明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

芸術についてのエンドレスな考察

2019-04-10 21:22:04 | 芸術・読書・外国語
芸術とは何か。我々マニアにとっては、分かっているようで分かっていない問題である。例として名前を上げたり作品を提示することは簡単だが、では何故それらが芸術でそれ以外がそうでないのかの線引きは、明確ではない。そこで私は、ある作家または作品が芸術である、というはっきりした物差しを見つけてみることにした。これは一つの挑戦であり、あくまで現時点での私の考え=到達点と理解して頂きたい。実は芸術についての総括的な判断基準を書き出そうと思ったのは2週間ほど前である。その後しばらくもやもやとしていたが、今朝方いつものように豆とポテトサラダと食べていたら、何となく書けそうなイメージが湧いてきたので書き出してみた。どこまで皆さんが納得できるような論理的展開を示せるか、まずはご覧になってのお楽しみということで始めてみたい。

1用途
まず作品が人間生活にどのように使われたかを考えると、原始時代はひとまず除外するとして、古くはエジプト・ギリシャローマの古い時代からつい最近まで、実用的な価値は求められて無くて、精神的なものあるいは目で見たり耳で聞いたりして、気持ちが良くなるエンタテイメントとして作られたことが分かる。娯楽的用途は神を喜ばせるものとして神事にもなり(あるいは逆か)、食料確保や戦争やその他生きるために必要な諸々のことを精一杯するなかで、芸術もまた「必要なもの」だったのである。そう、我々人類はパンのみで生きるにあらず、芸術もまた不可欠だった、ということか。何故自然の摂理はこのような不必要なものを作り続けたのかと言うと(私が思うに)、それは芸術が持つコミュニケーションが人類に必須だからである。人が人と出会った時、その相手が何を考え何をしようとしているのかを知ろうとする。それを知る方法がコミュニケーションなのだ。そして知ることが増えていくと、お互いに共通の事柄に出会う。それが「共感」である。そして何故か共感することが出来ると「気持ちが良い」のである。これは脳の神経細胞がドーパミンを放出するのだと思うが、人類に共通の生存本能なのかも知れない。人間は「群れ」て生活することで種の保存を計ったとも言える。つまり芸術は人間の本能である・・・ちょっと飛躍が過ぎた。とりあえず芸術は、人と人とを結びつけるコミュニケーションの一部として発達した、と言えそうである。

2機能
何かを見たり聞いたりして、そこに誰か「他の人の情報発信」を感じること、いわばコミュニケーションが成立するためには、製作者と鑑賞者が必要である。ある風景を見てそこに普段と違う何かを感じた場合、それを別の誰かに伝える一番初歩的な方法は「見て見て!」という幼児のよく言う言葉である。だが見てくれとせがまれた親のほうは何が面白いのか分からないので適当に返事する。これではコミュニケーションは失敗である。例えば風景の絵を描いて自分が感じたことを人に伝えようとすれば、その絵がどれほど実物にそっくり描かれていようとも「作者の気持ち」を正確に伝えることは出来ない。何故なら、先程のように同じ風景を見ている人でも何かを感じて共感するためには、その人も作者と同じ「何か」を既に感じていなければならないからだ。これでは芸術とはいえない。「あの山は面白い形をしているね、そうだね面白いね」で終わってしまう、ただの共感である。その共感が「普通の人にはない高い次元」のものであることが芸術には必要なのだ。では「普通ではない」感覚を、その感覚を持っていない鑑賞者に分かってもらうために何が必要かと言えば、風景をデフォルメするあるいは強調や消去や加筆することで「普通ではない風景」に書き換える必要があるのではないだろうか。いや、もっと現実的に言うならば、芸術の作者の見ている風景は「普通ではない」とも言える。写真が対象物を正確に写し取る機能は逆に、作者の意図を表現する為のデフォルメを出来なくしてしまうのだ。よく言われる言葉に「本物そっくり」とか「生き写し」だとか、如何に描かれた絵が本物と寸分違わぬ出来であるかを褒める言葉であるが、そのことが逆に作品を「芸術から遠ざけて」いて、最も大事なコミュニケーションが失われるのである。そういう絵画には鑑賞者はいても「作者は存在しない」。つまりその作者は見た通りのこと「以外は何一つ付け加えていない」からである。単なる対象物そのものを提示しているという点では、あれ見て!と叫んでいる幼児と何ら変らない。近頃流行りのインスタグラムで絶景の写真をアップしている人が多いが、感じ取るものは人それぞれというのでは芸術とはとても言えない。芸術は(時代によって多少変わることはあっても)共感・共有にこそ真の意味があるのだ。そこに生前は大した評価が得られないのに、死後高い芸術性を評価されるという現象が生まれる。

