明日香の細い道を尋ねて

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古代史喫茶店(33)最新の学説「邪馬台国の最終定理ー宮崎照雄著」を読む(その3)

2023-09-20 15:33:00 | 歴史・旅行

宮崎氏は魏使の行路を、従来読まれているように「書かれている地名の順番通り」に行ったと解釈するのでは無く、独自の理論で説明する。それは原文の書き方と後漢書や梁書などとを参照し、使っている文字つまり「又、去、復、自、至」などの筆法から魏志倭人伝が「順次読み」では無い事を論証した。

結論として宮崎氏の説は
① 魏使は壱岐から九州沿岸の国々を目視して書いている
② 末露国や奴国や不弥国その他は実際には行ってない
③ まっすぐ伊都国に上陸して逗留した
④ そして南にある女王国に下賜品を献上して
⑤ その他の傍国へは「次何々」と書いていて行かなかった
と言うものである。

これは斬新なアイディアで、宮崎氏は相当自信があるように感じた。しかし原文を読んで「中国人がどう感じるか」が一番なので、出来れば中国人の意見を聞いてみたいところである。日本語に訳した文章で感じたところでは、始めて海を渡り~で対馬、同じくまた海を渡って壱岐、そしてまた海を渡って末盧国(つまり末盧国に上陸)・・・という風に読むのが素直な読み方だ。上陸地点を末盧国とするこの読み方は、邪馬台国がどこにあったか問題が論じられた「最初から今まで」誰もがずーっとそう読んできたのであり、これについての疑問は「宮崎氏が初めて」である。

それに半島の帯方郡と倭国とは普段から行き来があって、行路自体は「衆知」の事実であるから、壱岐から遠くの陸地を眺め、改めていちいち末盧国は何々奴国は何々と「方角を書く」必要は無いのではないだろうか。末盧国に行く方角は「対海国や一支国」と同じ方角の「南」であることは自明なので、わざわざ書いてないのだろう。もし宮崎氏の言うように壱岐から末盧国・伊都国・奴国などが「見えている」のであれば、末盧国ではなく奴国でもなく「伊都国に上陸」したと明記する筈だ。そして、行ってもいない末盧国(しかも草ボーボーの未開地)から伊都国が東南500里などと「わざわざ距離を書く理由」も無いように思う。ここは伊都国が「見えている港の中のどれなのか?」さえ分かれば良いのだ。宮崎氏の読み方では、そこがはっきりしていない。やはり宮崎氏の説明は「ちょっとムリ」かなぁ。

ここで昔読んだことがある邪馬台国研究の第一人者・古田武彦の「邪馬台国は無かった」を取り出して、同じ個所をどう解釈しているか読み直してみた。古田氏は魏使の旅程を対馬から壱岐を経て末盧国に行く、と解釈している。ただ、その後「奴国や投馬国」にはそういう国があることだけ書いていて、実際には「行ってない」としている。奴国と投馬国は戸数が大きいので参考に書いてあると解釈した。一応筋が通っている。つまり魏使の行路は、末盧国ー(500里)ー伊都国ー(100里)ー不弥国ー(里数なし)ーそして女王国である。不弥国から「南至」とあって「里数」が書いてないのは、邪馬台国が南にすぐ隣接しているからだと古田氏は説明した。宮崎氏は古田氏の事には触れていないが、私は古田説のほうが、今更ながら「何倍も精密」な論証の仕方と感じた。宮崎氏は古田氏が画期的と書いている中国三国志時代の里数(短里)の件を、ただ説明もなく「無効」とだけ書いているのは研究者としては「問題あり」と思う。まあ宮崎氏は、古田氏の論証は知っているけど「敢えて触れなかった」というのが実情だろう。このへんが宮崎氏の「弱いところ」と言える。

結局、上陸地点は古田氏は今まで通り「末盧国」とし、宮崎氏は壱岐から見た方角の東南を当てはめて「伊都国」としているのが違いだ(奴国も東南であるが)。要は伊都国は港湾都市なのか内陸都市なのか、「どっち」だったのか?、である。奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸に比べて、戸数は数千戸ばかりと少ないにも関わらず「諸国畏憚す」とあるからには、農耕集団や通商国家ではなく、より軍事力に優れた「軍隊国家」だったのではないだろうか。倭国が内乱のに陥る前には、この伊都国が「倭国グループを纏めて」いた筈である。よって、伊都国は食物の生産力はそれほど高く無くて良い。寧ろ、ちょっと山の際に砦など構えている方が「諸国畏憚」のイメージには合っているだろう。それに有明海の水産品を半島に輸出する港の末盧国への入口を押さえるには、広々とした平野部より「狭まった隘路」の方が都合が良い。例えば「関所」のようなところである。

それを考えると、伊都国は佐賀県の「多久市」のあたりがベストではなかろうか。で、不弥国が「小郡市」、そして佐賀平野の中央に位置する「佐賀市」が邪馬台国という訳だ。私はこの比定が一番妥当だと思う。最終的な邪馬台国の場所については、奇しくも宮崎氏と同じ結論になった訳だが、古代史は推論の過程が大事である。なお、古田氏の説明だと末盧国から伊都国に海岸沿いに行く事になっているが、地図で見ると「東南」ではなく「東または東北東」である。道なりに行けば「最初は東南に向かう」から、最終的には東北東でも構わないと言っているが、問題ありである。ここは道を説明してるのじゃなく、方角を言っていると解釈するのが普通の読み方ではないだろうか。しかし末盧国を唐津に比定すると、東南方向には「背振山脈」があって500里も山越えするのは無理なのだ。古田氏のように糸島を伊都国に比定すると、どうしても矛盾が出てしまう。また宮崎氏のように「直接伊都国に上陸」したとすると、今度は邪馬台国へのルートがこれまた「山越え」なんである。八方塞がりとはこの事だ。まあ、色々と問題はあるが何とかするとしても、私の第一の疑問点

・・・なぜ末盧国が「草ボーボー」の未開地なのか?、を解決するのが先だろうと思う。

半島との通商の拠点であり、船が多数停泊する港である筈なのに「乗組員の食事や宿泊などのサービス施設」が無さそうだし、輸出入の品を運ぶ道路も整備されていないのは「何と言っても」変である。草ボーボーで「前人を見ず」という状態では、普段はここを使っていないんじゃないかと私は勘繰ってしまう。ほんとにここが「半島との接点」なんだろうか?。

宮崎氏も古田氏も、この点についての「納得いく説明」はされていない。とにかく、邪馬台国への行程については「末盧国の草ボーボー」が私は気になってモヤモヤするのだ。しかし、ここは一旦横に置いといて、次に進もう。次回は来週である。



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