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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■孤独のワーグナー

2016年03月22日 | その他


今年も無事桜が咲いたそうで、春も近い。
先頃、ちょうどそんな桜の季節のネットニュースで、東大、京大、早稲田、慶応など日本を代表する大学の卒業式と入学式で、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタジンガー前奏曲」が演奏され続けてきたことがわかったそうだ。
記録が残っていない年代もあるが、少なくとも25年以上の恒例になっているということだった。きっとT君の入学式もそうだったに違いない。

で、何がニュースの柱かというと、ワーグナーの思想性にある、そうだ。
ワーグナーといえばヒトラーというイメージも付きまとうのも確かだが、それ以上に反ユダヤのテキストなども残されていて、そこがひっかかるらしい。つまり、そのワーグナーを日本の最高学府が記念すべき式典で違和感なく使われるのはいかがなものか、ということのようだ。
別にいいじゃん、とおもうけど、イスラエルではいまでもワーグナーは禁止だと聞く。はたしていまの日本、とくに学生たちがそれほど深刻に結びつけて考えることはしないとおもうが・・・。



ガムランだって、それを聴けば、いつでもバリにトランスポートできるように、ガラムを吸えば立ちどころに身体がバリを想い描くように、人間の記憶やイメージというのは音や匂いとは直結しやすい性質があるのも事実だろう。
耳は敏感だ。そもそも人間にとっては生まれて最初に発達する器官が「耳」だということもあるけれど、それくらい音楽というのは人々の感情や歴史と結びついた文化なんだと改めておもう。

そもそも日本のこれだってもともとは選曲にそんな思想性はなかっただろう。きっと明治の日本が西洋文化や音楽を仕入れてきたときの代表格がたまたまワーグナーだったのではないだろうか・・・、もちろん推測の域は出ないが、以来、日本のアカデミーは、それを取り入れてきたという程度のことではないだろうか。で、それが恒例となった。


で、この曲、実は僕もたまに聴く曲の一つだが、ま、ワーグナーの代表曲の一つだし、クラシック史に残る曲だろう。もちろん、レコード盤もCDも複数の演奏を持っている。
でもそれは、単に複数の旋律が交差しあうような優美で圧倒的な音楽的構成力と波のような音量の迫力だけでときどき聴きたくなる曲であって、ちょっとだけその世界観に浸りたいとおもったときに聴く程度だ。
申し訳ないがそれには特段思想的背景はない。

だいたいにしてワーグナーは、高校生の頃初めて自覚して聴いたくらいの奥手だった。
学生の頃も、初めてブーレーズの「指環」をTVで観たときは、当時だからわけもわからずという状態だったが、ともかく単純に「すげぇなぁ、この人」とおもったりもした程度。その後、「さまよえるオランダ人」や「ローエングリン」なども中継で観たりしていたくらい。
でもまあ、「楽劇」なんてのは、長大で高尚、若い貧乏学生が対象にするには少々大げさでご立派な感じだし、余程の趣味人じゃない限り、その世界は付き合えたものではない。

それに、たしかにヒトラーは大のワーグナー贔屓だったけれど、せっかくワーグナーのような才能や作品が、たかだかヒトラーのせいで歪められていいのかとおもっていたし、歴史や社会史的にいうなら、ルードヴィヒ二世と結びつけて話した方がよほど生産的(夢想的?退廃的?)だとおもうし、専門の人たちはどういうかわからないけど、音楽史的にいうなら、リストやブルックナーだけじゃなく、シェーンベルクや少々捻るならドビュッシーへの影響を考えるべきだろうとおもうけど・・・、つまり、ま、ワーグナー擁護の方だった。
ガムラン関係の音大出身者の人にはバカにされそうだけど、内緒で告白するなら、一度くらいは「バイロイト祭」にも行ってみたいものである・・・?

そういえばちょうど東京に住むようになった頃、コッポラの「地獄の黙示録」のなかでロバート・デュバル演じる将軍が、戦争なのに「ワルキューレの騎行」をかけながらヘリで飛行するシーンが迫力で、まねして車で高速走るときなんかはよく爆音でかけていたりもした。音源はシカゴ響、ショルティお得意の豪快な演奏だった。そういうときは「ニュルンベルクの~」もよくかかていた。
ついでもこういうときは僕らももちろんスピード違反状態だ。


早朝の海岸に、ワーグナーを爆音でかけたヘリが飛来する。
これは楽劇にも呼応するワンシーンだ。



一切の畏れや恐れというものを知らない大佐にとっては「朝かぐナパームの匂いは格別だ」そうだ。
単にサーフィンをしたいために、ナパーム攻撃をした。やっぱりベトナム戦争は歯車が狂っていた。



また、初めて一人暮らしした家の大家さんの息子さん(僕より10歳くらい上だった)が大のクラシックファンで、それはもう、ご多分にもれず、音響マニア。「オタク」というにはきちんとした紳士だったが、みなさんが想像する通り、暗い部屋に壁中レコード棚、いかにも高そうなオーディオで埋め尽くされている部屋だった。

当時は家賃をいつも手で持っていくという支払い方法だったので、月末には毎月おじゃまするという感じ。
でも行くと、いつも玄関先にその息子さんが出てきて(何の仕事してたんだろう?)、玄関脇にあるそのオーディオ部屋でいろんなレコードをかけてくれ、この作曲家のこの曲はここがいいとか、とくにこの年のこの演奏家の録音を超えるものがないとかいろいろ聞かされた挙げ句、最後はいつもワーグナーだった。

そういうとき、僕は「うんうん、はい」などといつも聞き役に徹していた。もちろん彼ほどの知識も好奇心もないということもあるけれど、悪いけど、乗られると面倒だとおもっていたりしたのだ。
でもたまにわずかな知っているエピソードなんかをチラッというと、もの凄く喜んで、うん、そう、知ってるそれ、そうなんだよね、とか言われて、また別のレコードになったりした。
そういうときはいつも、「しまった、やっぱり黙っとくんだった」と反省しきり。

で、「それでは来月もよろしくお願いします」といって辞去すようとすると、決まって言われるのが「今度ゆっくり遊びに来なよ」と慣用句のように言われるのがつねだった。たまに道端なんかでばったり会ったりするときも、それが口癖だった。「あ、はい、そのうち」とは応えるものの、悪いとはおもったが、その後一度も「ゆっくり」行くことはなかった。
なんで僕を誘うんだろう、単なる大家と店子の関係というだけなのに・・・とおもったが、そこにはおそらくきっと彼なりの事情があるのだ。
たぶんだけど、おそらく家も金も収入もある。けど、きっと友だちがいないのだ。だから、僕がたまの朝などにかけるクラシックをもれ聴いて、こいつなら話せそうだとおもったに違いない。

ついには、ある家賃を納めた帰り際、「あげるよ、これ」とか言われて、何枚かレコードをもらったことがある。
最後に「もう来月引っ越すので」と言って伺ったときは、「じゃ、これあげる」と言われて渡されたのが、カラヤン指揮ベルリンフィルのワーグナー「トリスタンとイゾルデ」全版だった。
円卓の騎士トリスタンと王妃イゾルデの悲恋の物語、よく言われるのは「愛の死」がテーマ、ワーグナーの最高傑作ともいわれている。
ただしこれ、実は書いた頃の本人の浮気の悲運をなぞったものである。もともとはお得意の古代叙事詩系がルーツなので、本来なら途中、「龍退治潭」が入っているべきといつか読んだことがある。
本当はそこが物語研究としては興味深いところだが、ワーグナーの恋愛劇には不用だったんだろう。


