日本と北朝鮮には国交が存在しなかったため、日本赤十字社(日赤)と朝鮮赤十字会(朝赤)によって実務が行なわれた。1959年12月14日に最初の帰国船が新潟県の新潟港から出航し、数度の中断を含みながら1984年まで続いた。93,340人が北朝鮮へと渡り、そのうち少なくとも6,839人は日本人妻や子といった日本国籍保持者だった。在日朝鮮人は日本から地理的に近い朝鮮半島南部の出身者が多かったが、そのような者にとっては、祖国ではあるが異郷への帰還となった。帰国船の費用は北朝鮮が負担し、事業の後期には万景峰号(初代)が使われている。日朝間を頻繁に行き来する帰国船は、北朝鮮による朝鮮総連への指導・連絡や日本・韓国への工作員送り込みにも利用された。
背景
在日朝鮮人
在日朝鮮人は、朝鮮半島の日本統治時代に様々な事情で日本本土へ移った者、韓国政府による虐殺(済州島4・3事件)から逃れるため、あるいは戦後に出稼ぎや朝鮮戦争の勃発などにより自ら密入国し、そのまま日本に居留した者が多かった。そうした人々の中には、日本人と同様に朝鮮特需などによる恩恵を享受した者もいたが、依然として生活に困窮する者も多かった。特に1956年の生活保護費の削減と1957年から翌1958年にかけてのなべ底不況は貧困層の生計を直撃していた。
在日朝鮮人の間では、朝鮮戦争による荒廃からの復興が進まず、また政情不安を理由に、韓国への帰国を不安視する一方で、社会主義体制のもとで千里馬運動により急速な復興を実現したとされていた北朝鮮への憧れもあった。当時、北朝鮮と韓国の体制間競争は北朝鮮が優位に立っており、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人・革新政党・革新団体が繰り返し北朝鮮の経済発展の様子を伝え、在日朝鮮人に帰国の決意を促した。特に北朝鮮を訪問して礼賛した寺尾五郎の『38度線の北』は、帰国希望者に大きな影響を与えたといわれる。
当時の日本における民族差別も、特に子供の教育や将来を見据えたときに、帰国を選ばせる一因となった。これらの社会的な背景が、爆発的な運動の拡大をもたらしたとみられる。
北朝鮮
北朝鮮は日本との対話チャンネルを確保し、国交正常化のきっかけとしたいという思惑があった。同時に進められていた日本と韓国との国交正常化を牽制する目的もあった。在日朝鮮人の「北送」を理由として、日韓会談は一度ならず中断している。
冷戦時代、資本主義国から共産主義国への集団的移住には、体制の優位性を宣伝する効果があった。北朝鮮は帰国事業を推進する過程で朝鮮総連を指導下に置く一方、事業を推進した日本側支援者を通して北朝鮮の「実績」を宣伝することで、北朝鮮支持の運動を日本に広めることができた。
日本
日本は人道問題として、政治的問題とは切り離して扱い、在日朝鮮人の帰国意思を尊重した。しかし一方で「厄介払い」の側面もあった。在日朝鮮人には就労機会の困難さなどから生活保護を受ける者が多く、1958年10月時点で8万1千人、在日朝鮮人全体の13.3%とされる。これは日本人受給者の受給率1.8%を異常に上回っていた。彼らが日本を去ることによって社会保障費を削減することができた。また在日朝鮮人の犯罪率が非常に高く(当時の日本人の6倍といわれた)、戦後の一時期に在日朝鮮人が日本共産党の指導下で暴動事件をしばしば起こしていたことから、彼らを帰国させることが治安向上につながった。
日本側の呼びかけ人になったのは日朝協会で主導的な役割を担っていた社会党議員、共産党議員だけでなく、小泉純也、鳩山一郎など自民党議員も加わっており党派の枠を超えて推進された。社会党系・共産党系の関係者が帰国事業に取り組んだ背景には、北朝鮮の社会主義を宣伝することで、日本における政治的影響力の拡大を狙った所が大きい。
韓国
