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 玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■夷酋列像の背景

2015年11月17日 | 北海道・広島
先日来、北海道博物館でやっていた「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」の展覧会が終了した。
以前から一度、本物を観てみたいとおもっていたが、なかなか機会に恵まれないでいたのだ。
「夷酋列像」とは、18世紀後半に松前藩の蠣崎波響(かきざきはきょう)が描いたアイヌ首長たち12人の人物像で、おそらくアイヌを描いた絵のなかでは、ダントツに著名でいろんな意味で影響力と研究対象となった美術品であろう。
真筆はいくつかあるらしいが、そのひとつは、30年前、フランスのブザンソンミュージアムで偶然発見され、どういう経緯かは不明らしいが、今回は、それが展示されていたのである。
せっかく北海道に通っているので、どうしても観たい展覧会のひとつであったが、間に合わず、まことに残念極まりない。


イトコイ。

18世紀後半、当時蝦夷地を統括していた松前藩ら和人に対し、アイヌたちが蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」というのがあって、この列像は、それを収めるのに協力したアイヌの有力者たちを描いたものとされている。
当時の和人とアイヌの関係は、ほぼ支配者と被支配者の関係で、和人の移住によって生まれた軋轢の「コシャマインの戦い」、松前藩の不正に端を発した「シャクシャインの戦い」を含めたいわゆるアイヌ三大蜂起とともに、次第に規模も大きくなっていく叛乱の度にそれが強化されていった。有名な「七か条の起請文」はシャクシャインの戦いの際に松前藩が突きつけた服従の強制である。

でまあ、当時、武士の商法ともいうくらいで、もともと交易や商売が苦手なのが武士たちである松前藩は、アイヌとの交易を和人の商人に任せて統治していた関係で、飛騨屋など、まあアイヌを奴隷のように好き勝手使って、かつ例のシャモ勘定で、アイヌからさまざま搾取していたという時代である。松前藩の役人は、上がりだけせしめて、それを見て見ぬ振りをしていたのだ。
これを歴史用語では「場所請負制度」という。今風にいえば「現場代理人」のようなものか?・・・冗談です。
ともあれ、過酷な労働とその圧政に苦しみ、本来争いの嫌いなアイヌたちもたまりかねて蜂起したのである。

ただし、すべてのアイヌが蜂起したわけではない。もともと友好的に付き合っていたアイヌもいれば、争いを嫌うアイヌもいる。和人に逆らって得がないとおもうアイヌもいたであろう。
たとえば、この列像にも入っている「ツキノエ」という首長は、自分の息子が蜂起に加わっていて、最終的には処刑されたにも関わらず、和人に協力した人である。その心理はどういうものであったか・・・。
きっと、自分の損得より集落の将来を慮ったんだろうか、それとも、善悪を決める何かがあったのだろうか、それとも、まさか処刑されるとおもっていなかったのだろうか・・・たぶん最後のが正直なところではなかったか。
ともあれ、彼らの協力で、蜂起は収束した。和人側の犠牲者は71名だったそうである。


ツキノエ。

この件は当然幕府にも伝わった。江戸時代のことだから、こういう騒動は改易ものである。ただし、ちょうど当時、ロシアが開国を迫って道東に来ていたせいもあって(実はロシアの方がペリーより早い)、幕府としても思案のしどころであったが、松平定信の危機感のない政策のせいで、蝦夷は松前藩の仕切りがぎりぎり続いていた。

この絵画の描かれた背景には、実際、松前藩が、協力したアイヌに対し褒美を渡すのと勧善懲悪を教えるという名目もあったらしいが、蜂起という事態になって、松前藩自身の蝦夷やアイヌへの統治能力を疑われかけたのを解消するという目的があったらしい。
アイヌはこんな立派な人たちですよ、一部は叛乱したけど、その有力者たちを我々はきちんと統治しているからね、良好な関係ですよ、ご心配なく、というわけである。
だから実はこの絵には、過度な脚色や想像もかなりあって、実際、蠣崎は、何人かは、会うこともなく描いた可能性が高いということだ。


ションコ


チキリアシカ

波響は、もともとは藩主の五男として生まれ、後に家老の蠣崎に養子に入り、この名前になった人物である。
偶然、最近読んだ本に書かれていたが、蠣崎家も実は微妙な由緒で、初代蠣崎は、もともとは信玄を排出した甲斐武田と並ぶ若狭武田家の出身で、末っ子だったせいで流れ流れて蝦夷まで来たタイプの人物である。うまく蝦夷統治の安東氏の養子に入って出世し、蠣崎という姓を名乗るようになったらしい。
マッサンと一緒とはいわないけれど、「アドベンチャーな人生」が背景にある。
ともあれ、波響は、幼少の頃から天才をうたわれた腕の持ち主だった。十歳で江戸に出て、南蘋(なんびん)派に弟子入りし、二十歳で松前に戻ったほどの才能である。
誰もがいうが、まあ、緻密な画法は、衣装の細密さ、ひげ一本、髪の毛一本も逃さない。ある意味、異様な描写である。

で、波響はそれをもって京に出た。運良く天子様のお目にかない、いっきにそれが日の目をみることになったのだ。だからこれほどまでに写しや別本や分本が多いのだろう。
きっとアイヌなんて、京の人は誰も見たことなかっただろうし、リアルな描写に驚いたことだろう。しかして、これが後のアイヌのイメージを決定したのだ。絵画としての価値だけでなく、文字を持たないアイヌの習俗や出で立ちを伝える歴史的価値も高い。

でも、だいたいにして、そういう観たい絵というのは、なかなかタイミングが合わなかったり、出会いも偶然だったりする。
バリのルキサンも、なかなかいい出会いがなく、まだ一枚しか持っていない。絵というのは、案外向こうからやってくるものかもしれないね。
「夷酋列像」、縁があれば、いつか観れるだろうか・・・。(は/179)




最近どうにも忙しくて、気晴らしのブログもだんだん書く余裕すらなくなってきた。
今度はいつ投稿できるやら・・・。

■アイヌ、現代の肖像

2015年11月16日 | 北海道・広島
出会いは一冊の本であった。
「アイヌときどき日本人」。写真家宇井眞紀子さんが撮った現代の関東に住むアイヌの人々の生活とその肖像を写真集とテキストでまとめたものである。
2009年の出版だから、そう古くはない。ブックデザインは、いつもお世話になっているS先生の弟子、故谷村さんである。宇井さんに聞いた話だが、宇井さんが初めて本を出すというなら、僕は無償でお手伝いしますよ、と言ってくれたそうである。やっぱり人は人とつながっている。