近年、映画にもなったが・・・もちろん観ていない。

ともかくまあ、買ったらいくらすんの、これ?って感じの分厚い箱付きのレコードだった。ライナーも本のようだ。こっちは万年の金欠でお返しもできないし、それはあまりに申し訳ないので一度は辞退したが、どうしてももらってほしそうにされていたので、思案の挙げ句、うれしそうに作り笑いをしてもらうことにした。
内心、どうせなら絶対買わないだろう「ニーベルンクの指環」全編とか「パルジファル」とかにしてほしかったが・・・ま、「トリイゾ」がきっと彼なりの到達点だったのかもしれない。

そう、名作だし、「通」はうっとしするほど好きなのかもしれないが、ワーグナーのなかでは派手な作品ではない。というか、どっちかというと侘び寂び系の深遠でしっとりした悲劇の様相だ。染み入るように聴かないと一般人は入っていけない。
結局、何度かは聴いたが、あるときさらに深刻なる金欠状態になったとき、いっそそれを売ってしまおうかともおもったこともあったが、良心の呵責でおもい留まり、幸いいまでも我が家にある。



リヒャルト・ワーグナー、結局いい人だったかどうかはわからない(たぶんあまりいい人だった気はしないけど)。それに本来普通なら壮大で崇高で高邁な音楽論の話にすべきなんだろう。
だが僕の場合は、ワーグナーがどんなに歴史上の偉大な人であっても、世界の民族も国家のアカデミーにも大きな影響を与える重要な人物であったにしても、世界の誰も気にしないようなそんな些細なというか、「一人の孤独な彼」のことをいまでもつい想い出してしまうのだ。(は/218)


■5人目の・・・

2016年03月15日 | その他
ビートルズといえば、「5人目のビートルズ」という言い方がよくある。
たいがいは、初期メンバーでベース担当だった「スチュ」、つまり「スチュアート・サトクリフ」のことだったり、リンゴの前にドラマーをやっていた「ピート・ベスト」、または名マネージャーだった「ブライアン・エプスタイン」のことをいうことが多い。
ま、多かれ少なかれ、バンドというのはそうやっていろんな人が関わりあったりして歴史をつくっていくわけだけど。


ブランアン・エプスタイン。
この人がマネージャーに名乗り出なかったら、ビートルズはどうなっていたか・・・。
まだ社会的認知のなかった60年代にゲイであることを認め、センセーショナルな種もまいたこともあるが、最終的に解散に至ったのも、きっと彼がいなくなってしまったことも遠因しているだろう。



関係ないけれど、我が「Gender Tunjuk」も4台のグンデルに対し5人が通常メンバーだ(正式にいうなら休部メンバーも入れると6人だけど)。いつも入れ替わりながら演奏やクテンコンをこなしている。
我々の場合、5人というのは、誰かが参加できないときの5人ではなく、5人でGender Tunjukなのだ。そうやって歴史はつくられていく。とか言っちゃって。


で、ま、話を戻すと、もともと優秀な画家の卵であったスチュは、ステージでもほぼ後ろを向いている写真が多い。これはポールに言わせれば、もともとミュージシャンには向いてなく、写真を撮られたりすると緊張して演奏をトチる可能性があるので、そういうときは後ろを向いているようにと助言したそうだ。
だからだろうか、最初のハンブルグ巡業(計三回の巡業に行っている)の際にクラウス・フォアマンに紹介されたカメラマン志望の女学生「アストリッド・キルヒャー」と恋に落ちそのまま婚約。二度目の巡業の際には早々脱退してしまった。
その後、ビートルズがメジャーデビューする直前、脳出血で急逝しているので、彼はビートルズの栄光をみることはなかった。ま、そういう悲運なというか、繊細な性格と運命だったんだろう。

ちなみに、初期ビートルズの代名詞であるマッシュルームカットは、アストリッドがスチュのために編み出したヘアスタイルである。
アストリッドはその後もいろいろビートルズとは関わりをもち、写真もたくさん残している優秀なアーティストだった。


スチュとアストリッド。
スチュはルックスも抜群で、もともとジョンの大親友。ポールはよくヤキモチを焼いたそうだ。


一方、ピートはいまも健在でその後もミュージシャンとして活動していった。しかし当時は、いかんせん、プロデューサーのジョージ・マーティンにダメだしをくらったドラマーだった。つまり、ビートルズをデビューさせたいならドラマーを換えろ、というわけである。メンバーにとってはなかなか厳しい選択だったことだろう。
そんなこんなで名誉と億万長者を逃したピートはいまでも悔しさを秘めている。

そこで無理矢理頼まれて加わったのが「リンゴ・スター」だったのである。
当時のリンゴは、リヴァプール一のバンドの押しも押されぬドラマーで、ジョンと同じ年であったが、少し早く生まれていたのもあってか、ビートルズは下に見られていた。ま、しょうがないから手伝ってやるかという感じである。
でも手伝ってよかったね、その後のああいう体験は普通ならできるもんじゃない。


ピート・ベスト。運命の分かれ道、彼もよくよく可哀想な境遇だ。


そんな経緯もあって、ともかく「ビートルズの5人目」は何人もいる。どこから見るかで違うだろうし、それにその5人目にビートルズは支えられてきたのだともいえる。
けれど、こと音楽的なことをいうなら、やっぱり「5人目のビートルズ」といえば「ジョージ・マーティン」だといつもおもうのである。

もともとは彼はクラシック系の出身で、EMIでもクラシック系の冗談音楽なんかをプロデュースしていた人物だが、最初にビートルズを見いだし、世に送り出したのは彼である。彼がオーディションしてくれなかったら、ビートルズは世に出たかどうかもわからない。
最初はビートルズのために他の人が書いた楽曲も用意していたらしいが、オリジナルにこだわるメンバーの強い希望で二枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を倍のアップテンポにさせ最初のチャート1位を生み出したのも彼である。


ビートルズ現役中のジョージ・マーティン。
彼らとの共同作業は、毎日が新しいことずくめだったと回想していた。
いろんな意味で、変化の大きな時代だったんだろう。


その後も「レット・イット・ビー」以外のビートルズのほぼ全部の選曲とアレンジとプロデュースを携わっていった。何曲かは自身のピアノでレコーディングにも加わったから、そういう意味では演奏者でもある。
ジョンやポールにピアノを教えたのも、コード進行や録音効果を教えたのも、メンバーの生み出すイメージを音にしてあげていったのも彼である。
「イエスタデイ」でストリングスを入れたのも、ポールの要望に応えて「ペニー・レイン」でピッコロ・トランペットを招いたのも、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」でオケをアレンジしたのも彼なのである。
そういう彼がプロデューサー兼アレンジャーだったからかはわからないけど、ビートルズの曲は古くならない、といつもおもう。

他にも、ポールが独立してから、007シリーズ「リヴ・アンド・レット・ダイ」の音楽を依頼されたときも、さすがに007ということで、ちょっとビビったポールは最後には結局マーティンに頼った。で、生まれたのがあの曲である。
ちょうど中学生の頃、ポールが音楽をやったというので早速その映画を観に行ったが、これ、もしかしたらジョージ・マーティン?とふとおもったのを鮮明に覚えている。当たっていたから覚えているのかもしれないけど。
他にも挙げたら切りがない。