3技術と内容
絵画や彫刻は風景や人物が「実際に鑑賞者の目に見える」ことから、どれほど対象をそっくりに生き生きと描くかに焦点が当たってしまうのは致し方ない。絵画の技術は、人間がモノを見る時は脳が視神経を通って信号を受け取る段階で「処理」するために実際とは違う映像になる、という法則を逆手に取って作られている。つまり、実際にはあっても「脳の見ている絵に無い」ものは省略する、という体験に基づいた技術である。処理の方法は人それぞれだから、鑑賞者がその絵画を見ることによって「作者の神経細胞の処理方法」を知り、作者の表現する「何か」を追体験・推測することが可能になるわけだ。麦畑の上にカラスが舞う風景をゴッホは描いた。実際にはのどかな風景なのだろうが、ゴッホには、色使いといい青い渦巻きといい、「不安な魂」が飛び交う恐ろしい風景に見えていたのだろう。私は、ゴッホが心の中に見える風景をそのまま描いた、と思いたい。絵画は視覚を使ったコミュニケーションであるから、美味しそうなリンゴを描く時には「その美味しそうな」ところを表現しようとする。では、どうしたら美味しそうに見えるか。それは過去の体験により美味しいリンゴの特長は分かっているので、その特長を眼前のリンゴに当てはめて強調し当てはまらない部分は消去・加筆して、リアリティを残しつつ仕上げていく。出来上がった絵は「美味しそうなリンゴ」である。それ以上でもそれ以下でもない、だがこれを芸術と呼ぶには何かが決定的に足りないのである。技術は完璧だ。だが表現され、共感・共有されたコミュニケーションは「美味しそう」だけだというのでは、果物屋の宣伝ポスター以上のものにはならないのである。客がリンゴを買ってしまえば「用済み」なのだ。美味しそう「以上の何か」を表現しなくては、絵画の意味がない。技術は芸術に無くてはならないものではあるが、それだけでは芸術にはならないのである。それが新築の客間の壁に掛けるための絵と、芸術作品との「大きな差」である。音楽でも同じことが言えて、単なる騒がしい気分でノリノリに踊りまくる曲が技術的に完璧だとしても芸術とは言えないように、音楽でもただの楽曲と「芸術」とはある点で大きく違っている。

4芸術と作家
では何が「大きく違っている」ところなのか。それは、作家と鑑賞者の間に「一人の理想化された鑑賞者」が存在していて、その鑑賞者に作家が一心同体的に乗り移って渾然として制作したものが芸術となるのである。芸術かどうかは「その理想化された鑑賞者が」芸術かどうかである・・・ああ、これでは説明になっていない。ではもう少し説明を細かくすると、作家の意図を直接一般の鑑賞者が受け取るのではなく、一般の鑑賞者は、作家が「何かを作曲したり描いたりしている理想の鑑賞者」の存在を通してその作品を見ている、ということになるだろうか。つまり鑑賞者は「作品の指定する理想化された鑑賞者の目を通して、あるいは耳を通して」作品を鑑賞することで、自分にはない「鑑賞者=別人の感覚、を一時的に得る」形で芸術を鑑賞するのである。で、この「別人の感覚」がその人にとって「かけがえのない素晴らしい体験」であった場合に、それを芸術と呼ぶ、というのが私の芸術観である。間に入っている理想の鑑賞者がどれだけ深みのある心と感情の豊かな感性の持ち主を想定しているかによって、ワクワクする夢のような世界を見せてくれる人物だったり、または全然つまらない馬鹿騒ぎをする人物だったり、または「薄ぼんやりとしたとらえどころのない影の薄い」人物だったり、色々出てくるのだ。ここで言いたいことは、本当に感動するような芸術作品は、この「理想の鑑賞者を通じて」多くの人々に「共感・共有」することが可能であるということである。一般の鑑賞者は「理想の鑑賞者」の存在・目や耳を通して芸術を鑑賞していて、直接作家と自分とが交わるわけではないから、作品の印象は「限定的に狭められている」。だから雑多な種類の異なる性格・感覚をもった大衆の中でも「同じ感覚・共通のイメージ」を作り出すことが出来るのだ。その「同じ感覚・共通のイメージ」が、人間の持つ「善なるもの」の表現であると一般の鑑賞者が感じる度合が大きいほど、その作品はより素晴らしい芸術作品であると言える。

5理想化された鑑賞者とコミュニケーション
そろそろ結論を出す時だ。芸術とは、観客はその作品に一人の鑑賞者=人物像を思い描き、その人物像が作品を感じ取っている様を通して、つまり、その人物像とコミュニケーションを取ることによって作品を鑑賞・会話するものである。会話すると言ったが何も言葉だけが会話の道具ではない。音であったり絵画であったり、要するに「何かを伝達し合う」ことをコミュニケーションと私は考える。だから音楽だけに限らず絵画でも何でも芸術と言われるすべてのものと向き合う時に、そこにある「作品を感じ取っている人物像」と私は会話しているのである。その会話が楽しくまた実り多いものほど、素晴らしい芸術と評価されるのではないだろうか。冒頭に生前は評価されなくて死後高い評価を得たゴッホの事を書いたが、スタンダールもまた自身の作品について「死後50年経ったら評価されるだろう」と書き残している。生前は誰も評価せず一枚の絵も売れなかったゴッホだが、この「理想の鑑賞者」だけは彼の絵を気に入ってくれたのではなかろうか。作家と唯一コミュニケーションが取れた人物、それが架空の「作品の中にしか存在しない人物」だ、というのが私の密かに考えている芸術論である。別の見方をするならば、作家もまた一般の鑑賞者と同じ立場で作品を鑑賞する、と私は思う。

まあ、何を言っているかわからないと仰る人が大半だと思うが、芸術を言葉で語ろうとすること自体「無理な相談」である。ちなみに私は音楽なら何でも聞くが、本当に聞いていてのめり込むような気分になるのは「モーツァルトとショパン」だけ。この二人だけは、私にははっきりと「理想の鑑賞者」が見えるような気がするのだ。勿論それが現実のモーツァルトやショパンとは別人であることは言うまでもない、というのが今回の芸術論で証明されたのではないかと思っている。

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