研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

ボストンの密貿易業者と海賊

2007-12-07 20:34:55 | Weblog
仕事の関係で時々ボストンに行く。その時、マサチューセッツのあちこちを歩き回り、その過程で墓地をずいぶん見て歩く。そのたびに、ボストンの墓石に髑髏の絵が刻まれているのがいつも不思議だった。ジョン・ハンコックやら、サミュエル・アダムズのような有名人の墓も髑髏のデザイン。別にこれが西欧社会の伝統ではないし、アメリカの伝統でもない。それでハーヴァードの某偉い先生に、どういうことか尋ねたが関心がないようだった。

心のどこかで「何故なんだろう」と漠然と思いながら何年もたったある日のこと。漂流民の研究をしているアメリカ人留学生と雑談していた折この話をした。「あれだね、アングロ・サクソンってのは、所詮蛮族だね。墓石に骸骨の絵を刻んでいるんだよ。あの感覚は、どうしたもんだろう」と言うと、彼は少し考えて、「海賊の影響じゃないですか」と言った。

私は恥ずかしい人間ですね。予見というのは恐ろしいもので、共和主義だとか、市民宗教だとか、そんなことばかりやっていたら、簡単なことが見えなかったりする。そもそも1773年のボストン茶会事件の首謀者たちは密貿易業者だった。密貿易といえばきこえが悪いが、ボストン茶会事件まで100年もやってきたことなのだから、もはや市民の正業だった。

イングランドは、北アメリカ植民地の経営が軌道に乗り始めるとすぐに、いくつもの航海法を制定した。航海法はもともとオランダ商人をイングランドとその植民地の間の中継貿易から締め出すために、クロムウェルのころから作られ始めた。その中でも北アメリカ植民地人の密貿易を取り締まった航海法を簡単に要約すると、①北アメリカ植民地からの輸出品はイングランドの港を経由すること、②北アメリカ植民地が輸入するイギリス以外の産物は、すべてイングランド船舶から買うこと、③以上の取り締まりは、北国務省出先機関(時期によって商務院、アメリカ革命の直前は植民地省)の海事裁判所で行い、イギリス海軍がこれを監督する。

一見すると植民地にとっては差別的な貿易規制だが彼らは喜んで従っていた。この法律のおかげで、イギリス海軍の保護を無料で受けられるからである。当時の大西洋・カリブ海は非常に危険な海域だった。その上この法律は、本当に守る必要はなかった。第一大蔵卿ウォルポール政権は、北アメリカ植民地のことなどまるで関心がなかったので(植民地の業者から賄賂はちゃんと届いていたし、受け取ってもいたが)、彼らの密貿易を放置していた。イギリス海軍としても、あの広い海域でなされる密貿易を取り締まるには、よほどの決意がなければならず、中央政府が本腰を入れていない事柄は必然的に緩慢になる。こうして、いわゆる「有益なる怠慢」と呼ばれる自由貿易が盛んになり、北アメリカ植民地は栄えてゆく。アメリカ革命は、イングランドがこの怠慢を改め、航海法の文言通りの正論を言い始めたことから始まる。

アメリカ革命直前までに成立した北東部の名家はこの辺りまでに富の蓄積に成功した人々によって形成された。例えば、ジョン・ジェイ。マディソン、ハミルトンとともに『ザ・フェデラリスト』を執筆し、初代連邦裁判所首席判事となる彼の家系は、もともとフランスのユグノーだった。曽祖父の時代にパリでの弾圧を逃れイングランドに渡り、さらに祖父のアウグストゥス・ジェイの時代にジョージアからフィラデルフィアに移り住んだが上手く行かなかった。それでニュー・ヨークに移住するのだが、そこでオランダ商人フレデリック・フィリップスに見出され成功の道を歩む。以降、ジェイ一族は、オランダ系移民との姻戚関係を形成する。フィリップスは、奴隷貿易や海賊との取引で多大な富を蓄積した人物で、当然ジェイの祖父も相当に手を汚している。こうして名家となったジェイ家は、父親の代にニュー・ヨーク州議会のオランダ系議員の枠で政界に入り、ジョン・ジェイという「建国の父」の一人となる息子を輩出することになる。(ちなみにジョン・ジェイは、アレクザンダー・ハミルトン同様ニュー・ヨークの奴隷制廃止協会の幹部となるわけで、タバコ農園で富を築いた家系に生まれ嫌煙家となるゴア家の元副大統領と似ている)。「オランダ」、「奴隷貿易」、「海賊」と並んでいるわけで、完全に密貿易の典型である。ただ、ジェイ家の墓に髑髏があるかどうかは確かめていないので分からない。

そこでボストンと海賊である。ボストンというのは、気位の高い不愉快な土地なのだが、もちろんその地理的条件が示すとおり漁業が盛んである。そして調べてみると漁業の歴史は案外こじんまりとしていて、18世紀までは海賊業従事者がやたら目につくのである。例えば1900年代初頭のボストンの古い家では、屋根裏から海賊の夫をもつ女性の日記などが時々出てくることがあった。通常イメージされるようなピューリタンや共和主義というイングランドの政治的伝統とはずいぶん位相の違う人々も多い。それで、注意して観察してみると、どうやら農園経営者と貿易従事者では墓石のデザインが違っていて、貿易にたずさわらなかった人々の墓には髑髏のマークが無かった。例えば同じアダムズ一族でも、サミュエル・アダムズの墓には髑髏があったが、ジョン・アダムズには髑髏は無かった。この辺は、これ以上掘り下げてもあまり実のある話はないかもしれないと思うが、ボストン人の墓に髑髏がデザインされているものが多い理由はこの辺にあるのかもしれないと考えるようになった。