明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

木曜日は歴史の日:古代史刑事(デカ)柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(21)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その6)白村江海戦・前編

2021-01-21 21:43:18 | 歴史・旅行

河村日下の壮大な毒の海に溺れ死にそうになってしまった私だが、先日ようやく一息ついて一条このみに戻って来た。研究者にはそれぞれ独特の世界観があり、一条このみもまた魅力ある説を展開している。特に彼女の説の魅力的なところは、倭国が奈良に引っ越してきた辺りの「考証」にある。まあそれは少し先のことなのでさておき、前回の続き「白村江」に戻ろう。白村江と言えば往時の太平洋戦争にも匹敵する国家の存亡を賭けた古代史最大の大海戦だが、何故か日本書紀は「素っ気ない」書き方で済ましている。この熱度の低さはどうした事だろう。少なくとも壬申の乱程度には書いても良さそうなのだが、書紀編纂者には「書けない理由」があった(あるいは書けなかった?)。

一般的にはここは「古代史学のコペルニクス」、 古田教授の言う「書紀編纂者の手元に資料が無かった」説が有力のようだ。つまり白村江の主体は九州倭国で、斉明・天智の近畿天皇家は殆ど参加していなかった、ということである。だから書紀編纂者は詳しく書けなかった。これはすなわち壬申の乱で勝利し、古事記を作らせた天武天皇は「倭国勢力ではなく、大和の地方勢力」だということになる(これは新しい見方だ)。古田教授は天智天皇側を「倭国と別の近畿大和勢力」とし、白村江の失敗は天智天皇の裏切りが原因だった、と書いている(そのように古田教授が書いている、と私は理解している)。ということは、天智天皇も天武天皇もどちらも倭国側ではなく、壬申の乱は「地方勢力同士の権力争い」だった、ということになる。いや待てよ、天武天皇の「削偽定実」という目標は、既に「何らかの歴史」が大和政権に作られており、それを正すことを目指していたのではなかったのか。つまり近畿天皇家の歴史書は、天智政権を太古以来連綿と続いている正当な皇統とした歴史書だったと言う事である。あるいはこれは、蘇我蝦夷が攻め滅ぼされて館に火を放った時、燃え盛る火の中から船恵尺が取り出したと言う「天皇記」なのか。どちらにしても倭国の歴史を正しく反映しているとは言い難い。だから天武天皇は「間違い」を修正し、「倭国の真実」を書こうとしたのである。・・・あれ?、そうすると天武天皇は「九州倭国側の人間」になってしまう?。それに現存する記紀は、倭国が完全に消し去られているではないか。一体、天武天皇の言う「削偽定実」は何を意味するのか、これが問題だ。

と言うわけで、問題の核心は要するに「天武とは何者なのか?」という問いに戻ってしまう。

一つは天武は大和地場勢力で、倭国配下の天智・大友政権を倒して大和王権を確立した、とする考え。この場合は天智天皇は倭国の部下だったが裏切ったとする。二つ目の見方は天武は九州地場勢力で、近畿大和政権の天智・大友勢力を倒して倭国復権を果たしたとする。この場合は白村江の記録を持っていた可能性が高いが、別の「うがった見方」をするなら、書紀は中国向けの歴史書だということも考慮にいれて、自分たちが「唐に楯突いた戦争」の記録は余り詳しく書かずに「ソッとして」おいた、と見る。まあ、出来れば「なかったことにしたい」位の勢いである。この場合は倭国復権というより全く別勢力の新政権ということになる。

更に突飛な見方であるが、持統・元明は天智天皇の娘ではなく、天武天皇・高市皇子・長屋王・大津皇子の系統とは別系統で、天武天皇の意に反して書紀を編纂・作り変えたとする。唐との関係修復を狙う持統・元明政権は、自国の黒歴史「白村江」をスルーした、という説もあるのだ。百家争鳴、答えはどうにでもなる。正解は今の段階では「これだ」とはっきり言えるだけの決め手はないのである。

白村江の問題は私的には、実際の戦闘の詳細よりも「天智天皇・天武天皇の出自」の解明が主だろうと思う。戦闘自体は中国側・新羅側を含め、大筋において記述に齟齬はなさそうだ。白村江は倭国が衰退し、その後「日本という新勢力」に主役の座を奪われる「キッカケを作った戦闘」と位置づける以上の価値は、歴史的にはなさそうである(戦記物のファンにすれば物足りないだろうが)。 考えてみれば、白村江は書紀の上梓720年より「たかだか60年前の出来事」だ。当然、その経緯が「まったく」分からなくなってしまったというほど昔の事ではない筈である。やはり何か「操作・作為」があったとするのが妥当だ、と私は考えている。天智や天武にしてみれば「積極的に参加していなかった戦い」としても、何しろ当時の倭国軍総出の決戦である。何らかの情報は、十分入っていただろうと思うからだ。

だから結局白村江は「白村江以降の政治問題」に集約される。ポイントは唐の派遣軍「郭務棕」の扱いと壬申の乱である。まあここは先を急がずに一先ずそれは置いとくとして、前回は白村江前夜の緊張した倭国情勢と天智天皇の動静を書いた。今回は「白村江と戦後処理」を調べるとしよう。

1、白村江
西暦661年正月、倭王サチヤマは百官を集めて「白鳳」と改元した。朝鮮半島ではそれに先立つ660年7月、新羅武烈王軍5万と唐の大総督蘇定方の水陸13万が百済泗泚城を挟み撃ちにし、百済義慈王以下1万2千を長安に連行してしまった。百済は破れはしたが残存兵達が集結し、唐将劉仁願が占拠する泗泚城を逆に包囲した。翌661年に城を奪回しようと攻め立てる残存兵に対し、唐は劉仁軌を送って又しても百済兵1万を殺した。だが百済義慈王の従兄弟の鬼室福信が中心となって残った兵を集め、泗泚城を望む周留城に立て籠もってあくまで抵抗を続ける構えだ。残存兵のリーダー鬼室福信は、ここで兵を束ねる支柱として「倭国に人質にいっている余豊璋」を呼び戻し、同時に援軍を乞う作戦を思いついた。西暦661年9月、倭王サチヤマは鬼室福信の願いを快諾し、余豊璋に狭井連あじまき・秦造田来津と兵5千を付けて送り届け、天子自ら船出を見送った(まるで見て来たような記述だがまあ良いだろう)。・・・ここで662年5月に大将軍安曇比羅夫が船1千艘で余豊璋を送り届け云々という「重複記事」が出てくるが、この辺は「後で詳述する」と一条氏は書いている。これは長くなりそうだ。それにしても、どうも書紀の記述はあやしい感じがしてきた。

次回は白村江の詳細に迫る。


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