その後、2011年に「アイヌ、風の肖像」という本も出版された。平取(ビラトリ)の二風谷(ニブタニ)に住むアシリレラさんとその周辺を取材した写真集である。
千葉生まれ、武蔵美で視覚伝達を専攻した宇井さんがなぜ23年もの間、アイヌの人々と交流し、写真を撮り続けたのか、その出会いこそ、実はこのアシリレラさんなのである。

当時のアシリレラさんは、アイヌが守り続けた二風谷の自然を破壊するダム建設に反対し、さまざまな活動やメディアにも取り上げられていて、それを読んだ宇井さんが、会いたいと手紙を出したところ、何も聞かずにただ「おいで、泊まるところは心配しないでいい」と言ってくれたんだそうだ。お母さんのような人だ。
実際、アシリレラさんは、恵まれない子供たちを引き取り、共同生活をするなかで、アイヌ語の研究やアイヌ文化の伝承を実践してきた人だったのである。
宇井さんは、以降、毎月のように二風谷のチセ(家)に子連れで通い、アイヌの生活と現状を体で学んだ。子供たちには垣根がない。あっという間にみんな友だちになったそうだ。
そのうち、次第に写真を撮るようになったという。

今回の札幌は、その展示のためでした。
おかげさまで、このギャラリーも、また一歩広い視野に立てそうです。










江戸時代のアイヌは、差別はされていたけれど、文化的にはある意味放置されていたので、伝承文化は守られていた。だが、一転、明治政府は同化政策をとったため、以降、アイヌ文化は次第に失われていったのである。
どちらがよかったのか、僕には判断できない。けれど、アイヌの思想は遠く1万年以上前、縄文時代から受け継がれた自然と人間の調和を重視する思想である。我々がいま、常識としておもっているたかだか3~2千年程度の文明の思想から物事を判断してはいけない。それだからこそ、先住民文化の考え方が、いま、問われているのではないか。
置かれている状況や文化の地平は全然違うけれど、我らがなぜバリ島の文化を尊重しているのかということも、根っこは同じ気がしている。伝承や伝統というものは、そもそも伝えられるから伝承なのであって、新しいものが混じり合っても変わらない本質の部分をどう伝えられるか、が問題だ。そもそもそれは、近代以前の人類メソッドなのだ。

ともかく、宇井さんは、いままで知っていそうでよく知らなかったそうしたごく自然な生き方や考え方に感銘し、そのごく普通の日常と活動を写真に納めたのである。そこにはアイヌの人々の深く刻まれた肖像と日常と儀礼の時間があった。
道央のアイヌといえば、先日の白老やこの平取、二風谷が代表的な地域である。平取はいつだかのイザベラ・バードが滞在した場所だ。つらい時期や虐げられた時期もあっただろうが、先住民文化とは、いまは我々の方こそ、謙虚にそれを学ばなければならない時代なのだ。

僕の好きな写真を2カットほど。


チラシにも採用された写真。
アイヌの若い女性たちが海の彼方を見ている。
実はこれ、伊豆での写真だそうである。その前に八丈島の流刑の話を聞いたそうだ。



これも実はタスマニアのビーチで、自然の緑を表すアイヌの文様を描くアシリレラさん。
先住民の交流でタスマニアでアボリジニと会った際、
タスマニアの多くの樹木が伐採され、実はそのほとんどが日本の紙にされているという話を聞いたあと、
いてもたってもいられずに、衝動的にこれを描いたときの様子だそうだ。
どんな気持ちだったろう。



ともかく、まったく面識はなかったが、本の内容を信じて宇井さんに直接電話してみた。札幌で展覧会やってもらえませんか?
宇井さんとは、同じ武蔵美ということもあり、すぐに打ち解けた。何日かたくさんのアイヌの話もした。
二風谷と関東の写真があるけれど、どちらがいいですか。いえ、両方やりましょう。え、それはやったことないけど大丈夫でしょうか。大丈夫ですよ、なんとかします。これで決まった。
そこからはあっという間、なんとか今週から展覧会をスタートすることができた。アイヌ文化財団も特別協力をしてくれたし、道新の記者たちも取材に来てくれた。ラジオも放送してくれた。
講演会とレセプションには、遠路アシリレラさんもその仲間たちも駆けつけてくれたし、普通では同じ場所にいることは絶対有り得ないと言われたアイヌの代表的な人々も来てくれた。ある種異様な雰囲気もあったが、会場は熱気に包まれていた。こんな立派なギャラリーで展覧会、おめでとう、的な雰囲気だった。
アシリレラさんは、僕らにも「おいで」と言ってくれた。・・・そのうち行かなければ。


宇井さん(左)とアシリレラさん(右)。


宇井さんは、いま新しいプロジェクトに取り組んでいる。北は北海道から南は奄美大島まで、日本全国に住むアイヌの人々100人の肖像を、友だちの友だちはみな友だち的なリレー形式で写真に納め、それを写真集にまとめるというものである。
関係者以外見せたことがないというその一部を見せてくれた。一枚の肖像にそれぞれの個性溢れる一言で構成されている。どれも軽くはない。けれど、生きる意味を考えさせてくれる。
いつもお金がないという彼女は、いろいろ考えた挙げ句、草の根式で寄付を募ることにした。1口千円、5口で出版された際には本が送られてくるそうだ。
見たい人は、ぜひご寄付を。(は/178)




道新が取材してくれた。

■短い秋と判官さま

2015年11月01日 | 北海道・広島
北海道の秋は短い。
札幌は都会なので、ビルばかりだけれど、ちょっと歩けば北海道大学や植物園や、大通公園や中島公園といった緑多い場所もあるけれど、のんびりできる季節は案外短いのだ。
以前、札幌のいわゆるベタの名所も行ってみよう、ということで、時計台とさっぽろテレビ塔は行ってみた(もちろんTV塔は昇っていない)けど、その他はからっきし。いつも余裕がない。

で、たまたま今回、次の打合せまで少し時間がでいたので、ホテルから打合せの場所まで歩いてみよう、ついでに「北海道神宮」にも寄ってみよう、ということになった。そういえば、まだ北海道神宮にはお参りしていなかったな・・・、よく晴れた秋晴れの日だった。紅葉がきれいだった。
途中、いろいろ寄りながらも、北海道神宮を目指してみた。だいたい2kmくらいの行程だろうか。こういう日は、たまには散歩気分も悪くない。


大通り公園にある彫刻家イサム・ノグチの作品。
北海道は実は彫刻のたくさんある場所だ。街には安田侃さんの作品もたくさんある。



途中にあったホテル。看板がホテルらしくないのでついつい惹かれて覗いてみた。
普通のホテルだったけど、安い。1週間で2万だそうだ。
高級ではないけど、ある意味シャレている。こういうところもあるんだね。