韓国は朝鮮戦争による戦災から未だ立ち直っておらず、農村部を中心に過剰な人口を抱えていたために在日朝鮮人の受け入れには消極的だった。また帰国事業については「北送」と呼び、在日朝鮮人に対する自国の管轄権を侵すものととして、在日本大韓民国民団(民団)とともに強硬に反対した。1959年、日朝両赤十字社による交渉の進展が明らかになると、韓国は日韓会談(第4次)の中止や日本人漁夫抑留の継続、貿易断交などを宣言し、日韓国交正常化交渉は一時中断状態に陥った。同時に、大量のテロ工作員を日本に送り込み爆破テロを企てた(新潟日赤センター爆破未遂事件)。
韓国のこのような反発は、居住地選択の自由という人道主義を尊重する国際社会からの支持を得られなかった。その後、韓国は北朝鮮に対抗して、韓国への帰国事業を進めようとしたが、帰国や定住に関わる費用を日本に負担するよう求めたため、実現しなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/在日朝鮮人の帰還事業
他には-------------------------------------------------
四十七士討ち入りの日、義士祭(東京都高輪泉岳寺)、赤穂義士祭(兵庫)
▲平清盛の女徳子、法皇の猶子として入内(1171)
▲大石良雄以下四十七士が本所の吉良上野介邸に討ち入り(1702)
▲中学校令改正で男女別学となる(1891)
▲Commercial Pacific Cable Companyがサンフランシスコとハワイを結ぶ初の太平洋横断電信ケーブルを敷設。(1902)
▲ライト兄弟が動力航空機による初飛行に成功。約3秒半、35mの距離を見事に飛翔(1903)
▲徳川好敏陸軍大尉が日本初の飛行実験に成功。(1910)
▲ノルウェーのアムンゼンと4人の隊員が南極点初到着(1911)
▲第二次世界大戦・冬戦争: 国際連盟がフィンランド侵攻を理由にソ連を除名。(1939)
▲国連総会で、アジア・アフリカ43か国の提案による植民地独立付与宣言を採択。(1960)
▲アメリカの金星探査機「マリナー2号」が金星に最接近し、史上初の惑星フライバイに成功。(1962)
▲ボクシングで世界初の日本人同士のタイトルマッチ(1967)
▲全日空の日本航空機製造YS-11型機と読売新聞社のビーチクラフト機が淡路島上空で接触事故(全日空機淡路島空中接触事故)。(1969)
▲アポロ17号の乗員が月面での最後の船外活動。(1972)
▲豊川信用金庫事件。女子高生の冗談が元で豊川信用金庫で20億円の取り付け騒ぎが起こる。(1973)
▲石油ショックで民放5社深夜放送自粛決定(1973)
▲現代国際法上の侵略の定義に関する国連総会決議3314が採択。(1974)
▲最後のSL、国鉄室蘭本線で走る(1975)
▲イスラエルでゴラン高原をイスラエルの民政下に置くゴラン高原法が成立。(1981)
▲日本が米輸入の部分開放を決定、米の自給体制が終結。(1993)
▲日野OL不倫放火殺人事件がおこる。(1993)
▲ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: 紛争3か国が和平協定「デイトン合意」に調印。(1995)
▲1996年に焼失していたヴェネツィア・フェニーチェ劇場が再開場。(2003)
▲ミヨー橋が開通。主塔の高さが343メートルの世界一高い橋。(2004)
▲キューバとベネズエラが米州ボリバル代替統合構想(ALBA)を結成。(2004)
▲モナコ公国と日本が外交関係を樹立。(2006)
▲ルネサンス佐世保散弾銃乱射事件がおこる。(2007)
▲欧州の高速鉄道初となる日本製車両、「クラス395」がイギリスで本格運用開始(2010)
▲海王星が、発見された1846年9月23日の位置に初めて戻る。(2011)
誕生:ノストラダムス(占星術師1503) リー・レミック(女優 1935)
ジェーン・バーキン(女優 1947) にしきのあきら(歌手 1948)
世良公則(歌手 1955) 高野寛(歌手 1964) 高木希世子(タレント1968)
誕生花:松 (Pine) 花言葉:勇敢