watabatakeのブツブツ

watabatakeの日記っす
日々思う事をブツブツと
【Twitterばかりっすね】

2008-06-29 | Weblog
大阪狭山市で狭山池を愛し、音楽を愛す、素晴らしい方の
是非の声に第13回さやま合唱祭に「うどぃ」出演させていただきました。

子ども達の若い精一杯の歌、踊りに会場満員のお客様から
力強い、心暖かい拍手をいただいたこと、本当にありがとうございました。


ただ一言気になった言葉がある、もちろんそんな気は毛頭ない事は
重々承知なのだが....

「大阪狭山の為に、今後の活躍を........」

太平洋戦争時、「愛する者の為に、愛する国の為に」のスローガンのもと
戦争を美談に置き換えて
多くの若者が、武器を持たない民間人が国家に命を奪われた。

私は、大阪狭山の為にこの活動を手伝っている気はない。
がんばる、輝くこどもたちがさらに輝くためのお手伝いをしている。

どの活動にしてもその考えを持ち続けたいと思う。

個一人一人を大切に思う気持ち
個一人一人の素敵な笑顔がいつまでも輝くように

今気づいた「為」
人べんがつくと「偽」いつわりという文字にかわること

2008-06-28 | Weblog
昨夜は、街を思う地域の方々のありがたいお話しを
たくさんいただきました。

今朝は、狭山池を思う方々の泥まみれになりながら
ゴミを集める姿に感動しました。
毎日、ここに訪れて掃除をしてくれる方にもお会いできて
幼い子ども達もお手伝い。
新しい世代のうどぃの仲間達も参加してくれて

夕方、うどぃのワークショップ
今日は、明日の出演のため2会場に分けて

近くの市役所からは、
「5時です。よいこのみなさんは、そろそろお家へ帰りましょう」
「大阪狭山の未来をつくる子ども達を守りましょう」
こんな内容(正確には自信が無い)の放送が流されていた

踊るのがうれしくてうれしくてとかわいい笑顔を見せてくれる娘
子どもがお世話になってますと荷物を届けに来るお母さん
国のあるお方に逢えるからと沖縄公演のチラシを取りに来られた学校の先生

大阪の北の街からこどもたちのためにとかけずりまわる若い市議
自分の街にもこんな中高生を育てたいと語っていた

くやしさに涙をこぼす女の子
それを支える仲間達

親にうどぃのことを一生懸命語る仲間

今年入った仲間達は、日を追うごとに力強い踊りを覚えて行く
始めての生バンドでの踊り。いい顔していた。

ずいぶんひさしぶりに顔を出してくれたドラムの女の子
演奏もよくなってたし、またはじける笑顔がかわいくて

気に掛けていた娘もまた すばらしい いい笑顔をみせてくれて

自転車のかぎのトラブル 
でもすぐフォーローしてくれる友達の優しいお母さん

気に掛けていた親子。二人仲良く街灯の下。

どんなドラマにも負けない優しさ・ストーリーに、
触れれた1日でした。


6月23日の事

2008-06-27 | Weblog
随分過ぎたからもういいか。ある方からおしえてもらった記事です。
以下引用

6月23日当時、日本軍はほぼ壊滅状態にありましたが、まだ武器を所持した兵は存在していました。その後も戦闘は長いあいだ続きました。たしかに日本軍による組織的な戦闘は縮小こそしましたが、戦争は継続しました。
問題は武器を持たない民間人、とくに沖縄の人びとです。
もしも、最高責任者の牛島司令官が、司令官の役割として、自らの責任で米軍に「降伏」して「戦闘の終結を命令」していたならば、その後の沖縄の悲劇は避けられたかも知れません。しかし、この牛島司令官には民の命を救うという気持ちはなかったのです。闘うための武器もなく、米軍に降伏して「生きる」ことを拒むよう強要され、多くの生命が6月23日以降も奪われ続けたのでした。戦闘を行えない民間人に対しても米軍の組織的な攻撃が終結せず、また「集団自決」という名の虐殺、沖縄の人びとに対する「スパイ」を名目とした虐殺が続きました。
なぜ敗北が明らかになった後で、恐ろしいまでの悲劇がやまなかったかの秘密こそが「慰霊の日」の6月23日にあります。
牛島司令官は「石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と命令を発し6月23日午前4時30分、摩文仁の軍司令部壕において、辞世の歌を詠じつつ「日本古武士の礼法に則って」切腹して果てたのでした。
牛島司令官の訣別の辞。
「……最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。」
辞世の歌。
「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん」
「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ 」。
6月23日。沖縄県は条例でその日を「慰霊の日」と定め、公休日としています。この日は「命」を尊ぶ平和の日ではなく、玉砕命令が出され降伏が禁じられた「命」を否定された日です。兵はもちろん武器もない民にも白旗を掲げて生きのびることが禁じられた日です。そして沖縄戦の最高責任者が自らの死でそれを示したのでした。
ですから、実際にはいわば「沖縄戦のA級戦犯の慰霊を行っている」日になっています。それが6月23日です。悲しく哀れな一日です。