そのジョージ・マーティンも先週亡くなった。享年90歳だったそうだ。
ジョンのときもジョージのときもショックだったが、かみさんからこの一報を聞いたときは、平生を装いつつ内心かなりショックだった。
それでというわけではないが、この日曜は久々にビートルズ三昧。CDを聴いたりDVDを観たりした。
ついでにジョージ・ハリソンの持っていなかったCD「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」(DVD付)も買ってしまった。映像はなかなかいいですよ。

ポールはすごいな、とおもう頃もあったし、やっぱりジョンだろう、とおもうときもあったし、でもやっぱリンゴのドラムスこそビートルズには絶妙だ、というときもあったが、だんだん年齢を重ねていくと、やっぱり「ジョージは深い」ということに気がついていく。

そういう意味で、ビートルズはまだまだ聴ききれていないのかもしれない・・・この際、もう少し、きちんと聴いてみよう。
そして、その影にはいつも「5人目のビートルズ」、ジョージ・マーティンがいたことを忍んで。(は/217)


晩年のジョージ・マーティン。いまではすでにヒストリーだ。


■人間とシッポの話

2016年03月12日 | その他
話をシッポに戻そう。
尻尾(シッポ)というなら、人間もかつては「猿」だったわけだから、尻尾の痕跡はある。それが「尾骨」、つまり「尾骶骨」というやつだ。
たぶん、進化論的には、人間は樹上から降りて地面で暮らし、直立二足歩行を選択したことによって、自ら危ない場所は避けるようになり、たぶんそのせいで、不用になった尻尾は退化した、というかもしかしたら進化したんだろう。


キツネザル。Websiteより。

よく手足を事故等で失くした人が、失くしたはずの手足が痒くなるという話を聞いたことがあるとおもう。それは、脳にその場所の感覚的記憶が残っていて、なにかの拍子に脳のその部分が刺激を受けたりするとそう感じることがあるらしい。
だから人間も、猿だった頃の古い記憶が脳のどこかに残っているはずだ。

この際一度、あなたもアルジュナみたいに瞑想するとか意識を集中して脳の中のあなたの「尻尾」を感じてみてはどう?・・・きっと、太古の感覚が蘇ってくる人もいるのでは? 
ほ~ら、そう、意識を集中して・・・そうそう、だんだん感じてきた、感じてきた。ブルブル揺らしてみるとか、そう、それが「尻尾」です。


メディテーションイメージ。Websiteより。


チャクラの図。Websiteより。


そのとき、もしかしたらこんな風になっているかもしれない(Websiteより)。


もしかしたらこんなかも(Websiteより)。


う~ん、なら、もし人間に本当に尻尾が残っていたらどうなるんだろう・・・?
世界にはいろんな奇人もいて、かつて、なんと尻尾のある少年の写真を見たことがある。
だけど、それ、なかなかエグイ。普通はあまり見ない方がいいだろうとおもうので今回のアップはやめときます。そもそもその写真、ロシア発中国経由のネット情報だから、いまとなっては真実かどうかも随分怪しい。
どこかの首相なら「匿名だから、実際どうなのかということは私には確かめようがないのでございます」と言うところだろうか。

ともあれ、もし尻尾があったら、と考えると、いくつも疑問が沸き起こる。
下着はどうなるんだろう。ズボンから尻尾を出すのか尻尾袋付きのズボンとかになるんだろうか?
女性ならスカートはいたりして、もし尻尾を振ったらめくり上がるではないか。
「あら~、お皿は尻尾で持つものよ」とか「お着物の尻尾は帯から出すのが正しいのよ」とかいって、レディのマナーや仕草もいまとは変わるかもしれない。
そうやって、きっと「尻尾ファッション」とかいうジャンルが確立し、寒いときは手袋じゃなくて、革や毛糸の「尻尾袋」が大流行とか、月間「尻尾美」とか「尻尾健康生活」みたいな雑誌ができるだんろうな・・・。なかにはリングとかジャラジャラする感じのものを着けちゃう若者とか、宝石とか埋め込むお金持ちとか出てきそうだ。
で、きっと尻尾が男前や美人のたとえになったり、もしかしたら「尻尾すり合うも他生の縁」とか言って結ばれるカップルもいるかもしれない。

かとおもえば、裁判所とかでも、虚偽の真相を「尻尾判定」とかいっちゃって、自白と同等に採用されたりするんだろうか。
逆に、ヤクザなら、なにか不義理をやらかしたら「尻尾をツメる」とかやらされるかもしれない。2cmづつツメれば何度かできるというわけだ。いやいや失礼。ブラックジョークです。


クモザル。器用に尻尾を使っている。尻尾は応用可能だ。(Websiteより)。

でも、街にもいろんなことがあっていまとは様変わりだろうな。
「あ~ら、お宅の息子さん立派なオシッポねぇ。」「いえ、娘です。」みたいな会話とか、
逃げようとして警察に尻尾を掴まれるドロボーとか、
疑惑の政治家がついに尻尾を出しましたとかパフォーマンスやって謝罪するとか、
尻尾専用高級エステとか、
台湾式尻尾マッサージとか、
「いま、私も試していますが、これ、とっても気持ちよくて手軽なストレッチ、毎日でもできそうです。いまならもう一台サービスでお付けします」とか言って通販している「尻尾ぶら下がり健康器具」とか、
病院でも、耳鼻咽喉科の隣は「尻尾科」とか、
「新陰流尻尾武術道場」とか、「尻尾相占い」とか・・・。
まあいいけど、なんだか、尻尾だけで2兆円産業とかできそうだ。


全然関係ないけど、先日の香港で見つけた看板。客寄せサービスはいいけど、詰めが甘い。

でも、尻尾があったりすると、きっと感情がすぐ見えてしまい、ポーカーや麻雀はできないだろうな。
 「あ、テンパったな、お前。」
 「えっ、そんなことないよ、なんで?」
 「だって、ほら、尻尾立ってるゾ。」
 「ええっ、ウソ?・・・あれっ??」
みたいなことがおこるに違いない。

尻尾は口ほどに物を言う。
やっぱり、尻尾はない方がよさそうだ。(は/215)


あんまいいい手じゃないな・・・。

■シッポとバランサー

2016年03月10日 | その他
でも、たしかに猫やリスや猿など尻尾の大きい動物は、尻尾がバランサーの役割を果たしていて、樹木の上でも細い塀の上でも平気で動き回れる。
樹の上や細くて狭い場所の上は、弱肉強食の世界では比較的安全だから、それぞれの種の特性を活かしてそれぞれのテリトリーを分散していったのだろう。最初は地下などにもぐって暮らしていた哺乳類も地上に上がりながら、そうやって生き残ってきた。ある種の防衛本能というか知恵でもある。

だから彼らもすでに実際の感覚としては、我々が自転車に乗るとき無意識にバランスを取るように、きっと意識しなくても身体の一部でバランスがとれるんだね。だらか素早い動きもできる。
でもそうだからといって、尻尾だけがバランスをとるわけではないだろう。我々人間だって尻尾はないけど、ある程度のバランス感覚がしっかりしていてそれを鍛えれば、平均台の上だって平気で回転できたりするのだ(僕には絶対無理だけど)。
だから、猫だって、「オレオ」のように尻尾がなければないなりに、バランスの取り方を身体で覚えるに違いない。運良く持って生まれた感覚がよければ普通に塀の上を歩ける猫にもなれるだろう。


でももし、我々人間がもっと強力な行為をしようとおもったら、もっと威力のあるバランサーが必要になるのは確か。
たとえば、サーカスなんかでもやっている高所の綱渡り(誰がそんなものをしたいんだろうとおもうけど)。
先頃「ザ・ウォーク」という映画があったけど、あれは実話で、フランスのフィリップ・プティという大道芸人が74年に成し遂げた当時世界一高いビルだったNYのワールド・トレード・センターの二つのタワーの間を綱渡りするという無謀な行為をドラマ化したものである。その必須アイテムこそこのバランサーなのだ。まあ、ヤジロベーの原理もある種これだ。
ちなみに、プティといってもインドネシア語ではありませんのであしからず。
プティは、それ以前にも、ノートルダム寺院の塔の間やシドニーのハーバーブリッジの踏破にも成功していて、何かと世界でも話題の奇人だった。覚えている人もいるかもしれない。


映画「ザ・ウォーク」より。最近の映像技術はすごい。


フィリップ・プティの実写。地上440m、どこかおかしくないか?