最近話題のパン屋さん(左)、右はギャラリー。
こういうのが円山辺りの路地にはたくさんある。



これでも、喫茶店である。
古い民家を買い取って、親子二人、三年がかりで手作りした喫茶店だ。
ここが話題になり、いまでは4軒の店を持っているそうだ。
つまり、ここのオーナーはアーティストで、来年展覧会を頼んだ、のだ。



左が札幌でも老舗のギャラリー兼ショップ。
来年の展覧会の件で、一応あいさつに。
右が中華&うどんという変わりものの店。どうせならということでランチをここにした。
円山周辺には、こういう古い建物を活かした店が多い。どれもセンスいい感じだ。



で、北海道神宮。以前から言われていたけどなかなか機会がなく初めて行ったけれど、ああそうか、円山公園と隣接していたのか・・・。札幌市街では、西の端、高級住宅街のはずれがこの公園と北海道神宮だ。
初詣などは、明治神宮と一緒で、大勢の人人人で前に進めないらしい。きっとさい銭だけで億だ、などとつい考えてしまうのは悪い癖。
日本は、ともかく坊主も神様も丸儲けだ。


周囲の紅葉が美しい。


逆行で写りがよくなくてすみません。でも立派なお社でした。


と、何も知らないとお参りするのもなんだから、一応、社務所に寄って祭神を覗いてみたら、基本は四柱になっていて、まずは開拓三神、大国魂、オオナムチ、少彦名、それに明治天皇ということだった。
なるほど、出雲系か・・・、出雲は国造神話があるから、明治に正式に本土になった北海道としてはそれが良かったということあたりだろうか。明治天皇はその後追加されたものとおもわれる。知らないで勝手なことをいうのもなんですが。

大国魂(おおくにたま)もオオナムチも両方とも大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名である。ワヤン風にいうなら化身だ。府中の大国魂神社がいい例だが、祭神は大国主命である。きっとどこかで神力の分化が起きて、役割を別名でこなしたのだろう。
一方、少彦名(すくなひこな)も有名な神だが、これも出雲の国造の際に海からやって来た神とされている。だから渡来系という人もいるが、僕はあんまりそれは支持していない。むしろ、水と親和性のある概念の象徴なのではないか、と密かに勘ぐっている。だから舟でやってきたのだ。
水というのは、命の水、沖縄ならヌチミズだろうか、生命の源であり、月からやってくる、というのが呪術的神話世界の信仰につながっている。月というのは、女性の象徴、つまり懐胎の投影とされているのだ。
だから、再生や国造には必要な力なのかもしれない。これは、日本だけでなく、エリアーデなんかもさんざん書いているから、興味のある人はぜひそちらへ。

で、もうちょっとだけいうと、このオオナムチとスクナヒコナはセットでよく出てくる神様だ。大と小の対構造だね。小人と巨人の民俗文化を象徴するものだとおもう。
スクナヒコナの方は、桃太郎やお伽草紙の一寸法師に代表される小人的存在が活躍する物語のルーツだといわれて久しい。
実はこの二柱、名前の意味も対比的である。
オオは大きい、スクナは小さい、ナは大地、ヒコは男子、ムチは尊者とされているから、小人と巨人のコンビが大地をつくるというのは、きっと双方を埋め合うなんらかの人類学的コンビネーションの起源があるのではないかと密かに考えている。ただの勘だけど。
おもいきっていうと、トゥワレンとムルダを想像するとわかりやすいかもしれない。あまりに唐突なので誰にも言ったことがないんだけれど、実はこれ、ワヤンを始めた最初の頃から持っていた仮説なのだ。
それに、ま、こういうのは海外にもあって、だいたい大きい方は力持ちだけれど少し頭が弱く、小さい方はすばしっこくてずる賢い設定になっている。スターウォーズだって、トムとジェリーだって、全部同じ構成だ。
きっとそれらは、人類のなんらかの初源的イメージにあったに違いない、ということなのだ・・・。



開拓神社。北海道神宮の分社になっているらしい。

また話が逸れてしまったけど、ま、そんなわけで、初北海道神宮もお参りし、ちょっと参道から横に入ったら、開拓神社という社があった。
書いてあるものをみると、北海道開拓に尽力した功労者を祀っているそうだ。伊能忠敬や間宮林蔵の名前もあるし、松浦武四郎の名前もある。全部で三十七柱だそうだ。
例祭は、8月15日、北海道命名の日だそうだ。武四郎の功績だね。
ここに至るまでには、これ以外にも多くの苦労と功績があったことだろう。開拓の苦労は、一口には言えないし、またそこに虐げられた人々もいたのだ。そこを忘れてはならない。





店内の鉄板で焼かれる「判官さま」。

ともあれ、さらに横をみると、北海道の有名な菓子屋の茶屋があった。名物は「判官さま」というアンの入った焼きたての餅だそうだ。実はここでしか食べられないというので、多くの観光客が来ていた。
ま、一応ね、そういう体験はしておかないと、ということで、ひとつ買って、無料のお茶と一緒に外で食べた。素朴で美味しい餅だね。
気持ちよい秋日和、秋の穏やかな風がふっと吹いてきた。
北海道の秋は短い、次回来るときはあっという間に冬の気配になっている、だろうか。(は/175)




ホームページに載っているので、あえて告知はしませんでしたが、12月の光塾公演の概要をアップしました。みなさま今年もいっそうパワーアップしてお待ちしております。どうぞ、よろしくお願いします。
http://wayangtunjuk.web.fc2.com/news.html#hikarijyuku

■書の人

2015年10月31日 | 北海道・広島
名古屋~神戸と回り、翌日遅く、家に戻った。
名古屋公演、無事成功し、おめでとうございます。ダランもサンディア・ムルティのメンバーもお疲れさまでした。語りも演奏もいつもに増してパワフルでしたね。
「具志堅さん」も定番になってうれしいですね。
ついでに、ここではっきりさせておきますが、彼の本名は実は「具志堅」ではなく、「具志堅さん」、です。なので、敬語で正式に呼びかけるなら、「具志堅さん」さん、に、なります。「アグネスチャン」チャン、のようなもの、といえばいいでしょうか。
以降、よろしくお願いします。




そのちょっと前、札幌のギャラリーで展示替えがあって行ってきた。なんだか北に西に大わらわだ。
今回の展示は、樋口雅山房さんの書である。まあ、ギャラリーもデザインとかばかりじゃなく、こういう表現世界も観てもらわないとね。
最初に会ったのは、もう覚えていないが、たぶん、日本文化デザイン会議か何かだったとおもう。随分前だ。
今回、札幌のギャラリーを計画するにあたって、3年目以降には地元のアーティストにも展示してもらう、というのが最初からの目論みで、今回がその最初だ。最初はどうしても雅山房さんにお願いしたいとおもっていた。