その後、
8.31日野原岳洞窟司令部で「軍旗」、「御真影」「勅語」を 大本営の指示で焼いています。
10.1.現地招集兵が解除され家に帰されます。
9.7.嘉手納で正式降伏文書調印式を終えます。日本陸軍先島師団長納見敏郎らが調印します。
9.24.米国海兵隊2,000人を乗せたLSTが宮古に進駐し 日本軍の武装解除 

10.20.復員船が動き始め
21年2月まで宮古の将兵が復員するまで宮古では・・・12.13.納見敏郎中将が自決したり・・・します。


でも今でも米軍基地があり、人骨は散在し、不発弾の処理が行われています。

あなた達が訪れたガマの中でもしかしたら骨を踏んでいたかもしれません。

生存された方の多くが、身体にいくつもの戦傷を持ち、
ある方達は、何も語れず
ある方達は、語りにくいことなのに、語れば自分が苦しむ事なのに
それでも伝えようとされている方もいて、

8月どう、向かい合う? 仲間達

狭山池日記6/24

2008-06-24 | Weblog
ある件である事務所によりあるS-kou-kanへ
向かう途中の夕暮れの狭山池

沖縄の慰霊から龍神様お帰りのご様子
神秘的な夕暮れを見せてくれました。

今週末土曜日は、狭山池クリーンアクションです。
先日も書きましたが、土曜日6/27AM10時鳥居前です。

今回は、実はSP-Guestが来られると言う噂が...

あのS-ike Musiumやサントリーミュージアム天保山
淡路夢舞台、近つ飛鳥博物館を○計された
安○○雄先生も掃除に参加していただけるとか...

ぜひ、ご参加くださいね

でS-kou-kanに行くとべっぴんさん二人が
あれやこれやとしてまして

来週録音予定の新曲を聴かせていただきました。

もう、感動したな....

曲が始まったとたん、戦火の中 いつ止むともしれない
雨に打たれているハイビスカスが見えてきて

さすがこの二人や

言葉をつまらしながらロビーへ向かうと

オオー いてるいてる。元気そうでなにより。

自宅までボチボチ、目をまっ赤にして帰る
不審者1名でした。

7月の練習、涙拭き用のタオルかハンカチ別途用意の事


Blog復活しました。(ス・スマン)

2008-06-23 | Weblog
みなさん ちゃんと南に向かって手を合わせましたか?
6/23 沖縄は戦後63年の「慰霊の日」です。

Mixiではいろんな記事やコメント,日記が読めて
「慰霊の日」の背景を知ったり、優しいコメントに目が熱くなります。

その中で知った長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」
http://www.himeyuri.info/

見たいな、というか自主上映会をしたいとまで思わせます。

上記HPからのコメント(紹介)引用します

ひめゆり学徒 生存者からのメッセージ


 戦後、ひめゆりを題材に小説や映画が数多く世の中に出ましたが、
それらのほとんどがフィクションです。
実は、私たちはそれらが出るたびに、落胆し、憤慨していました。
(略)
この映画は、生き残った者の真実の叫びであり、亡くなった友への
心の奥底からの鎮魂の思いを綴ったものです。


