明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

音楽に対する考えを再確認した出来事

2018-01-19 23:15:00 | 芸術・読書・外国語
先日会社の友人とヘッドフォンの話をしていて、やはりソニーが良いという話になった。確かにソニーは素晴らしい。だがどうも最近、ソニー一辺倒というのには距離を置こうとしている天邪鬼な自分に気がついた。それは音楽に対する「音作り」の面で、ソニーよりもっと原音に忠実なメーカーを選びたくなってきたのだ。これは何もソニーが原音を増幅して「歪めている」とまで言うつもりはない。ただそういう評判がAmazonのレビューに散見されるというだけである。もしかしたら評判が一番いいSONYのヘッドフォンを友人が買ってしまったので、「同じモデルで被りたくなかった」というのが本音かも知れない。

いままで私はずっとヘッドフォンはソニーと決めていたが、しばらく音楽を聞かなくて5年ほど前に、また音楽を聞こうと思い「BOSEのヘッドフォン」を衝動買いしてしまった。買った理由はアメリカでの「独創的なスピーカー」の評判であるが、結果的にBOSEの柔らかな音の膨らみとボーカルが前面に出てくる音像定位中心の音作りが、とても気に入ってしまったのだ。だがこのところの時代の流れでワイヤレスという利便性には勝てずに、そこそこの値段で「まあまあ使えるBluetoothのモデル」を探して、最近Amazonで「August」というメーカーのEP750を買った。確かにまあまあである。ワイヤレスは「あの、絶対的に煩わしいコード」から、技術の力で人間を開放してくれた。ただ、この買い物が私の音楽への思いに「火をつけた」のは事実である。

実はコンサートは、私は余り行かないほうだ。出不精なんである。だが今年は外に出かけて色々と経験しようと心に決めたので、手始めにショパンコンクールの優勝者チェ・ソンジンを聞きに行こうとネットを調べた。上野の東京文化会館なら会社からも近いので便利だ。音楽はやはり生で聞くのが一番良いに決まっている。でも「生って何が違うのだろう」。レコードと寸分違わない演奏をわざわざ遠くまで出かけていって「畏まった席に座って、絶対に音を立てないようにして聞く」という苦行を思えば、自宅のソファでコーヒーをゆっくり飲みながら何度でも聞き直して鑑賞できるオーディオ環境の方が絶対良くないだろうか。コンサートでは、当たり前だが「音源が音色ごとに別々に存在し」、音源との「距離と広がり」が十分大きく、そして「音源そのものが大きい」という、自宅で聞くスピーカーより絶対的に有利な違いがある。

家で聞くスピーカーではどんなにお金をかけたシステムであろうと、精々部屋の大きさに制限された広がりと2、3個のスピーカーで再現する「ミニチュア」でしかない。ピアノにしてもしかりであり、スタインウェイのコンサートグランドの巨大な音は「まさに爆発的な大きさ」で空気を震わせて鳴る。つまり、家で聞くことは不可能なんである。そこで騒音対策として、家庭用の音響システムはスピーカーよりヘッドフォンが良いとなった(よっぽど田舎か、周り中が騒音だらけの環境でも無い限り)。ところが原理的に言えば「両耳で聞いた音を再現する」のであるからヘッドフォンで聞くのが一番だと思うのだが、録音が「スピーカーで聞くように録音されている」から「ヘッドフォンでは頭の真ん中で音が鳴って」どうにも気持ちよくない。痛し痒しである。

音に関して言えば、体に感じる物理的な風圧や振動も音楽の要素である。そして絵画や建築やその他の芸術と比べて、音楽は「時間の経過の上に成り立つ」芸術である。その全てを「一度に見比べて鑑賞することは出来ない種類」の芸術である。だからCDなどで繰り返し何度も聞いて確かめるような聞き方は、「音楽を聞く」ことから考えれば最上とは言えないのではないだろうか。音楽は時間とともに流れ去っていく。逆戻りは出来ない。だから音楽の細部に渡って細かく鑑賞するような研究者の態度は音楽には向いていなくて、酒を飲んで陽気になるように「音楽に酔って」流れに身を任せる楽しみかたが聴衆に求められる行動である。そこで、良い音楽とは「酔える音楽」と定義できそうである。