ま、世界にはそうやって超人的な身体技巧を発揮する人がいて、たとえば、先頃も話題になったスパイダーマンの異名をとるアラン・ロベールというフランス人は(やっぱりフランス人だけど)、素手で世界中の高層ビルを登ることで有名だ。
例の「台北101」もロッククライミングで登頂している。これもわりと最近のことなので、覚えている人も多いだろう。


ザ・トーチ・ドーハを登るアラン・ロベール。どこかおかしくないか?

で、プティもロベールも、ある意味で違法行為をするわけだから、最終的にはゲリラ的にそれを実行して、成功しても結局はすぐに逮捕されるという宿命だ。
身体芸術もここまでくると、いろんな意味で人知や常識を超えているとしかいいようがない。
ま、高所恐怖症のわたしには、関係ない話だけど・・・。

もし人間にも尻尾があれば、プティのような綱渡りも、たしかに棒がなくてもできるのかもね。
だけど、尻尾があると、こういう特殊なことを考える人とか、一人コテカンとか考えちゃう人にとってはいいけど、いろいろ考えると、普通の人の日常生活的にはむしろ邪魔だろうな。人類の選択は正しかった。
やっぱり、尻尾はない方がよさそうだ。(は/213)


■だいせんじがけだらなよさ

2016年03月02日 | その他
昨日、我がTunjuk関係者のお父さんが亡くなったと連絡を受けた。
もう高齢だから十分長生きとはおもうが、親族の痛みはわかるものではない。
僕も数年前に義父を亡くしたことがある。かみさんはずっと終始気丈にしていたが、内心は計り知れない。あえて訊いたこともない。訊いたら訊いたできっと押さえていたものがどっと涌き上がって泣き出していたに違いない。そこはお互いの暗黙の理解というやつだ。人生いいこともそうじゃないこともたくさんある。寄り添って生きていくとはきっとそういうものなのだ。

情けないことに、こういうときにはかける言葉もない。
ただ、いつもこういうときに思い出すのは、于武陵の五言絶句「勧酒」とその和訳である。中学生の頃、祖母を亡くしたときに覚えたせいか、それ以来いつも思い出してしまうのだ。
私は実は子供の頃は祖母に育てられたのだ。だからそのせいか、妙に昔じみた価値観を払拭するのに随分時間がかかった気がする。いいようなそうでもないような。それも人生だ。
でも、祖母の死は、初めての親族のそれだった。もう動かなくなった祖母の頭を祖父がずっと押さえていたのを記憶している。いまからおもえば、そのとき祖父は何を考えていたんだろう・・・と、いまでもときどき思い出す。細い身体だった。

「勧酒」とは、こういう詩だ。

  勧君金屈巵   君に勧む 金屈卮(きんくっし)
  満酌不須辞   満酌(まんしゃく) 辞するを須(もち)いず
  花発多風雨   花発(はなひら)けば 風雨多し
  人生足別離   人生別離足る(じんせいべつりたる)

一般的な和訳はこうだ。

  君に この金色の大きな杯を勧めよう
  なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ
  花が咲くと雨が降ったり風が吹いたりするものだ
  人生に別離はつきものなのだ

それを、井伏鱒二は、こう和訳した。

  コノサカヅキヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ



井伏鱒二。福山文学館HPより。


寺山修司は、不自然なほどこれに反応していて、こういう詩を書いた。

  さよならだけが 人生ならば
  また来る春は 何だろう
  はるかなはるかな 地の果てに
  咲いている 野の百合 何だろう

  さよならだけが 人生ならば
  めぐり会う日は 何だろう
  やさしいやさしい 夕焼と
  ふたりの愛は 何だろう

  さよならだけが 人生ならば
  建てた我が家 なんだろう
  さみしいさみしい 平原に
  ともす灯りは 何だろう

  さよならだけが 人生ならば
  人生なんか いりません

でも、その後、あまり知られていないが、寺山はこんな詩も残している。
きっと、内心は本当は井伏に共感し、心酔し、どうしてもそれを超えられない詩人としての募る想いがあったに違いない、と、いまではおもう。
言葉は単に言葉だけれど、詩人や歌人が人生をかけたのもその言葉なのだ。何もなくても、きっとおもいは伝わるはずだ。

  さみしくなると言ってみる
  ひとりぼっちのおまじない
  わかれた人の思い出を
  わすれるためのおまじない
  だいせんじがけだらなよさ
  だいせんじがけだらなよさ

  さかさに読むとあの人が
  おしえてくれた歌になる
  さよならだけがじんせいだ
  さよならだけがじんせいだ


ご冥福をお祈りいたします。(は/211)


■端末の顛末

2016年01月18日 | その他
昨年、スマホをiphoneに変えたせいで、ケータイ環境はすこぶる調子がいい。
ダランも迷ってないで、早く替えたら?




一般に、コンピュータのことをよくPCと呼ぶけれど、これは正確にはパーソナル・コンピュータの略だから、いま我々が使っているような個人ユースのコンピュータは全部PCだ。
いまでこそ常識になっているが、実は、プロダクト史上では、こういうパーソナルユースのコンピュータの最初はアラン・ケイが1968年にその概念を提唱したことに起因していることになっている。ちょうど、カルチェラタンの5月革命や日本の学生デモが勃発した年のことだ。世界が揺れていた年というのもなんだか奇遇だけど、ま、その後の高度情報化社会への過渡期ということだろうか。


アラン・ケイ

現在に通じるコンピュータは、もともと戦争時の弾道計算のために生まれたわけだから、当時はとても高価で企業や団体くらいしか所有できるものではなかった。しかも、複数で共有するもの、というのが常識だった。だから、個人で使用するという発想になかったのである。
そこに時代の脈ありといち早く乗り出したのが、スティーブ・ジョブズだったのだ。
彼が学生時代の1976年に自宅ガレージで時代を画するコンピュータ「アップルII」を作り上げたのはあまりにも有名だ。最初は数名の友人たちの手作りだった。


初代アップルII


スティーヴ・ジョブズ

アップル社を立ち上げてから、最初の重要な研究員となったのが、アラン・ケイでもあった。一時アップルを去ったジョブズにCGアニメーションの「ピクサー」を紹介したのも彼だったという。ピクサーからはハリウッドの名作アニメが次々と生まれていったね。
ということは、ジョブズもすごいけれど、ケイがいなければ、いまのアップルもピクサーも生まれたかどうかわからないということなのだ。

