3、学校で標準語を褒められる
大分に着いて新しく小学校に編入した私は、「東京から来た」ということで珍しがられた。正確には茨城県水戸市からだったのだが、ほぼ東京ということで先生がクラスメートに紹介したようである。ある日のこと、国語の授業で「標準語」の話が出た。当時はテレビも殆どなかった時代で、私たちは標準語という意味がよく分からなかったのである。そこで先生が私を指差して「〇〇君の話している言葉が標準語です」と言って実例を示したのだった。私も標準語という意味を分かってはいなかったので、キツネにつままれた気分だったのを覚えている。私の喋っていたのは標準語じゃなくて茨城弁だったと思うのだが、多分先生も大分出身だったろうから、東京と茨城の違いが良く分からなかったのだ。但し標準語を喋るからといって、周りの私を見る目が変わったということはなかったと思う。誰も標準語のことなどはすぐに忘れて、以前と同じように野山を駆け回って遊び呆けていた。当時は今と違って、東京は遥か遠い所だったのである。
4、試験
ある時最終時限にテストがあって、出来た子から帰っていいことになった。皆んな早く帰りたいので急いで書いていたが、一番乗りで意気揚々と答案用紙を提出しにいった生徒は答えに間違いがあったのか、スゴスゴとまた自分の机に戻っていった。私は2番目だったが全問正解したので、たった一人誰もいない校庭に出て周りを見回しながら「やったぜ!」と喜んで帰っていったのを覚えている。私が校門を出ても誰も校舎から出てこなかったので、多分全問正解は私だけだったのだろう。もちろん塾なんてものは全く想像もしていない頃のこと。小学生受難の時代はもっとずっと後のことである。
5、少年野球
日曜日など、いつものように近くの空き地で子供等が野球をしているのを眺めていたら、たまたま休みで一緒に見ていた父が子供達に声をかけ「打たせて貰った」ことがあった。折角打たせてくれるのだから思いっきり振ればいいものを、私は見逃しばかりで「一回もバットを振らずに」三振して戻ってきてしまった。だがそれでも父は何も言わずにニコニコ笑っていたように思う。私は運動神経が無くて走るのも遅かったが、父も運動は出来なかったんじゃないだろうか。運動オンチは父親譲りである。その後、学校で野球大会があって、クラスの2軍選手に選ばれた私は(つまり数合わせである)相手チームの「見てるだけ〜」というヤジに奮起して、闇雲にバットを振ったら三遊間をゴロで抜けてランニングホームランになってしまった。1軍の友人が飛んできて「やったね!」と嬉しそうに抱きついてきたが、偶然当たっただけの私にはそれ程の感激はなかったと記憶している。それ以来、野球は私には無縁のスポーツになったままだ。
6、クラスでディベート
その頃テレビのある家は珍しく、私は夕飯後にラジオで「赤胴鈴之助」を聞いて寝るというのが日課になっていた。ある時高台のクラスメートの家にテレビが来たというので、皆んなで庭先から画面を眺め「すごいね!、すごいね!」とワーワー騒いでいた思い出がある。大分にもこの頃ようやく電化の波が押し寄せてきたのだった。そんな中、たまたまクラスでディベートの授業があって、日本家屋と西洋家屋とどっちが良いかを議論したことがあった。「高台の子」が西洋家屋は暖房効率が良いと意見を言ったところ、なんだか日本が「負けたような」気がした私は猛然と日本擁護にまわり、むちゃくちゃ言って頑張った。結局先生が高台の子を勝ちとして私は不満気に引き下がったのだが、その後その子とは「妙に馬が合って」仲良くなった。その人の人格と意見とを「きちんと分ける」ことが出来る私は、ディベートには向いているのかも知れない。意見とは、情報を収集し分析して導き出した答えである。それは「その人の優しさや暖かみ」といった人格とは別なのではないだろうか、そう私は感じている。
7、腸チフスで九死に一生
小学校3年の夏、私はスイカを台所のふきんで絞って「スイカジュース」を作って飲んだことがあった。当然それから程なくして40度の高熱が出て、父の知り合いの病院に入院することになった。ところが医者が見立て違いで栄養不足と診断し、治療法を誤ってもう少しで死ぬ処だったらしい。そのせいで視神経に毒が回って目が見えなくなり、退院後もずっと失明状態だった。当時、母が縋る思いで駆け込んだ「鍼灸の治療」が効いたのかどうかわからないが、ようやく私の視力は0. 1位にまで回復した。家族皆んなが「もうダメだろうな」と見放していたのに、母だけが何とかして私の目を治そうと必死で努力し続けていたのである。奇跡はあったのだ。結局私は3年生の後半を休んだだけで、また学校生活に戻ることが出来た。母に心からの感謝である。
以上、大分の小学校時代の思い出の一部である。家の前の桜並木に登って遠くを眺めると、駅の向こうにポツンと「大分トキハ」の8階建て(位だと思うが)のビルが見えて、その向こうにはボーッと霞んだ海がかすかに見えていた。いま思うと当時の大分は、平和で穏やかなとても住みやすい町だったように思う。出来ればもう一度、あの高台の場所を訪れて昔の思い出に浸りたい・・・。何故か歳を取ると幼い頃の景色が懐かしく心に蘇ってくるのであった。
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