玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■だいせんじがけだらなよさ

2016年03月02日 | その他
昨日、我がTunjuk関係者のお父さんが亡くなったと連絡を受けた。
もう高齢だから十分長生きとはおもうが、親族の痛みはわかるものではない。
僕も数年前に義父を亡くしたことがある。かみさんはずっと終始気丈にしていたが、内心は計り知れない。あえて訊いたこともない。訊いたら訊いたできっと押さえていたものがどっと涌き上がって泣き出していたに違いない。そこはお互いの暗黙の理解というやつだ。人生いいこともそうじゃないこともたくさんある。寄り添って生きていくとはきっとそういうものなのだ。

情けないことに、こういうときにはかける言葉もない。
ただ、いつもこういうときに思い出すのは、于武陵の五言絶句「勧酒」とその和訳である。中学生の頃、祖母を亡くしたときに覚えたせいか、それ以来いつも思い出してしまうのだ。
私は実は子供の頃は祖母に育てられたのだ。だからそのせいか、妙に昔じみた価値観を払拭するのに随分時間がかかった気がする。いいようなそうでもないような。それも人生だ。
でも、祖母の死は、初めての親族のそれだった。もう動かなくなった祖母の頭を祖父がずっと押さえていたのを記憶している。いまからおもえば、そのとき祖父は何を考えていたんだろう・・・と、いまでもときどき思い出す。細い身体だった。

「勧酒」とは、こういう詩だ。

  勧君金屈巵   君に勧む 金屈卮(きんくっし)
  満酌不須辞   満酌(まんしゃく) 辞するを須(もち)いず
  花発多風雨   花発(はなひら)けば 風雨多し
  人生足別離   人生別離足る(じんせいべつりたる)

一般的な和訳はこうだ。

  君に この金色の大きな杯を勧めよう
  なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ
  花が咲くと雨が降ったり風が吹いたりするものだ
  人生に別離はつきものなのだ

それを、井伏鱒二は、こう和訳した。

  コノサカヅキヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ



井伏鱒二。福山文学館HPより。


寺山修司は、不自然なほどこれに反応していて、こういう詩を書いた。

  さよならだけが 人生ならば
  また来る春は 何だろう
  はるかなはるかな 地の果てに
  咲いている 野の百合 何だろう

  さよならだけが 人生ならば
  めぐり会う日は 何だろう
  やさしいやさしい 夕焼と
  ふたりの愛は 何だろう

  さよならだけが 人生ならば
  建てた我が家 なんだろう
  さみしいさみしい 平原に
  ともす灯りは 何だろう

  さよならだけが 人生ならば
  人生なんか いりません

でも、その後、あまり知られていないが、寺山はこんな詩も残している。
きっと、内心は本当は井伏に共感し、心酔し、どうしてもそれを超えられない詩人としての募る想いがあったに違いない、と、いまではおもう。
言葉は単に言葉だけれど、詩人や歌人が人生をかけたのもその言葉なのだ。何もなくても、きっとおもいは伝わるはずだ。

  さみしくなると言ってみる
  ひとりぼっちのおまじない
  わかれた人の思い出を
  わすれるためのおまじない
  だいせんじがけだらなよさ
  だいせんじがけだらなよさ

  さかさに読むとあの人が
  おしえてくれた歌になる
  さよならだけがじんせいだ
  さよならだけがじんせいだ


ご冥福をお祈りいたします。(は/211)


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