、アントロポゾフィーのことを思った。ぼくは、2年ほど前に「一時期、アントロポゾフィーから距離を置くこと」を決めた。しかし、それには別の見方も可能なのではないかと思えてきた。

ぼくは、自分がアントロポゾフィーとして認識していることと、多くの人たちが「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」の名のもとに行なっていることとの間に乖離を感じている。

具体的に言えば、ぼくにとってのアントロポゾフィーから見れば、STAP細胞の発見は生命の本質に迫るものであり、それがあそこまでの騒動と嘲笑にまで発展した背景には、現代の科学が抱える問題が如実に現れていた。

日本国憲法が成立した事情は、日本民族の運命及びアイデンティティと深く関わっており、憲法9条はまさに日本民族が持つ使命と直結している。つまり、ぼくにとってアントロポゾフィーを真に理解した人は、「護憲派」にしかなりようがない。

原発問題は、一方では「物質の本質」及びシュタイナーの言う「キリスト問題」と深く関連しており、ヒロシマ・ナガサキを経てフクシマにいたる運命の中で、日本人が個人として、また民族として人類の中で見つめるべき課題を示している。そこを考え抜くならば、アントロポゾフィーが原発推進を容認することはありえない。

以上は、これまでブログや講演などで再三語ってきたことではあるが、そこには常に自分の発言が「素朴にアントロポゾフィー/シュタイナーに関心を持つ人々」に迷惑をかけるのではないかという不安があった。
要するに、ぼくの考えるアントロポゾフィーは政治的であり、今日の科学のありように対しても批判的な発言を行うものなのだ。
その一方で、シュタイナー幼稚園やシュタイナー学校、あるいはバイオダイナミック農業やアントロポゾフィー医学、その他の領域でアントロポゾフィーに熱心に取り組んでいる人たちがいる。彼らにとって社会から認知されることは重要なことであり、それはぼくも共感し、理解しているところだ。そこにぼくが政治的な発言を行えば、彼らの活動の迷惑になるのではないかという思いがあった。
彼らにしてみれば、自分たちが求めているのは純粋に良い教育や医療であり、政治問題に関与するつもりがないということもあるだろう。そこにぼくがアントロポゾフィーに関わる一人として、政権批判などをすれば、せっかく積み上げてきたものが覆されるかもしれない。それをぼく自身が恐れていたのである。

けれど、そこに蓋をして、あるいはほのめかすような言い方に留めてアントロポゾフィーを語ることは、ぼくにとっては自分が理解したアントロポゾフィーへの不義を意味する。中途半端にシュタイナーやアントロポゾフィーを掲げながら、本当の問題を指摘しないならば、それはアントロポゾフィーを利用することでしかないと思った。自分のあり方がアントロポゾフィーを弱めているように思えてならなかったし、そのことが自分自身をも弱めているように感じていた。だから、アントロポゾフィーから距離をおき、あくまでも一人の個人として発言したり仕事をしたりすることで、自分自身のあり方にも、アントロポゾフィーとの関わりにも、新しい展開が望めるのではないかと思った。

けれど、先ほど、このように思ったのだ。ぼくの考え方、感じ方はむしろアントロポゾフィーを狭めていたのではないか。アントロポゾフィーを科学そのもののように広く深いものとして捉えるならば、そこにいろいろな考え方があってよいし、個々人が自分の考えるアントロポゾフィーを主張し、そこで議論が起こってもよいはずだ。

例えば、科学の世界にもいわゆる「御用学者」がいる。
客観的とされる研究者や医師たちが、例えば水俣病や原発事故の際に、国家や企業の側に立ち、本来の科学性を否定するような発言や行為をすることがある。彼らは科学の名のもとに偏向した発表をし、それに対して被害者の側に立つ医師や研究者もまた、科学の名のもとに真実を明らかにしようとする。御用学者がいるからと言って、真実を求める科学者が「科学」を離れることはないだろう。むしろ、「これこそが科学だ」という論争を挑むはずである。だとすれば、ぼく自身もまた自分が真実と思うアントロポゾフィーを、アントロポゾフィーという名のもとに語ってよいのではないか、むしろ語るべきなのではないかと思った。それは、他の人々が彼らのアントロポゾフィーを語ることを妨げることにはならないだろう。

ぼくが思うのは、シュタイナーの「アントロポゾフィーは《閉じた心》を許容することはできません」という言葉である。
アントロポゾフィーはひたすら開かれた人間の知性であるけれども、それが許容できないものもあるのだ。それが「閉じた心」である。したがって、他の民族を否定したり、他者を踏みにじるような政策、あるいは偏った科学、すなわち真実に心を閉ざすような態度を許容できるはずもない。
シュタイナーは、「本来なら、アントロポゾフィーという名称でさえ、毎週のように変えたいくらいだ」と言っていた。
だから、ぼくも自分の立場を「おんなこどもの知性」と呼んで、アントロポゾフィーという呼称から離れてよいのではないかと思った。けれど、シュタイナーが「アントロポゾフィー」という名前を使い続けた理由があったはずだ。
彼自身は「名前を始終変えたりすれば混乱するから」と言ったのだが、今、ぼくが思うのは、同じ名前を一貫して使い続けることで、一つの思想の「責任」と「進化」が可能になるということだ。

アントロポゾフィーを名乗ることは、自分だけが正しいとか、絶対に間違えないということではない。個人であれば、自分が過去に行った行為に対して、それが間違いあったと気づいた時点で謝罪したり訂正したりして、認識を改め、先へ進むことができる。アントロポゾフィーの名のもとに発言したり、行為したりすることは、アントロポゾフィーに思いを向ける人々と運命を共有することを意味する。そのことをぼくはずっと自覚してきたつもりである。けれど、逆に、ぼくの発言や行為が、そのつもりのない人々を巻き込むことをぼくは恐れた。

やはり、恐れだったのだと思う。ぼくが乗り越えるべきはこの恐れなのだ。
ぼくはいま、自分の認識を次のように整理しておきたい。

・アントロポゾフィーとは、一人ひとりの「個」を基盤に、多様な人々が性、文化、人種、生育環境、思想的芸術的傾向など、あらゆる違いを突き抜けて対話を試みることで、徐々に形成されていく人類共通の知性の、暫定的な一つの名前である。
・その対話は、一人ひとりが自分の思考、感情、意志に対して責任を持ち、他者の思考、感情、意志を尊重する中で可能になり、その過程での相互の承認、謝罪と間違いの訂正、和解、絶えざる認識への努力によって、アントロポゾフィーは人類の知性として進化していくことができる。
・すべての個人は、生まれながらにして人類の知性の形成者の一人であり、そのことを自覚した人は自分で自分自身を「アントロポゾフィーの担い手」(アントロポゾーフ/アントロポゾフィスト/人智学徒など)と呼ぶことができる。

この意味において、ぼくはふたたび自分自身をアントロポゾフィーの担い手の一人と見なしたいと思う。