ちょうど、ビートルズのレーベルもアップルだが、ジョブズ自身は、大のビートルズ嫌いでは有名で、だからシンボルマークは、かじってしまったリンゴを虹色のポップなものにしたらしい。
キリスト教圏の人たちは、どうしてもアップルが原罪(蛇が食べさせた知恵の実)と関わっていてので、物事の新しいスタートのイメージというのは、アップルに回帰するんだろうね。



そういえばニューヨークのことも「ビッグアップル」っていうけど、何か新しいこととか未来の夢が始まる場所をイメージしているのかもしれない。
ちなみに、余談だけれど、アメリカ人は、ニューヨークの「ビッグアップル」に対して、ハリウッドのことを「ビッグニップル」というそうだ。語呂合わせだけど、言い得てる、かも・・・失礼しました。


ノーコメント。


ともあれ、1980年、そのアップルIIの成功をみて、最大手のIBMはPCにも可能性があると踏んで、いまのコンピュータ市場が出来上がった。
そこにOS(オペレーティング・システム)、つまり、PCを動かすコンピュータの基本的基盤ソフト(これがなければコンピュータは動かない)を売り込んだのが、ビル・ゲイツである。ハーバード大のぼんぼんだったゲイツは、学生時代にマイクロソフトを創立し、その後、時代の寵児、世界の億万長者になっていった。


ビル・ゲイツ

そのゲイツが最初につくったOSがMS-DOSである。日本では、Windows95が出るまでは、もっともポピュラーなOSだったろう。学生の頃はバイトに行く先においてあったパソコンはほぼこれだった。
実は、ゲイツは、それ以前にWindows1.0を開発していたが、これはジョブズのつくったMacOSのパクリで、パクリだからこそ精度も低く、設計思想もちぐはぐなものだった。
でも、そちらが先に発表されたため、ジョブズは猛烈に激怒したといわれている。実際、この件は後に和解はしたけれど長らく訴訟にもなった。

それほど、Macの設計思想とインターフェイスは画期的だったのだ。
ジョブズはときたま、コンピュータに「ファイル」と「ごみ箱」をつくった男ともいわれたりするけれど、つまり、初めての人でも簡単に使えるようなビジュアライズされたインターフェイスをつくり上げていたわけである。キーボードとモニターを初めて分離したのも、使い勝手のよいマウスをつくってつなげたのも彼だ。
以来、今日に至るまで、ゲイツとジョブズの産み出したインターフェイスやプロダクトの設計やデザイン思想は、ことごとく相違している。要するに、ゲイツは徹底してセンスが悪いのだ。だけれども、センスは関係ないビジネスマンにはマイクロソフトはよく売れた。
いわゆるWindows派とMac派の対立はここに端を発している。

そういうこともあって、80年代当時、まだ実用性の高いアプリケーションが少なかったせいもあって、Windows派の人たちはビジネスマンで、Macなんて遊び道具だ、くらいに言われ続けていた。ちなみに、僕はこの頃からMacを使っているけど。
だから、アップルがMacintoshを出したときも、市場はあまり延びず、社内対立もあって、ジョブズ自身がアップルを去らなければならなくなってしまった。
そこに資本援助をしたのが、先に大成功を納めていたゲイツだったのだ。なんだか、ジェフリー・アーチャーの「ケインとアベル」のようなお話だね。
以来、Macには、Microsoftのアプリケーションが多数入ることになってしまった。Officeなどがそうだが、Mac派としては、これらのソフトはやっぱり違うというか使いにくくてしょうがない。自分までセンス悪くなりそうだ。


ジョブズとゲイツ

だけれど、ゲイツの名誉のために一言だけ言っておくと、たぶん、人間的には、ジョブズよりゲイツの方がまともな人だった気がする。紳士的だった。ジョブズは、ワンマンで妥協がないのはいいとして、やっぱり少し破天荒だったのだ。
後に和解してからのことだが、スーツ姿のゲイツとTシャツとジーパン姿のジョブズが対談に同席したことがある。相変わらず子供のようにゲイツをおちょくるジョブズに対し、何のジョークも返せず、ただニコニコしているゲイツを見ると、二人の人間性と関係がよく出ていたような気がする。
ゲイツは、ある意味、ジョブズを羨ましくおもいながらも、結局、好きだったんじゃないかという気もしてくるのが不思議だ。


で、90年代後半、やっぱりアップルはジョブズがいないとダメだ、ということになり、再びCEOとして返り咲くこととなる。途端に俄然、いろんな事態が動き出した。
彼が最初につくったのが、新しいOS、MacOSXだった。その搭載端末がiMac、色の無かったPCデザインの世界に初めてカラーを取り入れ、スケルトンのプラスチックを採用した。以来、「無印良品」もオシャレなプロダクトはみんなスケルトンになった。一種のブームになった。


最初のOSXを搭載した初代iMac
仕事で使うというより、やっぱりプライベートコンピュータ向きのハードとアプリケーションだった。


このときのアップルのキャンペーンが「think different」。シンプルでうまいコピーだった。
当時、あまりにたくさんの種類が生まれ、外付けの機材もたくさんあった。世の中はまだ生活空間にコンピュータが行き渡る時代ではなかったし、それらをまとめ、オールインワンでしかもいままでとは発想が違うもの、が、まさにこれだった。
その後、ジョブズは、PCだけでなく、iPod、iPhone、iPadと立て続けに音楽から電話まで、まさにライフスタイルを変えるようなプロダクトを世に送り出していった。
たぶん、みんなこんなものがほしかった、が、アップルにはあったのだ。
その発表のプレゼンテーションでも、ジョブズがポケットからiPodを出してみたり、封筒からiPadを出してみたりすると会場は一斉に歓喜に湧いた。
ジョブズは、「アップルはセクシーだ」と言ったし、「ワクワクするものをつくりたい」と言ったり、ある意味、一流のマーケティング・ディレクターでもあったのだ。ま、自分でほしいとおもうわないものはつくってもしょうがないしね。






今年まで僕のケータイはずっとGoogleのAndroidのOSを使っていたが、さすがに4年も使っているといろいろ不自由が出て来て、ま、やっとiPhoneに戻ったという感じ。
ジョブズは4年前に亡くなってしまったので、これらがたぶん最後の開発プロダクトになるだろう。以降、アップルがどうなっていくかはわからないけれど、最後のプロダクトなら、その時代を一緒に生きることには価値があるだろう。

先日の話に戻るけど、ジョブズは最後の講演で大学生たちにこういったのだ。
"Stay hungry. Stay foolish"(ハングリーであれ。愚か者であれ。)
普通の人は、なかなかバカにはなりきれない。
ジョブズは大の禅の信望者だった。師は乙川弘文。そういう意味では、禅ぽい発言といえばそうだが、なかなか到達できない境地だ。(は/197)

■数寄とバカの遠くて深い関係について

2016年01月15日 | その他
先日もたまたま「勉強」という話になったれど、まあ、一口に「勉強」といっても置かれてる状況によってそれは違う。
学生の頃は勉強しろといわれるとかえってしなかったりして、社会人になってからは、逆に好きなことは一生懸命勉強する人たちもたくさんいる。もしかしたら、我々だってそうかもしれない。

普通、勉強して高い点数を取る人を優秀といって、低い点数しか取れない人をバカという。
でもそういう人のなかには、世間から変人扱いされても、バカじゃないの?とかいわれながらも、ただひたすらひとつのことを探求したり、研究したり、習得したりすることで、誰も想像できなかった大発見をしたりすることもある。
世界は多様だ。ある特定の数字だけで評価できるものではない。そんな人もこんな人もいて、世界だろう。無くて七癖、好みも人それぞれだ。それを個性と呼ぶ。個性が数字の後ろに回る必要はない。