内容は、ひめゆり学徒生存者が生の声で当時の様子を鮮明に語っている内容です。
制作に13年の月日をかけられて、その間に証言された方も亡くなられて

昨年記念館で買って来た証言集は、あまりのむごさに読み切る事ができていません



夏に十三ナナゲイでも上映予定みたいです。
(京都の方、今週末 京都シネマ6/28(土)&6/29(日)です)
(北海道の方、8月末です)
ひめゆり

Blogをしばらく休みます

2008-06-20 | Weblog
あ、ごめん。ウソでーす。
みなさんに協力してもらいたくて...スンマセン

うどぃのバンドメンバー「skydays」の このみ&あやみが
コンテストにエントリーしました!
パソコン、ケータイから一次審査の投票ができます
ので、ぜひ清き(汚くてもいいぜ!)一票を!。
毎日一票をいれられるらしい!!
ここをクリック



携帯の方は
http://www.smn.or.jp/ongakukoushien/m/yosen/07_kinki/1018.html

10代の高校生の繊細で傷つきやすい心の様子が唄われています。
とっても心を打つ歌です。4月6日の「飛夢」舞台でも歌われ
多くの人の心に響いた歌です。

ワシも大好きな歌じゃー。

レコーディングエンジニアが、またええ奴での~
(オーイ、コラコラ)
(ちょっと圧縮がかかりすぎで音質劣化しとるのー)

4/6来れんかった皆様。8/9も来られへん皆様。

インターネットでポンポンだけですので、ぜひぜひ宜しくお願いします。
狭山からまた一つ伝説を生み出す瞬間にご協力下さい。


音楽甲子園は投票によって全国大会に進めるようです。
ケータイサイトからも投票できます。

「ヤスラギ」の視聴と投票はここです↓
http://video.nifty.com/cs/ongakukoushien1/detail/1018/1.htm
みなさん、ぜひよろしくお願いします。
宣伝もよろしくじゃー
ヤスラギ

忘れずにここをクリック

携帯の方は

http://www.smn.or.jp/ongakukoushien/m/yosen/07_kinki/1018.html


1972.5.15

2008-06-19 | Weblog
日本政府主催の沖縄復帰記念式典は、
東京武道館と那覇市民会館で行われた。

東京武道館での記念式典で
時の首相は、「○○○○万歳」を三唱したという。
(○○は、わが国の象徴の方)

1945年4月本土決戦の防波堤でしかなかった沖縄戦。
1日でも長くとわずかすぎる兵力が県民の尊すぎる犠牲を
重ねたひどすぎる戦場。

沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である[3]。負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千。ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘もある。

6月23日午前4時ごろ(6月22日との説もある)に沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄における組織的な戦闘の終了を発表した。

最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。 wikipedea引用

まだ13歳の子どもが爆弾を抱え戦車に飛び込んでいったという。
手榴弾による強制自殺どころか、父が我が子、年老いた親にナタで斬りつけ妻さえも手をかけたと言う

日本復帰後も米軍基地問題を中心にさまざまな問題が残っていて
当時からの方々にとって戦争は、まだ終わっていないのではないだろうか。

ベトナム戦の際、爆撃機が100数十台沖縄の空を覆ったと言う。
ある碑の中には、未だに引き取り手の無い白骨が山積みされているという

不発弾の処理は年間800件は、超えると言う。
まだ3,000トン近くあるといわれ(1986年当時)
年間50トンの処理で60年以上かかると言われる。

書ききれない事件、圧政、事実
知らなかったでは、すまされない、忘れてはならない
ましてや書き換えてはいけない

今思う。参政権の意味を納税の意味を...
私もこの国の一端である事を

戦前の島に、平和の島に、戻る日は来るのだろうか

6月23日何を思う

狭山池日記6/17

2008-06-18 | Weblog
先日の花を写メしました
左>
こないだまで、腰まであるような
大きなきれいな黄色の花が咲いていた。

右>
この数日は、地べた近くに
小さな黄色い花が群生していて満開だ。

右上の方に紫の花が増殖中!

花の名前教えて!

あおくさい

2008-06-17 | Weblog
上戸彩のホカベン
キムタクのChange

若造ががむしゃらにまっすぐ向かってるの
ありえんと思いつつ、気持ちええよな

わしもまだあおくさいつもりやからのー
(加齢臭がきてても、頭薄くなってても、老眼がきてても)

昨日の高橋さんのセリフ「好きなカラオケは、ウルフルズです」

デビュー前、録音のお手伝いを
してきた者にとっては、めっちゃうれしかった!