メロディに酔い、和声進行に酔い、リズムに酔う。それが最高の「体験する音楽」なのだ。そうであれば、音楽を聞くということは「作曲家の表現するもの」を自身の耳で共感し体験することであると言える。作曲家も酔っているのだ(私の思い込みかも知れないが)。思うに音楽の個性は、メロディとリズムに現れる。変化に富んだメロディが主役で、単純なリズムと伴奏つまり和声進行の上に乗っかっている場合と、メロディが長い小節に渡って展開される(つまり和声進行が主役)場合と二種類ある。前者の代表がモーツァルトであり(ショパンやバッハも同じ)、後者の代表がベートーベンであり(シューベルトやブラームスも同じ)その他の多くの作曲家も後者である。何を言いたいかと言うと、メロディメーカーこそが「真の作曲家」であるということだ。これは私の持論である。

それは音楽の本質が「感情」の描写なのか、または「現実」を表現するかの違いである。もう少し細かく言うと、悲しいということを伝えようとするのに「悲しい感情」を表現するのか、それとも「悲しい出来事」をそのまま伝えるのかの違いである。前者は後者に比べて「間接的」である。例えば詩人が言葉で表現することを音楽家は「音で」表現する。詩人が多感な青春時代を送って詩人の才能を開花させるのと比べて、音楽家はほんの小さい時から「言葉の代わりに音による感情表現」を、自分の血肉として育つ点が異なっている。音は言葉よりも原始的だ。そして、音楽を精神的な複雑な感情の表出として扱うのは世界各地の未開の民族で確認されている現象である。そのような音楽の発生と変遷の中で、17世紀に花開いたのが「バロック」である。宗教的情熱、それはバロックの本質を端的に表している言葉ではないだろうか。

バッハの音楽は対位法をベースにしているが、実は「類まれなメロディの作曲家」である。メロディは直接的に聞く人の感情を揺さぶる。そのメロディはいくつもの変奏に彩られて「情熱にうなされたかの如き時間を」聴衆と共有するのだ。バロックには不安と情熱と心の平安がミックスされて、人間の心臓の鼓動と同じく「心を湧き立たせるリズム」が音楽を肉体のレベルでまで深化させるのである。そこで体験するものは、通俗的だが「一種の高貴な存在へのあこがれの感情」である。まさに宗教的行事と一体化された芸術と言える所以だ。「魂の救済を願う民衆の熱狂」を背景として、教会で演奏されるのに相応しい曲として作られたのである(アメリカの教会音楽であるゴスペルもバロックと原点は似ている)。そして宗教的情熱は、18世紀に貴族社会の爛熟と高貴な趣味に彩られた「より洗練された高度な感情表現」として完成する、これが私の音楽観である。

私が音楽というものを考える時、ふと通りかかった家の窓から(この家の娘だろうか?)ピアノを練習する音が聞こえてくる、といった状況を思い浮かべることがある。なんとなくその曲の終わりまで聞き入ってしまった時、音の広がりがどうの低音の伸びがどうの高音のキラキラ感がないなどと「些細なつまらないこと」を考えるだろうか。そうではなくて、そのショパンの前奏曲のメロディにこめられた情感を想いながら、どんな女性が弾いているのだろうと「ロマンチックな想像」をするのじゃないだろうか。たとえ演奏が下手だろうと音がアップライトの古ぼけたピアノだろうと、「音楽が生き生きとしている限り」は心からその情感を楽しむ、と私は想像する。

音楽とはそのように「作曲家が伝えようとした意図を楽しむ」のである。作曲家がどんな意図を盛り込んでいるか、それを味わい共感することが「音楽を聞く」ことだと私は思う。もちろんひどい音もあれば美しい音もある。だが料理のように「素材の味を楽しむ」のとは違い、音の美醜は「音楽には余り関係がない」のではないだろうか。ちなみにバッハは、自分の曲が「何の楽器で演奏されるか」を、細かくいちいち指定しなかったという。チェンバロでもバイオリンでも、彼が意図したものは「同じように聴衆に伝わる」と考えていたのである(私はそう信じたい)。だから「音がまるで生である」とか「聞こえていなかった音が聞こえてきた」とか「迫力ある重低音が出ている」とか「音の広がりが素晴らしい」などと言う評判は、音楽そのものとは「別の話」と考えるのである。