たとえば、いま仕事をしている会社の基本理念を作った際に取り上げさせてもらった木村秋則さんは、「奇跡のりんご」で知られる人だが、もともとは農家ではなかった。婿養子に入った先がたまたまりんご農家で、奥さんが農薬アレルギーだったのを機に、無農薬という世界に突入したと聞いた。
多くの困難と想像を絶する気力と努力の甲斐あって、当時不可能とされていたりんごの無農薬栽培に独力で成功した木村さんは、世界初の「奇跡」と賞賛されたのだ。



最初に参考にした「自然農法論」という本は、本屋で上の方に置いてあった読みたかった本を取ろうと背伸びしたら偶然一緒に落ちて来た本だそうだ。汚れたので仕方なく一緒に買ったという。それが役に立った。これも運命だろうか。
問題なのは「根」だそうだ。たっぷり豊かで丈夫な根を育てること、最終的には大豆由来の堆肥が成功したらしい。自然には自然の方法があるということだ。

この人生は、舞台にもなったし、阿部サダオ主演で映画にもなった。いまでは、世界のいろんな研究機関や大学から招かれて講義したりするらしいけど、でもやっぱり、農園に立って、畑仕事をしている風情が一番よく似合う。
木村さんいわく、生きている大根というのは実は毎日回転しているそうだ。日の出に始まり日没まで、毎日右回転しているという。そんなことは誰も気がつかない。毎日畑で研究、勉強しているから発見できるのだ。答えは畑にあったりするのだね。そう、事件は現場で起きている。
TVのインタビューでは、てんとう虫がアブラ虫を何匹食べるかを観察するのに地面に這いつくばっていたら、周囲の人から少しおかしくなったんじゃないの?とおもわれたこともあったらしい。
これも「農業バカ」と言っては失礼だが、でもそういう類いの人でもある。だけど、奇跡というのはその積み重ねでしかないのにね。




同じく山形で「アルケッチャーノ」という有名なレストランをやっている奥田さんは、最初、野菜の気持ちを知ろうと考えて、大根のように一日中土に埋まってみたという。周囲からみたら、まさに「バカな変人」だ。
でも、埋まっていると、だんだん体毛が敏感に反応してきて、脳ではなく体中がセンサーのようになっていったという。しまいには、水の流れや在処を感じるようになったそうだ。
だからいまでは、どんな環境に育った野菜か、見ればすぐにわかるそうだ。甘い野菜はどうゆう環境に育つか、ヘタの大きいトマトはどうゆう味がしてどういう状態で育ったか、とか、ピタリと言い当てることができる。
おまけに、新潟方面から車で来たお客さんは、信号でイライラしているから、最初に揚げ物を出すという。人間にも環境や心理で食べ物の満喫度が違うのだ。
う~、この人も「料理ばか」といっていいんだろうか。




中国には「還童功」という仙人の修行があるが、これは、五歳の子どもになりきって野山を飛び回る修行だ。
五歳の子どもというのは、身体の自由がきくけれど、大人のような余計な邪念がないから、昨日の反省も明日の心配も考えることはない。いまだけを集中して生きる。
つまり、この修行は、目の前の一つのことに集中してあとは何も考えない、ということなのだ。ある意味「無」だね。
何も考えず無心に笑っていられた頃というのは、そういう頃だったかもしれない。大人はダメね、しがらみや小さな悩みが多すぎて・・・。
ともあれ、こんなこと、大の大人がやってたらそれこそ「バカじゃないの」と言われそうだ。大人は誰だって簡単にはバカになりきれないのだ。


アップルの創始者スティーヴ・ジョブズは最後の講演で、起業家を目指す学生たちに向かってこう言った。
"Stay hungry. Stay foolish."
ん~、才能の開花や世の中や人のためになる発見というのも、既成の常識にとらわれず、こういう「バカみたいな無心」から生まれるものなのかもしれない。



ノーベル賞学者がすべからくいうのを聞いていてもたいがいそうだ。ほぼ、研究バカ、実験バカだね。奥様は苦労するかもしれないが、でも、それは正しい「勉強」というものなのかもしれないし、概して無欲で純粋だったりする(そうでない人もいるけれど)。
子供の頃読まされたトルストイの「イワンの馬鹿」がそうだったように、純粋に無欲であることが邪心ある悪魔に迷わされず人生をまっとうするという寓話もある。


つまり、いわゆる「好き」というのは、限りなく「バカ」に近い概念かもしれない、と、ふとおもう。
「物好き」や「色好き」、「機械好き」や「本好き」、「映画好き」や「おしゃれ好き」・・・。
歴史的には「好き」が転じて「数寄」になった。だから茶道も連歌も数寄者の世界、最初はある種趣味のマニアックなコレクター世界なのだ。いまなら逆に全部「好き」を「バカ」に置き換えても成立したりする。
ということは、「バカ」とは、マニアックな探求者ということもいえるかもしれないね。

なら、ま、我々もいまは「バカじゃないの」とか言われていても、そのうち、イワンの馬鹿ではなく、ワヤンのばか、とか、グンデルばかとか、と言われるようになって、きっとやっと一人前なのかもしれないね・・・。ん?なんの話だっけ?
いずれにしても、う~ん、道は、まだ、遠い。(は/196)


我が家から見える夕焼けの「赤富士」をみながら、ボーッとそんなことを考えた。
バカだね。

■顔の印象

2016年01月14日 | その他
昨晩かみさんと話していて突然気がついた。この二人、なんか似てる。


それぞれのファンの方はご容赦ください。



それで思い出したけど、以前、某雑誌の新春企画で毎年こういうの出してたけど、その後どうなったんだろう・・・。今年はまだ見ていない。これも、政府の圧力だろうか。
でも、まあ、初笑い、ということでご容赦。

人間の顔の印象や認識力って、やっぱ不思議。他の動物にはできない密かな悪趣味だ。
ワヤンにもこういうのあるだろうか・・・?
どなたか、ワヤンの人形に似ている人を見つけた方はご一報を。(は/195)








■宇宙の果ての天然の美

2015年12月29日 | その他
今年も残り2日になってしまった。年々早くなる。
一応、忘年会というか納会も終わり、最後の残務も終わったので、最後のブログでも書くか、という感じ。

おもえば、今年は格差や貧困を遠因にするテロの頻発や、紛争による難民など大きな問題になった。日本も原発再稼働や辺野古に加え、安保法案など力づくの政策がつづいたり、何かと世界中情勢不安な年だった。
年忘れとかいって、一年の出来事をリセットするという日本の習慣は、良い面もあるけれど、そうでない面もある。時間と空間はずっとつづいているからね。

で、まあ、何で締めくくろうかとおもったけれど、今年はノーベル賞も二人取ったな、などと考えていたら、そうだ、今年はハッブル望遠鏡の25周年だった、ま、巷のことは忘れ、そんなことにでもしようか・・・。


ハッブル宇宙望遠鏡は、ちょっと前くらいの印象だったけど、もう25年前になるんだね。世界初の大気圏外に設置された本格的望遠鏡。ともかくこの25年間、幾度となく驚かされつづけてきた。


ハッブル宇宙望遠鏡(NASA撮影)