雅山房さんは、もともとたぶん実家が薬局で、東京でも薬科大であったが、高校で熱中した「書」の世界が忘れられず、前衛書道の本山「墨人会」に入って共に闘った屈強な書家である。本人いわく、井上有一に憧れて、ということだったが、さもありなん、その前衛精神は、追随を許さなかった人である。

「墨人会」といえば、西の森田子龍と東の井上有一。1952年の正月に京都の龍安寺で誓った書家たちの会である。それまでの書界の古い因習を断ち切り、文字に向かって突っ走った人たちでもあった。だからこそ、前衛だし、当時の抽象芸術にも交わる新たな書の創造でもあった。禅的でもある。
この辺、研究者も多いので、僕のような門外漢がとやかくいう筋合いではないが、まあ、ともかく凄い、の一言に尽きる。

かつて結婚する前だったけど、かみさんがどうしても泊まってみたいという旅館が秋田の角館にあって、一緒に行ったことがある。理由は、井上有一の書がある旅館だったからである。かみさんの憧れなのだ。
圧倒的だった。


井上有一。


これ、なんと読むでしょう?
答えは、「愚徹」。そういう精神なんでしょうね。



その雅山房さんの代表作のひとつは、この「柩車の軌跡」である。64年のアンデパンダン展に書家として唯一人出品した。すごい。
64年のアンデパンダンといえば、美術をかじった人なら知らない人はいない。63年に行政や美術界から「反芸術」視されていた読売アンデパンダン展が廃止になったあとを受け、志のある作家や評論家によって自主再興されたのが64年展なのである。まあ、それだけで気骨がある。
前衛書家を入れたのも素晴らしい。


そのときの出品作。「柩車の軌跡」。


当時の書道界というのは、まあ、お茶や花もそうだろうけれど、「道」がついているせいか、上下関係や縛りのうるさい世界であったらしいが、そんなものどこふく風、雅山房さんは誰にもこびず単独出品だった。
そこから、いろんなメディアにも出るようになる。70年代から80年代は、僕らでも知っている有名人でもあった。

そんな雅山房さんに無謀にも展覧会を頼みに行ったところ、二つ返事で約束してくれた。うんうん、いいんですか私で。もちろんです、よろしくお願いします。これで決まった。
今回の展示のために、タイトルも書き下ろしてくれた。三つ書いたから選んでよ、と言われても、選びようがない。なんだかこっちが試されているようだった。
必死で選んではみたものの、結局、どれも素晴らしいのだ。


講演の様子。素晴らしいお話でした。


雅山房さんは、90年代になって、札幌に帰ってきた。札幌のみんながいう。こんなところにいていいんですか?
そういうことをいう人に対して、いつもニコニコしながら、いや~、いいんです。いまでは仲睦まじい奥様とコツコツと漢方薬局を営みながら、ときどき頼まれた書を書いているそうだ。
でも、札幌の大きなイベントがあるといつもかり出される。隠遁も楽ではない。
どうか、ご本人にとって、これが好きな展覧会であってほしい。(は/174)


名古屋から味岡さんも来てくれた。

■ウポポの合唱

2015年10月09日 | 北海道・広島
いよいよ始まる火入式。飛生の夜はそうやって始まった。
アイヌの衣装に身を包んだ人とアーティストたちの交感の儀式のようなものだ。火が入ると原始の機運が高まってくる。火も薪も大きい。




太鼓がリズムを刻み、トランス状態だ。


薪を足したりすると、ときどき大きな火花が天に舞って妖艶だ。


アイヌ伝統の男踊り。


同じく戦士の舞い? たぶん。


火が燃え始めると、アイヌの伝承歌を歌う四人組、MAREWREW(マレウレウ)の四人が仮設ステージに立ち、みんなを誘う。ウポポ(アイヌ伝統の歌)の合唱が始まる。やっぱり声を出すって、すごいね。それと一体感。最後はまるでフォークダンスのようだった。
彼女たちはトンコリもムックリも演奏するが、基本は伝統歌謡だ。「ウコウク」と呼ばれる輪唱は、聴いているとどんどんトランスに入りそうなくらいミニマルミュージックでもある。木津さんや細野さんたちとも一緒にやっていて、沖縄ならネーネーズのような存在だろうか・・・?
この日も東京から駆けつけたらしい。マレウレウとはアイヌ語で「蝶」を意味するそうだ。


右奥がマレウレウの四人。


その後はすぐ各所でライブや芝居が始まる。ステージは全部で四ヶ所だろうか・・・。一応、プログラムはあるけれど、なんとなくすべてがゲリラ的に始まるのだ。
ちょうど話題になっていた「シアター・ガウチョス」のマリオット人形劇が隣の仮設会場で始まったので、子供たちにまぎれて観た。ら、想像以上にハイレベルだった。僕はあまり詳しくないけれど、知っている人はみんな楽しそうだった。
演目は、魔法のスープの作り方、のようなものだったけれど、最後の大きな鍋に入れられた野菜たっぷりスープが裏から出て来て、みんなに振る舞われた。やや気温が下がってきたところに、憎い演出だ。で、それが旨かったのだ。

その後は、あっちのライヴを観たり、こっちのダンスを観たり・・・、途中、例の手作り石釜で、さっと焼いたシイタケをご馳走になった。これがまた肉厚で絶品。まだ生かな、とおもった瞬間が一番美味しいそうだ。




そうこうしていると、小谷野哲郎+川村亘平斎の影絵が始まった。
伴奏は、OKIさんとマレウレウ。アイヌの物語を題材としたこの演目は、東京でもやっていたが、そのときは観れなかったので、今回初めて観た。
小谷野さんは、最初はトペンの道化姿で登場し、物語の口上を述べたあと、影から人形、そして、専用トペンをつけた人間影絵と一人何役もこなす。器用だね。
それにしても、まあ、こんなところで会おうとは・・・。
 は「やあやあ、どうも。ご無沙汰です。」
 こ「あれっ、今日はワヤンじゃないの?」
 は「えっ、知ってたの? いや~、今日はサボリってこっちの方に・・・。」
侮れない。






そんなこんな、いろんな人に会ったし、話もしました。
で、深夜12時スタートで、お待ちかね、OKIさんのトンコリのソロライヴ。雨にもかかわらず、ま~、たくさんの人。それは白熱です。
なんだけれど、途中で雨がいよいろ本降りになり、1時間くらいやった頃だろうか、ろくな雨具をもっていなかったので、ついに断念して、テントに帰りました。ライヴはまだ続いていたみたいだけれど、雨はなんとも寒かった。
なので、結局、OKIさんとは話せずじまい。ま、また今度。

