明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

継体大王の謎を追う

2017-07-19 18:00:00 | 歴史・旅行
磐井の乱と言われている事件があるが、実は継体大王が倭国王磐井を攻略・殺害した事件である。磐井は敗走したが、どこで死んだかは分かっていない。これとほぼ同じ頃に韓国の歴史書である百済本紀によると、「日本天皇・太子・皇子が死んだ」という驚くべき記事が日本書紀に引用されている。おそらく日本国王と書かれているところは、元は「倭国王」と書かれていたに違いないと私は思っている。日本書紀では磐井のことを「筑紫の国造、磐井」としていて、古事記の方では「筑紫の君、石井」と書いている。書紀のほうが事実を曲げているようだし、この点については、大方の歴史家の意見は一致していると私は思っている。

ただ私の疑問点はこのとき旧唐書の記述にある「倭国が日本に乗っ取られた、或いは併合された」とするか、倭国は国としては残ったが「統治者は物部荒甲か大伴金村に変わった」とするか、どちらなのかである。しかし磐井の息子の葛子が糟屋の屯倉を献上して死罪を免れた、とあるので、「日本天皇・太子・皇子が崩御」と言うのにはちょっと合わない気がするのである。それに元々が継体の領地で磐井の乱は国造の反乱と書く日本書紀の説明では、継体の持ち物である糟屋の屯倉を継体に献上することになり、話が全然通らない。もともと九州が継体の領地なら、献上もなにもないではないか。

このあたりの記事を先入観なく読んでいけば、継体大王は「九州に攻め込んだ大和の王」であることは疑いない。多分一時的に磐井を倒したが、九州倭国の反撃に逢って「大和軍は撤退した」のであろう。都合の悪いことは日本書紀は書いていないが、糟屋の屯倉の献上ぐらいであっさりと話を終わらせている点では、九州に攻め込む作戦は失敗したのかもしれない。それから程なくして欽明天皇が大和王権を取っているから、継体大王の政権は短期間で消滅してしまったとも考えられる。

突然のように近江または敦賀から出てきた継体大王は、相当長い間大和の中枢になかなか入れなかった。この時大和には武烈からつながる旧王権が残っていた筈である。三国史記が継体20年に「日本天皇・太子・皇子、倶に崩あがりましぬ」と記録しているのはもう一つの答えとして「この大和の旧王権の血脈が途絶えた事」を言っているのではないか、とも思う。文章を逐次読み込んでいくと、大和の旧抵抗勢力というか落日の武烈政権残党のような勢力が、継体軍の総攻撃に会って消滅した事を書いた記事だと見えるのである。

やっと大和地方を制圧した継体軍は、その勢いを駆って九州倭国に攻め入ったのではないだろうか。韓国の新羅との抗争に必死だった倭国は、大和の政権交代などには構ってられなかったというのが実情ではないか。その隙を狙って磐井を殺したというのが「磐井の乱」だと私は見る。継体は日本国の大王であり、倭国の王ではなかった。そもそも継体大王の治世では、倭国は高句麗・新羅と戦争の真っ只中であったのだから、そのような内乱のごとき国内問題を抱えて対外戦争を行うことなど無理の筈である。

継体は武烈から大王位を奪ったが長続きせず、安閑・宣化と立ったが結局は欽明に大王位を奪取された。この頃に歩調を合わせるようにして蘇我氏が台頭してくる。突然歴史の表舞台に出てきた蘇我氏だが、欽明大王を支えるブレーンとして頭角を現したと見れば、渡来系と言われる謎の出自も無理がなく理解できる。欽明・敏達・用明・崇峻と兄弟で大王位を継いでいるが、私は大和朝廷には大王の系譜が幾つもあって、それが中国のようにそれぞれの王朝を形成して内戦に明け暮れていたと思っている。神武に始まる大和王朝は、崇神から新しい王朝が始まり、応神から武烈までがまた別系統の王朝を形成する。そして継体が登場し、欽明からまた王朝が始まったのではないか。

その後の展開は大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱と大きな事件が続き、天智天皇から天武天皇のクーデターが成功して、天皇制国家の形が定まった。蘇我氏の力が絶大になっていた欽明から推古の日本国は、百済と新羅のどろどろの戦いに参加せず、大和の地方政権として九州倭国とは一線を画していたのではないだろうか。それは継体大王の領地を拡大する戦闘集団とはまた違った、地域に根ざした実利集団の王権であったと私は見る。その点、蘇我氏はどちらかというと新羅寄りもしくはどちらにもつかない平等外交で、韓国の政治状況をじっと見守っていたのではないかと思われる。そのどっちつかずの政策が中大兄皇子ら「百済寄りの政治メンバー」からクーデターによって倒された原因の一つであったろうと思う。

中大兄皇子側は蘇我氏を打倒して倭国の百済支援を後押しする計画だったのに、孝徳政権は大阪に都を移して百済に積極的に関わっていくと見せて、実は新羅寄りではなかっただろうか、或いはクーデターが成功したら百済のことなんかよりも「実利重視の三国外交」をやり始めたのかもしれない。いずれにしても百済と任那の復興に意欲を燃やしていた中大兄皇子らから見れば、孝徳政権は頼りにならないと映ったのかもしれない。百官を引き連れて飛鳥に帰ってしまった中大兄皇子の大和政権は、この後倭国の推し進める百済応援へと一気に加速していく。

私にはなんとなく歴史の流れが見えてきたような気がしてきた。この後は斉明女帝が九州の地で亡くなり、白村江の戦いで大敗した後7年の称制を経て、天智天皇が王権を取って百済亡命政権を建てたが結局、壬申の乱で天武天皇が勝利を収めることになる。この時の天智天皇は「倭国と大和国を両方治めていた大王」であり、倭国の指揮を取っていた皇族のサチヤマは唐の捕虜になっていて、倭国と日本国は上を下への大パニック状態だったと思われる。天武天皇は同じく九州倭国の対抗勢力で「もともと百済応援に反対していたグループの一人」ではないかというのが私の考えだ。天武のことを書紀が「大皇弟」と書いているのは大ウソで、本当は皇族とは縁もゆかりもない地方豪族の一人だったと思う。そうでなければ、天武自身が「己を漢の高祖になぞらえる」ことが、説明つかないのだ。一方そうであれば、天智の娘を4人も嫁に入れていることも納得できる。

ここまで考えて、一旦「天智と天武の支配領域」に関する解答を出すのは中止することにした。日本書紀は白村江の戦いが「誰の指導で行われていたのか」を、はっきり書いていないのである。斉明女帝が一見中心のように見えるが、過去も現在も「女性が戦争の指導者だったことは一度も無い」。だから実質的に戦争を指揮していた男性が誰か他にいる筈である。だが白村江の戦い以後、彼はどうなってしまったのか。この点についても、書紀は全く沈黙しているのだ。

まだまだわからないことが一杯ある。この天智・天武の話はこれからも継続して書いていこうと思う。答えを書くのではなく疑問点を書いていくことによって、「歴史を解き明かす楽しみ」みたいなものを自分のライフワークにしていきたい、そう考えているのである。皆さんも自分なりのストーリーを当てはめて、古代史を一本の筋の通ったものとして再構成してみてはどうだろう。

私はこれからネットのブログ「天武天皇の謎を解く(香川道成の推理学)」を読むので、続きはまたということにしたい。何と中途半端な、と思われるかも知れないが、これも古代史を研究する者にとっては日常茶飯事であるからご容赦願いたい。

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