そこで話は元に戻って、完全ワイヤレスイヤホンのLnmbbsV4.1を5299円で購入、次にワイヤレスヘッドフォンのAugust Bluetooth4.1を8955円で購入、さらに左右がコードで繋いであるJPRiDEのJPA1 MKⅡを3999円で購入した。結局、殆どのスタイルを試してみたわけである。結論は、音に関しては「値段通り」だと言える。BOSEのヘッドフォンと比べるのは可哀想だが、値段から言えば「音がキンキン鳴る」ことを除けば、みんな合格点である。欠点はLnmbbsは電池が3時間しか持たないこと、Augustは耳あてが長時間だと痛くなること、JPRiDEはどうにも耳へ収まらなかったこと、と「使い勝手」に難があった。音像定位は、とくにBOSEと比較したわけではないが、どれも余り良くない印象だった。どうも「使ってみたい」という機種が無い。

しかし何時でもどこでもお気に入りの音楽を聞くためには、「ヘッドフォン」または「イヤフォン」は欠かせないのである。もし地下鉄などに乗る事を考えれば、ノイズキャンセリング機能は必須だとも言えるし、何かと煩わしいコード類は、スマホを落っことす危険性と取扱の利便性からは「無い方がいい」となれば、使えるものはワイヤレスである。さらに会社への往復に使いたいということを考慮すれ,ば、どうしても電池は4時間位は持って欲しい。それに軽いのも大事なところだ。つまり、音の質云々を比べるより前に「使いやすい」という必要最低条件が「いっぱいある」のだ。ということで、私の音楽観から「音そのものはどれも余り変わらない」と決めつけて、選択肢はSONYかBOSEかAKGかSennheiserの4つに絞られたのである。

Bluetoothで接続する以上は音質は犠牲にならざるを得ないが、ワイヤレスでありながら音を最優先する場合は「有線に切り替えて使える」ようになっているのでその点は考慮する必要はないようだ。SennheiserはAmazonのレビューで「歩く時カサカサと雑音が響く」とあったので、残念だが候補から外れた。SONYは友人が使っているので同じく外した。BOSEは私が一つ持っているので外して、結局「AKGのK845BT密閉型Bluetoothヘッドフォン」を買うことにした。普段はこれをメインにして、「服装によって有線とワイヤレスを切り替える」ということで落ち着いたのである。クラシックファンにとっては、リファレンスクラスの最高の選択であると自負している。

色々書いてきたが、ずっと聞き続けていられるのなら、音質は「慣れ」るものなのではないだろうか。ヘッドフォンやイヤホンというのは「普通は一個だけ持って使っている」ので、そうそう他と比較することもない道具である。コンサートの生の音を再現したいなどと思わない人にとっては、ヘッドフォン(イヤホンも)で再現される音が「原音と同じかどうか」などと考えないのである。だから高価なものから安価なものへと逆戻りさえしなければ、「何万円もする」高価なヘッドフォンを買うよりは「普通のヘッドフォン」で十分なのだ。私の場合は、BOSEで「良い音を聞いてしまった」だけに色んなイヤホンを探し回る羽目になってしまっただけである。

ところで今日、tune-inでポーランドのショパン専門チャンネルを聞いていたら、どうもコンサートの生演奏を流しているみたいで、いつも聞いているチャネルより「ミスタッチが多い」ことに気がついた。最近はBluetoothの規格にapt-Xという高音質のタイプが出回っており、私のAugustも「高音がやけにキンキン鳴る」のでピアノの音が「一つずつ区別して聞こえる」のである。BOSEでは「綺麗に鳴っているので分からなかった」のだが、安物は「風呂場のこもった反響音みたい」に強調されて鳴るので、聞こえてしまうのだ。tune-inのピアノの音も「録音で修正したものではなく生演奏だから」ミスタッチが多い、というのではなく、音響がクリアすぎて余計はっきりと響くのかも知れない。音の分離だけを機械的に強調するヘッドフォンを使えば、「全体の音楽のバランスを崩して、余計な音が聞こえてしまう」ようだ。音がどう聞こえているかというマニアックなことから少し距離を置いて、音楽の楽しさを全身で味わうためには「やはりAKGのヘッドフォンを購入する」しかないようである。早速Amazonに注文しておこう、っと。

だが、とことん音楽を楽しむためには、やっぱりコンサートで演奏家の自己表現と向き合い、「作曲家と演奏家の間にある溝がどれほどか」を自分の耳で確かめに行くしかない、と結論が出た。音楽は一人で自分の部屋でしんみり瞑想するものでは無く、みんなで共感して楽しむものである・・・これが現在の私の音楽観である。

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