それより、いま頃、みんなは小原でご就寝の頃だろうか・・・。疲れていたけど、なかなか寝付けず、ま、こういうときのために持って来たお酒をあおって、就寝。いつ寝たんだかもわからない。謎めいた夜でした。




翌朝は、昨晩のことがまるでなかったかのような爽やかさと穏やかさ。のんびりとした空気が漂っている。
僕は一人で散歩してから、特設カフェで、朝カレーを食べたのでした。写真はないけど、美味しかったです。
その後、体操のワークショップや朝採れの野菜市などもあって、これはこれで不思議な感じ。
参加者もバラバラと帰路につき、飛生のキャンプは徐々に収束していくのでした。


夢のあと。


そういえば、こんなバーもあった。
前夜は暗くてよく見えなかったけど、こんなになっていたとは・・・。
まるでパンガン島のバーのようだ。



朝はのんびり。誰も聴いていないのに一人でリゾートっぽいウクレレを弾いていた人がいた。
実はこの人、ダイナマイトあさのさんという有名人で、毎朝札幌のFMで番組を持っているのだ。
良かったです、演奏。



ちょうど、アーティストの日比野さんから「飛生、どうだった?」とメールが入り、「いや、ま、面白かった」と返したりいろいろやり取りした結果、来年、日比野さんも来ることになってしまった。すでに日程を押さえたそうだ。
えっ、じゃ、また来年、来ないといけないの? ここに?(は/166)

■Camping & Community in Tobiu

2015年10月08日 | 北海道・広島
アイヌモシリ北海道白老のさらに奥地は「飛生(とびう)」と呼ばれる地域である。29年前に廃校になったそこの飛生小学校を拠点に、いま、新しいコミュニティ(集落)を模索するアーティストたちがいる。
アイヌの芸能や儀礼も、本来、集落のなかのつながりや必然性のなかで受け継がれて来たものである。コミュニティがないのに、芸能や儀礼だけがあるのは、ある意味、不自然といわれてもしょうがない。
人々の絆を深め、生きていくことのなかの芸術や意味を考えることも、ときには必要だろう。バリの芸能も同じことだ。


この森の先が飛生。ここから歩いていかなければならない。


29年前、廃校になった「飛生小学校」。大きな木がかつてを彷彿させる。
このときは、子供たちが手作りブランコで遊んでいた。
すべてはここから始まったのだ。



29年前から時が止まっている・・・。


時計も止まったままだ。


入口脇にあった看板。


彼らの一部はそこに住み、アートコミュニティを実践しはじめた。そこには、札幌や東京などの大都市から通う者たちもいるという。
はじめは苦労もあっただろうけれど、次第に地元の有志も集まりはじめ、大雪になればみんなで「雪のランドアート」をつくったり、自然を活かした屋根付きステージをつくったり、絆を深めていった。そのなかには、材木屋もいれば八百屋もいる。手作りの達成感はやったものでないとわからない。




雪のランドアートをつくったそうだ。その跡地はいまも大地が椀状になっていた。


けしてアーティストだけではない。さまざまな人たちが、それぞれの技と知恵を発揮する。


そして彼らは、そこに「森」を再生させることをスタートさせた。「飛生の森づくりプロジェクト」。森は人の手が入ることである意味生きた森にも死んだ森にもなる。長い時間をかけて育て、つくるつもりらしい。
そのなかに、アートもちりばめ、飛生の語源と目される根曲竹のアートをゲートにし、「アートの森」の入口もつくった。この入口は、毎年いろんな人の手が入り、根曲竹のゲートは毎年大きくなっているそうだ。

それから、彼らは一年に一度、お祭りをやることにした。それが「飛生アートキャンプ」=「飛生芸術祭」である。約一週間の会期のフィナーレが、アートキャンプなのだ。1000人も集まってくるそうだ。
それを主催している中心人物が、友人の国松希根太さんだ。いまや北海道を代表する若手アーティストの一人である。
長くなったけど、つまり、彼が誘ってくれて、そこで行ったという話。


希根太さんの木の彫刻作品が、入口に堂々と置かれていた。


根曲竹のゲート。毎年どんどん大きくなっているらしい。


校舎に書かれた絵は、アーティストの浅井裕介さんが、地元の地層を掘り出して集めた土で描いたもの。
生で観ると実にすごい。



アートの森の夜のための照明。これもアート。
写真じゃわかりにくいけど、なかなか凝っている。



思わず踏んづけそうになってしまった「小人の学校」。


希根太さんたちが手作りした石釜。
今晩は、これでジャガイモやシイタケを焼いてくれるという。



いろんな人がいろんなことをしはじめた。
他にもたくさんの作品があったけど、ぐるぐる回っているうちに撮り損ねた。



キャンプは好きで、昔はよく行っていたけれど、最近はとんと行かなくなったので、実は結構久しぶり。借りたテントの張り方も苦労する有様。情けない。
けど、ま、それもなんとかなり、腹ごしらえでもするか、という感じ。
キャンプとはいえ、自炊するわけではない。敷地内には、北海道のさまざまな地域から屋台が集合している。
とはいえ、そこはアートキャンプ。焼きそばとかお好み焼きとかそういうのはない。タイ料理だったり、アイヌ料理だったり、移動式石釜ピッツァだったり、珍しいものもいろいろだ。そしてみんなフレンドリー。
コミュニティというより、60年代とはいわないが、健全な意味での実験的「コミューン」のようだ。そこでは子供も大人もない。キャンピングだから、一期一会のノマドたちのようでもある。不思議な体験だ。
ま、こういうディープな感覚は嫌いではない。みんな価値観は近いから気軽に話もできる。
と、「センセー」と呼ばれて振り向くと、若い女性・・・どうやら昨年、僕のつたない講義を受けていた東京の大学院生だった。顔は覚えているが名前は覚えていない。できればこういうところで会いたくなかったけど、ま、それも境遇だ。


まだまだこれからぞくぞくやってきて、それぞれがテントを張る。


最近は、ハンモッグ流行だし、こういう人たちもいる。
空いている時間は、それぞれにキャンピングだ。



ここ以外にも、屋台はたくさん出る。どれも個性的だ。


ともあれ、次第に日が暮れはじめ、儀式的雰囲気が漂ってきた。太古の人間たちも、きっとこういう森とトワイライトのなかの神秘を感じていたことであろう。普段、東京辺りにいると忘れがちな感覚、ある意味で、遺伝子が覚えている感覚なのだろう。
ちょうどその頃、みんなも豊田の山奥でワヤンとかやってるんだろうな・・・、そんなこともちょっと頭をよぎった。
う~ん、ま、夜はこれからだ。(は/165)