名前の由来であるエドウィン・ハッブルは、ハッブルの法則でも知られるアメリカを代表する天文学者だ。
彼が毎日天体を観測していて発見した「赤方偏移」によって、アレクサンドル・フリードマンが提唱した「膨張宇宙」が実証されることになったのだ。有名な話だけれど、つまり、それが宇宙はある一点から急速に広がったという、いわゆる「ビッグバン」理論に結実したのである。
赤方偏移とは、銀河のなかから特定された変光星を観測することで、その変化から銀河と銀河が遠のいている場合、赤く見えるということを定式化したものだ。
要するに、銀河同士の距離が大きくなるほど、離れていく速度も比例的に大きくなるというもの。もしすべての銀河がそうなら、宇宙は膨張しつつある、ということになるわけである。


エドウィン・ハッブル

なら、宇宙の最初はどうだったのか、と考えた人がいた。
そこに、宇宙には始まりがあり、爆発的膨張によって広がっていったという理論が生まれたのだ。
これは当初、ジョージ・ガモフの理論を発展させた先の「フリードマン理論」を差すものだったが、後にイギリスの天文学者かつ小説家、かのフレッド・ホイルがつい言った一言から「ビッグバン」というわかりやすい呼び名で有名になったのだ。実は、ホイルはこの理論の否定の雄であったのが皮肉である。ボイルは面白い人だ。



とはいえ、科学者たちも最初はこの「ビッグバン」理論をすんなり受け入れたわけではない。むしろホイルのようにそんなバカなこと、と受け取る人が多かった。
20世紀に入ってからでさえ、宇宙は最初からあるもの、というある種の公理のような認識があって、そんなこと考える人はいなかったのだ。常識では、宇宙は一定のものであると考える。それを「定常宇宙論」という。
ところがそこにほぼ最初に「ビッグバン」への賛意を示したのが、なんとバチカンだったから面白い。
無から宇宙が創世されたというのは、聖書と背反するものではない、というのがやや柔らかめの解釈だった。こういうのを一概に否定すると、またガリレオ裁判だとかいわれるのもいやだったのかもしれないけど。
でもそういえば、ユダヤもキリスト教も、ナバホ族もピグミーも、つまりアフリカもアメリカ大陸の先住民の神話も、最初は渦やねじれだったり、天と地に分かれたりするけれど、概ね世界の創世神話はすべからく無から世界は生まれた、とされている。これは、人間の共通感覚か、それとも宇宙の遠い記憶だろうか・・・。
やっぱり「教えは古いほど真理に近い」んだろうか。


ともかくそれ以来、宇宙というのは、時間も空間もないまさに「無」の状態から、突然の大爆発によって誕生した、という宇宙論イメージが定着した。
そしてそれは約138億年前の出来事とされている。理由は、いま発見されている最も古い(遠い)銀河が約138億光年先にあるからである。
ただ、最新の研究では、実は宇宙はそれ以前に生まれていて、138億年以前の光は、膨張速度が早すぎて、光が届かないとする説もある。だから実際の宇宙の大きさなんて、実はまだ誰もわかってはいないのだ。



我らが太陽。


ともあれ、かくして宇宙にはたくさんの星ができ、一部は水素の核融合を起こし輝く恒星になる。
太陽程度の大きさの星なら、ある程度核融合すると中心部に水素が融合したヘリウムの核ができ、やがて外側の余った水素部分が拡大して巨大な「赤色巨星」になるとされている。
太陽はまだ中年の45億歳くらいといわているので、そこまでいくにはあと同じくらいの時間がかかる。そして最後は外側の水素ガスを放出して、ヘリウムだけの「白色矮星」になる。
また、太陽の数倍くらいの星は、ヘリウム以降もだんだん核融合が進み、最後は自分の重力に絶えられなくなって、もの凄い光を放って「超新星爆発」という大爆発をする。このときいろんな原子が宇宙に放出されるのだ。
で、最大級の大きさの恒星の場合、最後の核は「鉄」まで進むといわれている。さらにそれ以上だと、逆に重力が強くなり過ぎて、光も外に出ることができない状態、つまりブラックホールになるのだ。
だから宇宙には、もしかしたら核がC炭素、つまりダイアモンドの星もあるかもしれないね。そうやって、さまざまな原子が生まれたのだ。


高校生の頃、みんなやっと覚えただろう元素周期表をおもい出すといいかもしれない。
いま、わかっている限りの原子は、118番まであって、自然界に存在が確認されているのは、実は原子番号92番のウランまでで、それ以降は人工的に合成された原子だ。
ウランがそうであるように、原子番号が多いほど不安定で、崩壊しやすい。だから原子力にはウランが使われるのだ。
で、実は113番の原子にはまだ名前がない。慣例的に発見者に名前の権利があるそうだが、もしかしたらこの113番は発の日本に権利が認められるかもしれないという朗報が新聞に載っていた。来年1月中旬には決まるそうだが、どうなりますか。


今週の朝日新聞より。


ともあれそうやって、宇宙ってどれくらい広いんだろう、宇宙の果てってどうなっているんだろう、宇宙に生命はいるんだろうか、そもそも宇宙や星はなぜ生まれたの?
少年の頃、星空を見上げながら、誰もがそんなあてどもないことを空想したものだ。
だけど、いまならはっきりしていることがひとつある。
その宇宙の最初の出来事こそ、そう「乳海撹拌」だっだのだ。う~ん、来年一年は、宇宙創造は「乳海撹拌」ということにしておきましょう。


今宵はそんなことも想い出しつつ、ハッブル望遠鏡の捉えた画像を観ながら、しばし宇宙遊泳でもいかが?
そうやっていると、この一年や人間なんて小さい小さい。すべて取るに足らない些細な刹那な出来事だとおもえてくる。ここは大きく138億年の時空間の心構えでいきましょう。

ということで、あまりにも有名な短歌なので、ちょっと気恥ずかしいけれど、いつもの寺田寅彦で今年は終了。子規の「ホトトギス」に投稿した歌から。

 好きなもの いちご コーヒー 花 美人 懐手して宇宙見物(寺田寅彦)


どうぞ、良いお年を。
来年もみなさんにとって良い年でありますよう祈念して、
宇宙の果てから、ラた、マまいねん(今晩はエコーを効かせて読んでください)。(は/190)



暗い無のスペースとおもわれていた宇宙空間にも、
実はそれを埋め尽くすように銀河と星々が存在することを初めてハッブルが画像でみせてくれた。



望遠鏡のごく小さな視野のなかにも、
無数の銀河があることがはっきり見えたのも初だった。



「ステファンの五つ子」と呼ばれる銀河群。
ただし、それぞれは前後に数千万光年離れている。不思議だね。



おそらくもっとも有名が画像のひとつ。
「創造の柱」と名付けられた指の形をした「わし星雲」。



お互いの重力で引かれあい、衝突する銀河。
だけど、見た目は流線型が美しい。



同じく、ほぼ垂直に衝突する銀河。こういうのも珍しい。



ほぼ真横から観た銀河。
きれいな銀河というのは、平べったいのだ。



タランチュラ星雲。ただ美しい。



ここからが僕も好きな「惑星状星雲」。太陽くらいの大きさの星はいずれはこの運命だ。






僕のお気に入りのひとつ。以前はこれをケータイの待ち受けにも使っていた。
水瓶座のらせん状星雲、別名「神の眼」ともいう。



「エスキモー星雲」。


「キャッツアイ」で知られる美しい惑星状星雲のひとつ。


■夏のおわりに(1)