■ポロトコタン

2015年10月07日 | 北海道・広島


先月初めて白老に行った。飛生のアートキャンプに参加するのが目的だった。
白老(しらおい)は、昔からアイヌの住んでいた場所で、いまでも多くの人たちが暮らしている。
そこには、ポロトという湖があり、その湖畔にアイヌ集落の再現がされ、民族博物館が併設されている。そこは「ポロトコタン」と呼ばれている。
ポロトとは、「ポロ」=大きい、「ト」=沼・湖、という意味で、「コタン」は集落なので、ポロトコタンとは、「大きな沼の集落」の意である。

ちょうど対岸には、「ポロト温泉」というのがあり、そこそこ知られた掛け流しの温泉だという。
実際、入ってみたけれど、結構熱いので、ダランには向いていない。泉質はアルカリ性で、肌はすべすべするものの、手ぬぐいが茶色くなってしまうような湯だった。ひなびた感じがなんとも素朴だ。


ポロト湖の対岸にアイヌの「チセ(家)」が見える。




ポロトコタンは、基本は観光客を対象とした博物館施設である。だから、敷地内には、博物館や民家などの他に、休憩所やアイヌの野草園、熊や北海道犬が飼われていたりしていた。
熊はまったくやる気が無く、エサを筒から流しても、起きようともしない。うまく口に入れば食べるものの、それ以外動こうとはしない。ま、もともと省エネ生活をしているんだろうけれど、もう少し運動した方が代謝が上がるんじゃない?
北海道犬は、「ユメ」という名前で、なんと某携帯CMの白戸さんでお馴染みの「カイ」君の娘だそうだ。上戸彩以外に隠し子がいたとは知らなかった。


やる気なさろう。


ユメ。


他にも松浦武四郎の碑など、いろんなものがある。
松浦武四郎は、江戸から明治に生きた探検家で、当時の蝦夷をくまなく探索した北海道の命名者である。最初は「北加伊道」としたそうだが、それが後に「北海道」に修正されたという。
もともとは、伊勢松坂の人だったらしいが、蝦夷に入り、アイヌと深く親交をもったという。一畳敷という有名な茶室がICUに保存されていて、それを現代に模した展覧会をいま広島で企画監修しているギャラリーでやっている。
これを企画したのは、北海道出身で武蔵美卒の倉島さんという女性で、最初はどうなるかとおもっていたけれど、ま、いろいろあった挙げ句、でも展覧会だけは成し遂げた粘り強い女性である。




松浦武四郎。


広島の一畳敷の展示。飛生キャンプ主催者の国松さんの作品も展示されている。


それはともかく、休憩所ではアイヌのお茶とお菓子をいただいた。
休憩所は、湖畔に面していて、気持ちの良い場所である。人は昔から水の近くじゃないと暮らせなかったんだろうね、ま、そんな環境です。
と、狩猟民族だから船も必需品だ。「チプ」というらしい。
基本は、丸太をくり抜いた丸木舟で、伐採のときにお祈りし、この舟が水面を走るときに美しい女神に見えるようにするとカムイ(神)に約束するという。
アイヌの人と文化にとっては、なにをするのにも、どこにでもカムイはいるのだ。






お菓子は「ペネイモ」と呼ばれる伝統的なお菓子だけれど、このお菓子については、先日アイヌ文化財団の方に散々聞かされていたのでよく覚えている。お菓子といっても実際はイモで、冬の間、屋外で何度も凍らせたり解凍したりしてできたイモを水にさらして砂糖を加え、それを焼いたものらしい。
だから一年中あるというものでもないし、アイヌの人たちの楽しみのひとつでもあったと聞く。ちょっと似てはいるけれど、ドーナッツのように甘いわけではなく、素朴なお菓子だ。
お茶は、「エント」という植物の葉らしい。お土産にムックリ(口琴)と併せて一つ買ってみた。


興味津々で食べてから写真を撮り忘れたことに気づき、メニューの写真で、すみません。


かみさん用のお土産。ベジタリアンでも大丈夫だ。


このポロトコタンには、「チセ」と呼ばれる民家の再現がされていて、中では語り部の話やトンコリ(五絃琴)やムックリなどの演奏、イオマンテリムセ(熊の霊を送る儀式)や古式の舞踊や子守唄などいろんな生活文化の一面が観られるようになっている。
ただし、もちろん技量はあるとしても、なんとも可哀想なくらい覇気がないというか、見世物みたいになっていて観ている方も辛い。おかげで写真も撮る気がしなかった。
もちろんこれも仕事ということだろうけれど、もともとがバリの人たちのように陽気に割り切ってホスピタリティに溢れる稼ぎにしてしまえる民族文化ではないのだろう。そう、もともとエンターテイメントではないのだから、力が入るわけがない。
「サッチェプ」というらしいが、天井から吊られて燻されているシャケが痛々しい。






かつて北海道では米が作れなかったので、アイヌの人たちは、和人と交易し、シャケを米や酒と交換していた。そのとき和人の商人たちは、アイヌにある数え方を教えたという。
まず、「ハジメ」というのがあり、途中で「ナカ」というのが入り、最後に「オワリ」というのが入って、本来10尾のはずが、結局和人たちには13尾のシャケを手に入れることができる。これを「シャモ勘定」というそうだ。「シャモ」とは和人のことだ。
差別のあった時代の哀れな話のひとつだ。でもこういう話はまだまだたくさんある。

この施設も税金でつくったものだ。文化の保存やそれを伝承すること、または理解を深めることは大切とおもうが、悪気は無いにせよ、所詮、役人の書いた企画の延長だ。生きたものにするのは容易ではないだろう。
熊たちもそうだったが、本来あるべき姿とは随分遠くへ来たもんだ、とおもっているのではないだろうか。いったいどこで間違えたのか・・・。

それを取り戻そうとしているのが、これから行く「飛生アートキャンプ」でもある。夜通し、祭りのような豪快なイベントが繰り広げられる予定だ。体力いりそうだけど・・・。(は/164)

■温泉とインドカレーの謎めいた関係

2015年09月14日 | 北海道・広島
心配していた台風も去り、小原のワヤンもうまくいってよかったね。

こちら、今回の札幌もかなり難しい展示ながら、なんとか無事終了し、あまりに疲れたので、日帰りで近郊の温泉に行った。
「豊平峡温泉」。市内を流れる豊平川の上流にあって、そういう名前らしいが、実は読み方が違う。
札幌市内にあるのは、「豊平区(とよひらく)」であり、「豊平川(とよひらがわ)」だけれど、ここは「豊平峡(ほうへいきょう)」というそうだ。理由はわからない。昔からそういうのだそうだ。
でも、温泉はなかなかいい。ダランも好きなややぬる目の大きな露天風呂に、風情ある木造の大きな内風呂、ひなびた風情は、ある意味、絵に描いたような温泉でした。


入口の看板は風格が漂う。


この階段を上りきったところに、風呂がある。
だから、露天風呂は高いところにあって、周囲の環境がいいのだ。夜だったけど。


で、山間の典型的な温泉というなかで・・・、ただ、ひとつだけ違ったのは、奥様は魔女・・・、ではなく、料理がインドカレーだったということ。
温泉には、レストランが付いていて、それだけ食べに来る人もいるらしい。名前も「ONSEN食堂」。ややチープだけれどインターナショナルな気配を漂わせている。
メニューは、名物インドカレーに、十割そばとジンギスカン・・・。う~ん、山だからそば、北海道だからジンギスカンはいいとして、温泉にカレーかぁ・・・。なんとも調和がないというか、風変わりというか、ミスマッチというか。
でも、ここの料理、案外本格的なのでした。とくにナンがなんともいい味だしている。僕は当然、好物の「キーマカレー」にナンとラッシー。健康的というのかどうかはわからないけど、妙な感じ。


入口にあったインドカレーのメニューサンプル。


チケットを購入し、あとは全部セルフサービス。


注文した「キーマカレーとナン」にラッシーのセット。

でまあ、ちょっと不思議におもい温泉の人に尋ねてみたところ、当然、もとともはカレーを出していたわけではなく、札幌にあったインドカレーの店が店じまいし、路頭に迷って困っていたネパール人とインド人をオーナーが引き取って、こういうことになった次第と言っていた。
それが結果、名物になってしまい、若者や形式にこだわらない外国人など、たくさんの人が来るようになった、ということ。ある意味、北海道らしい。
でも、このオーナーの心意気が、そういう中興の芽を生んだわけだ。やっぱり人間万事塞翁が馬、だね。
まだまだ北の国には不思議なものがある・・・。


露天風呂は、ライトアップされていて幻想的。



ところで、今回の展示は、地元美術館で開催されている「スイスデザイン展」にちなんで、「アトリエ・オイ」というスイスのデザイナーに依頼したもの。
旧知の代表のパトリックが来てくれて、一緒に展示をした。展示そのものは電気や機械が入るので、結構面倒なセッティングだったけれど、スイス人にしては明るい性格の彼とはとても楽しい設営ができた。そう、英語圏以外のヨーロッパ人の英語はとてもわかりやすくて、コミュニケーションがスムーズなのだ。
彼は気さくだけれど、いま、世界中で引っ張りだこの売れっ子デザイナーのひとりでもある。


子供は万国共通。不思議なものや動くものには必ず反応する。


これ、機能はないけれど、1枚のレザーをカットしただけで、その中央をつり上げるとヘンテコな形になる。
上に機械体がついていて、それが上下すると、いろんな形が立ち現れるという仕組み。
動きのある展示は面白い。



天井から下げてある布も、一枚の布をカットしただけで立体になっている。
これも上に機械体が取り付けてあり、それが回転して、いろんな形や影が変化する。
「ダンシングスカート」という作品名。
ルーツは、スーフィーダンスかとおもって訊いてみたら、やっぱりそうだそうだ。


撮影:Kenzo Kosuge


講演会にもたくさんの人が来てくれて、とっても盛況でした。素材にヒントを得る彼らのデザインアイディアはとっても素晴らしい。少しは見習わないと。
今回は、偶然別件で、建築家の安藤忠雄さんやアーティストの日比野克彦さんも滞在していて、札幌はやっぱりいろんな人が行き交う大都市だ。


撮影:Kenzo Kosuge


日比野さん。一緒に散々飲んだあと、会場に寄ってくれた。これですでに午前3時。
撮影:Kenzo Kosuge


パトリック。


それにしても今回は、なんだかカレーばっかり食べていたな。(は/154)



昼も例の「印度」という店でカレーだった・・・。



■民謡競演と広島の夜-(広島1508-2)

2015年08月26日 | 北海道・広島
そうね・・・気づいたら秋、なんてこともある。一雨ごとに涼しくなってきた。台風の被害にあった人はたいへんだ。大丈夫だろうか。




昨日のつづき。
睦稔さんの講演会のゲストは、JAZZミュージシャンの坂田明さん。
坂田さんは沖縄や三味線の澤田先生と木津さんのライヴとか、別の機会のパーティやタモリが乾杯をやった結婚式にも来ていたり、なにかと縁がある。そういえば、その披露宴には、大木さんも中平さんも来ていた。

今回の目玉のひとつは、坂田さんと睦稔さんの民謡のかけあい。
坂田さんはNHKの「わが心の旅」でも披露したけれど、独自な民謡の歌い手だ。その坂田さん流の民謡と睦稔さんの沖縄民謡を同時に歌うという企画。
でもそれぞれが別の民謡を歌っているのに、不思議なことに、それがピッタリ合うのだ。




リハ中の睦稔さんと坂田さん。リハとはおもえない真剣さ。何事も手を抜かないのがプロだ。


という次第で、前半は坂田さん中心のライヴ。
圧巻は、最近、十八番(おはこ)になりつつある。「死んだ男の残したものは」のアカペラである。
「死んだ男の残したものは」は、谷川俊太郎さんの詩に、故武満徹さんが1日で曲をつけたというベトナム戦争反対のためにつくられた歌である。
いまでは多くのシンガーによって歌い継がれている反戦歌だ。谷川さんもすごいけど、一日で曲をつけた武満さんもすごいね・・・。

  死んだ男の残したものは
  ひとりの妻とひとりの子ども
  他には何も残さなかった
  墓石ひとつ残さなかった

  死んだ女の残したものは
  しおれた花とひとりの子ども
  他には何も残さなかった
  着もの一枚残さなかった

  死んだ子どもの残したものは
  ねじれた脚と乾いた涙
  他には何も残さなかった
  思い出ひとつ残さなかった

  死んだ兵士の残したものは
  こわれた銃とゆがんだ地球
  他には何も残せなかった
  平和ひとつ残せなかった

  死んだかれらの残したものは
  生きてるわたし生きてるあなた
  他には誰も残っていない
  他には誰も残っていない

  死んだ歴史の残したものは
  輝く今日とまた来るあした
  他には何も残っていない
  他には何も残っていない


その後、睦稔さん、坂田さん、大木さんの鼎談。広島、沖縄、平和、歌、音楽、自然、感覚、祈り・・・話はどんどん飛んでいく。でもやはり睦稔さんの力強い語りは説得力ありました。

無事終了、あとは、例によって、ギャラリースタッフも交えて、関係者打上げ。
睦稔さんは、伊是名島の出身。今後、祭りのときにみんなで行く話になった。
ダランの家もそろそろ引越が近い、らしい。だんだん沖縄に行く機会も少なくなるんだろうか・・・。
で、ま、いつものように、一次会、二次会、三次会・・・一人減り、二人減り、最後はやっぱり、僕と大木さんと坂田さんでした。何時だったろう? 広島の夜は暑くて長い。(は/144)