2015年09月26日 | その他
ある事務手続きの必要があって、久々に新潟の実家に帰った。
連休中日ということもあって、それなりに混んではいたが、車が動かない、というほどでもなく、ま、なんとか。高速での渋滞は、トイレ問題もあるし、いまどき珍しい我がマニュアル車はそれなりに左足が疲れるのだ。

定年後の父親の趣味は、カメラとゴルフときのこ採りと盆栽と菊づくりだった。最近は出かけるのが面倒なのか、もっぱら庭いじりが多くなり、とくに菊づくりには力を入れていて、毎年数十本の鉢を育てている。
ま、うまく花が咲くのもあれば、おもったほどかたちの整わない花もあるんだろうけれど、出来の良いものは、地元コンクールに出すといつも立派な賞をもらっていて、それが評判で、地元の料亭や店なんかが借りに来て、お金を払うのもなんだからということで、お返しに、酒や高級食材が家に届けられるという寸法だ。
母親は、今年の菊は何に化けるだろうか、と楽しみにしている。
食べられるものは家で食べるが、たくさん酒などをいただいたりすると、その酒がまたどこかのお祝いに使い回しされたりもするらしい。田舎の社会というのは、そうやって、金より物々交換が常識、というか礼儀なのだ。でも、無駄がなくていいんじゃない、それも。心が通じればいい。
そんな菊も順調に育っているらしい。来月後半くらいになると、きっと立派な花を咲かせることでしょう。


裏庭の片隅に並ぶ菊の鉢。


裏庭は、ほぼ家庭菜園、というには規模が大きいので、ほぼ小さな野菜畑状態になっている。毎年の土つくりにも余念がないことだろう。いまの状態はこんな感じ。たぶん、野菜なんて買うことないんだろうな。


長岡菜と右は大根。植物に疎い自分でもこれくらいはわかる。


ご存知、茄子。新潟には固有の丸茄子というのがあって、浅漬けにすると格別だ。


これは南蛮。数十個にひとつくらいは、とびっきり辛いものがある。


唐辛子。ピーマンも南蛮も唐辛子もルーツは一緒だ。


里芋。これも見ればわかる類い。夏が日照りで今年は期待できないそうだ。
栽培はいろんな諸条件があって、たいへんだね。


なぜかキウイの樹。たわわに実っているけれど、キウイは実ってから食べれるようになるまで時間がかかるそうだ。
ほぼすべての果物類は、そろそろかな、とおもっていると、翌朝、鳥たちに持っていかれたりするという。
食べごろを理解する本能は偉大だ。



これは何でしょう・・・、そうです、ミョウガでした。成長するとこんなんなるんですね。


シソ。昨晩の刺身のときに採ればよかったのに・・・。


ほおずきがあったり、よく見ると蝶がとまっていたりする。


最近はあまり力を入れてないらしいけど、盆栽が少々。
盆栽の善し悪しは、イマイチよくわからない。でも、日本の栽培技術はすごい風景をつくったりする。
やっぱり「縮みの文化」なんだろうか・・・。



子供に見えている世界というのはごく狭いものだ。大人社会のそんな大局的なことはいざ知らず、目の前の虫や壁の傷なんかの方がよほど気になったりするので、大人には見えないいろんな発見をすることがある。
そういえば、10年以上前、(か)さんの別荘に行ったとき、長男のS君がどうしても見せたいものがあるといって外に連れ出されたことがあった。
そこは先ほど荷物を持って通り過ぎた場所。よく見ると地面に割れ目があって、そこにアリが連隊を組んでウゴウゴしていた。
そうか、これが見せたかったのか・・・、大人は遠く南アルプスとか見て感動したりしているのに、やっぱり子供の目線は侮れない。そこには自然の生態が息づいていたのだね。

僕も子供の頃は、家の庭でさえ、隙間の生き物を見つけたり、蝉や蝶やバッタなんかを捕まえては、いまからおもうと、無情にも篭で飼い殺しにもしていたり。それくらい虫もたくさんいた、し、たくさん採った、ということだろう。
いったい、そこで何を学んだんだろう・・・。

ちょうど家に、トンボのオブジェ化したものが置いてあってびっくりした。母親の話では、弱っていたので、日影に置いておいたら剥製状態になって固まったのだという。これでもう三年もこの状態だという。
果たして、自然にこんな風になるもんだろうか・・・。


こういうのもよく捕まえた。オニヤンマの複眼は当時は驚異の目玉だった。


そうしたら、蝉の抜け殻を発見した。
最近ではあまり見ないけれど、子供の頃はよく見かけたものだ。アブラゼミ、よく採ったな。昆虫採取は本能だろうか・・・。
このセミについては、小学校の頃、先生がこんなことを言っていたのを覚えている。
セミはよく7年土の中にいて、成虫になると1週間で死んでしまう、というけれど、あれは誤りです。アブラゼミはだいたい5年~6年土のなかにいるのは本当だけれど、出てきてからは約1ヶ月は生きるのだそうだ。鳴くのはオスのセミだけで、あれは求愛の鳴き声なのだ、と。

セミというのはだいたい木の枝かなにかに卵を産みつけ、秋にふ化して土に潜る。次第に成長して樹木の根っこから樹液を吸って育つのだと教えられた。
土のなかにいるのは短くて2年。でもモグラや他の虫もいるので、けっして安全ではない。成虫になってからはもっとたいへんで、蜂や蜘蛛や鳥にいつも狙われている。その最大の敵のひとつが「人間の子供」でもあるのだ。
だから、変態脱皮するのはやや安全な夜の時間だ。翌朝まで逃げおうせたセミだけが飛ぶことができるのだ。

で、その後、中学生の頃だったか何かの本で知ったことだけれど、成虫したセミの最大の目的、子孫を残すこと、つまり交尾のできないセミがいるそうだ。
それは、メスとオスはほぼ同数なのに、オスは何度でも交尾できるけれど、メスは一度しかしないためだという。なら、それにあぶれ、一度も交尾のできないオスがいるということになる。
ちょうど、なにごとも交尾には必要以上に関心の高い年頃のせいもあってか、こういうセミの「あわれ」はやたらよく覚えている。
そのオス、いったい何のために6年も土にいて、多くの困難を乗り越えて成虫になったのだ。
ま、種の保存ということなら、そういう存在も保険のようなものだろうけどね。

ついでにもうひとつ、そのときからずっと気に入っているのが「素数ゼミ」だ。
アメリカでしか確認されていないらしいけれど、土のなかにいる時間、つまり成虫になるまでの時間が、13年のセミと17年のセミがいるということ。両方とも素数なのでそう呼ばれることになった。
で、その周期ごとに大量発生していろいろ問題になったりもする。
でも、これには理由があって、このふたつのセミの成虫化は、221年に一度しか重ならないことになる。同じく毎年成虫化するわけではないから、2~3年で入れ替わる天敵とも重なる率が減ることになるし、大量に発生すれば、きっと誰かは生き残ることになる。そういう立派な戦略的進化なわけである。
何万年かけてそうなったかはわからないけど、やっぱり自然はユニークだ。で、素数というもがポイントだ。これも偶然と必然の間の淘汰だろう。

虫目線で世界をみると、まだまだ不思議なことはたくさんある。
夏のおわりに、セミの抜け殻を見ながら、ちょっとだけ、幼心に帰った瞬間だった。(は/159)


この抜け殻な感じ。なんとも儚くて、残像的だ。