■命と魂の版画-(広島1508-1)

2015年08月25日 | 北海道・広島


夏休み中だったけど、お盆直前に広島に行ってきた。
目的は、ギャラリーの展示と記念講演。今回は、沖縄の木版画家名嘉睦稔さんに個展をお願いした。
2月に南風原ワヤンのとき、(か)さんと一緒に「ボクネン美術館」に訪ねて行ったのは実はこのためだった。昨日のことのようでもあるし、ずっと昔な感じもする。しばらく沖縄には行ってないし。

睦稔さんは「作家」なので、ノリが悪いと創作はしないそうで、スタッフもあまり制作等の予定は立てられないと聞いたけど、今回はノリがよかったのか、広島に関して3作の新作をつくってくれた。額装が間に合わず軸装になってしまったけど、迫力の三部作だ。


ポスターにも採用の「響む太陽子」。
版木で刷ったものに裏から彩色する技法なので、版画とはいえ、実は世の中に同じ物はひとつもない。



今回のための新作三部作。



やや個人的な話も入るけど、睦稔さんを最初に知ったのは、龍村監督の「ガイアシンフォニー第四番」の試写会だった。
ガイアシンフォニーは、龍村仁さんが心血を注いでできたドキュメンタリーのシリーズで、今年、8番が発表された。
この映画は、全部ボランディアというか寄付でできている。自主上映しかやらない。そういう支持者が全国にいて、それぞれが場所を借りて自主上映を開くというやり方なのだ。
だから、一連の作品は、いわば共感者の「草の根ネットワーク」で構成されているムーブメントでもあるのだ。

龍村さんはもともとはNHKの科学番組などを制作していた有能なプロデューサー兼ディレクターだったが、大きな組織とはそりが合わず、あっさりやめてしまい、独立した人である。
本人は細身でいたって優しそうな人だけど、内に秘めたものは極めて骨太で豪快だ。実家は著名な京都の織物の名家。かつてこのギャラリーでも展覧会をやってもらったこともある。



ナマ睦稔さんを初めて見たのも、かみさんと一緒に行った龍村さんのパーティだった。確か古希かなんかのパーティだったとおもう。
そのあとすぐに八重洲にある睦稔さんのギャラリーに行って、店長ほかスタッフの方と話をしたのが、その後ずっと経って今回につながったのだ。

実は、そこに行ったのは、ダランや沖縄とも縁がある。那覇のバー「土」を根城にしていて「モモト」という雑誌も編集しているウチナンチュー写真家の中程長治さんの写真展のオープニングがあったからだった。例の大西君も手伝いに来ていたらしいが、その日はすれ違い。
おもえば随分前の話のような気もするけど、出会いというのはその先どうなるかわからないものだ。




ガイアシンフォニーの第一番が世に出たのは92年だった。木内みどりさんがナレーションで、「ガイアの声が聞こえますか?」で始まる壮大な人類と地球の物語、その印象は鮮明だった。
そういえば、そこに登場した元宇宙飛行士のラッセル・シュワイカートが広島について語ったシーンがあったとおもうけど、だからというわけではないけれど、広島とも多少の縁がある。

「ガイア」とはギリシャ神話の大地の女神、要するに母なる地球の地母神の名前である。
いま一般に「ガイア仮説」や「ガイア理論」として知られている概念の名付け親ともいうべきは、この第四番にも登場するジム・ラブロック博士だった。「母なる地球はまるで生きている生命体のように自己調整とたくさんの生命を育んできた」、「ガイア・地球生命圏」は20代の頃はたいへん勉強させていただきました。

それとこの四番には、我が家でも尊敬を集めるイギリスの女性動物学者ジェーン・グドール博士も登場する。
若くしてアフリカに渡り、あらゆる当時のアカデミックな枠組みや思考方法を取り払って、本来の自然と向き合った素晴らしい女性研究者で、おそらく野生のチンパンジーと心を通わせた最初の研究者でもある。チンパンジーの鳴き声を再現できる稀な人だ。我が家にも二冊ほど著作があるが、本もいいけど映像と生の声がとってもよかった。

そこに登場したのが名嘉睦稔さんでだったのだ。一旦制作を始めるともの凄い勢いで彫り上げる。沖縄の自然を体いっぱいに受け止めてものをつくる姿が独特のオーラを秘めていた。




龍村さんとJ.グドール博士。
こういう人たちばかりなら、地球ももっとよくなるとおもうけど・・・。
二人とも若い。
(ガイアシンフォニーHPより)



で、今回は、スペシャルトークのために、わざわざ広島まで出向いてもらったという次第。
スペシャルなだけあって、JAZZミュージシャンの坂田明さんとの競演ということに相成った。坂田さんは広島出身ということもあり、何度か関連企画で来てもらっているお馴染みだ。

そこに加わったのが、両者共通の知人兼このホテルの音楽文化イベントのプロデュースをお願いしているレディ・ジェーンの大木雄高さんである。
レディ・ジェーンは、下北沢の老舗ジャズバーで、週に一度、いろんなライヴもやっていて、ま、下北の影のドンのような人だ。
もともと演劇関係出身ということもあって下北なんだろうか・・・は、わからないけど、70年代から下北ロックフェスティバルやいろんな反骨運動もずっとやっている。いまは下北再開発に猛反対していて、そのリーダーと目されている。この人相手だと小田急もたいへんだ。
ジャズでいえば、新宿DUGの中平さんと下北の大木さんを知らないと生きていけない。ま、そういう人です。

実はこの人も広島出身。そういうこともあってプロデュースをやってもらっているわけですが、毎回の出演者はとってもすごい、んですけど、ややマニアックで・・・。
ホテルのオープニングのときは、山下洋輔さんやかみさんの旧友でウードを弾かせたらこの人、常味裕司さん(先日武蔵美のなかむらとうよう展にも出演していたけど)やロマバイオリンの雄、太田敬資さんなんかにも来てもらい盛大だった。
結局朝まで飲んでたのは、大木さんと太田さんと僕だけだったけど・・・。
その後も、小室等さんや谷川俊太郎さん、あまちゃんの大友良英さんも来てもらったし、今月は渡辺香津美さんでした。
それもなんだかんだもう10年目。早いものだ。


で、今回のスペシャルイベントは、広島ということもあるけど、まあそういう人たちなので、それは小さな平和集会のようでもありました。長くなったので、その顛末はまた次回。
でも、ま、濃かったです。やっぱり広島の夏は暑い、のでした。(は/143)


左から、坂田明さん、名嘉睦稔さん、大木雄高さん。
一見、みんなワル、な感じ。
でも、そういう人たちこそ自由だったりする。