明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

論語を学ぶ(2)巻1学而1ー16

2024-08-18 18:49:00 | 芸術・読書・外国語
(原文抜粋)子曰 不患人之不己知・・・

(意訳)先生が言われた。もしあなたが「人が自分を知ってくれない」と思い悩んでいるのならそれは間違いで、逆に「自分が他人を知らないこと」こそ問題だと思うべきである・・・

(解説)これは孔子が人間同士のコミュニケーションの機微について語っているものだと私は解釈しました。これは例えば気の合う仲間何人かと居酒屋などに入ってそれぞれ料理を注文した時に私がさて何を頼もうかな?と考えていたとしましょうか。あれこれ料理を品定めしていると、それを脇から「鶏肉のカシューナッツ炒めがあるよ」などと言ってくれる人がいたりすると、そういえばだいぶ前のことだが食べたら「こりゃあ美味しいね」などと周りに吹聴したのを覚えてくれていたんだ、とじんわり嬉しくなったりする・・・そういうことじゃないかなぁ。つまりその人が私の好きな料理を覚えていて、別に頼んだわけでも無いのにメニューの中からそれを探しだして教えてくれたのです。嬉しいじゃありませんか。

これは「人が自分の事を気に掛けてくれている」という確かな例ですね。まあ、大した事ないと言えばそうなんですが、コミュニケーションの機微というのはこういう「ちょっした気遣い」に現れるものです。そしてこの嬉しい気持ちを相手にも味わって貰いたいと思って私の方もその人の好き嫌いを覚えるようになり、互いに善意のキャッチボールが始まって「コミュニケーションが更に深まる」という訳ですね。これは互いの関係が何のしがらみも無い友人同士だから成立するのだと思います。

ところがこの「他人が自分の事を気に掛けてくれる」というのをその人の好意と捉えずに、自分には社会的に「金とか地位とか権力とか、はたまた門閥とか」があって他人が気を使うのは当然だ、と思っている人間が世の中にはワンサカいるわけです。相手が社会的に「上」であるとするならば、こちら「下の者」はひたすら上の者の考え方や物事の好き嫌いを注目せざるを得ないし、もっと言えば「それを出世の糸口にして」階段を駆け上がる方法として、自分のことより「相手の人となりを何から何まで」知り尽くすことが有効だ、というビジネス格言とも取れる訳です。友達同士の楽しいコミュニケーションなのか、はたまた格差社会の世の中で下から上へ登っていくために何が必要かという「勝ち組になる秘訣」なのか、果たして孔子は「どちら」を言っていたのでしょう?

どっちとも取れるし、むしろどっちも必要で「両方のバランス感覚」が大事なんだ、というのが現代の人間関係の受け取り方ではないかと思います。しかし2500年も昔に書かれた文章だということを考えれば、春秋戦国の動乱の世の中で何とか生き抜いて行くためには自分の周りの人間がどういう考えをして何を好み何を嫌っているかを先ず知ることから始めるべきだ、という処世術を語ったものだと受け取りたいですね。まあ、論語という書物は詳しい説明が書かれてないので、孔子の真意というか、本当のところはもはや我々には分からなくなっているわけで、読み進めて全部を読み終わった時に評価すべきでしょう。思うにこの文章が一般的なことを言っているのかそれとも特定の人との関係を言っているのか分かりませんが、とにかく他人に理解されないことよりも「自分が他人を理解していないこと」の方が重要だと言っているので、「先ず他人を理解しなさい。それが全ての始まりですよ」とでも解釈するのが妥当なところです。

(学び)私事になりますが、今年から中国語を勉強しようとして只今「2度目の挫折」の憂き目にしょんぼりしているところです。それにしても中国語の文法は恐ろしく直截で明晰至極、意味を取り違える恐れが皆無なのは驚きます。というか、世界の標準が英語やその他の言語の殆どが「主語 → 動詞、それから内容の補足説明」という語順なのです。驚きますね。ところが日本語はグダグダ・ダラダラと補足説明が延々続いた後でないと「結局どうなった?」の答えが分からないんです。実に不思議です。おまけに殆どの場合、主語も省略するから「何が何だか分からない文章が出来上がる」訳です。これで日常会話から物理の研究から国会答弁までカバーしてるんですから更に驚きます。英語だと「それはどういう物ですが?、あるいはどういう事ですか?」と次々と質問が連鎖的に発生して、相手を「最後まで詰める」ような文法なので一つ一つがクリアに説明されて進んでいく訳です。しかも日常的にです。ところが日本語ではそういう「論理的展開」にはならずに「最後はすべて曖昧で意味不明な単語の羅列」になってしまうというのが「当たり前」の世界なのです。ほんと困ったもんです。やはり中国語を学ぶというのは頭の訓練にはもってこいですね。

今回の文で言えば「不患」というのが(私の貧しい中国語の学力では多分)動詞の(否定の)命令形で主語は省略されています。〜してはならない、ですね。そして続いて補足説明つまり「じゃあ何をしちゃいけないって言うんだ?」の具体的内容が書かれていますが、人之不己知・・・の中で「人之」が主語で「不己知」が動詞です。あれ?、不己は「私を〜ない」だけど「知=知る」が後に来ているのはおかしいんhじゃないの?、って疑問が湧きました。ですが次の文で「患」の対象が「己不知人也」と正規の語順になってるじゃありませんか!・・・中国語も例外があって色々難しいです。まだまだでした。

(私論)昔は会社の上司や地域の有力者などに何かと贈り物をしていた記憶があります。しかし最近はお中元やお歳暮は元より、年賀状も出さない人が大多数なりました。昔はこれなどまさに、上司が喜ぶような気の利いたものを贈ることで「私はあなたの事を常に気掛けていますよ」と訴える手法だったわけです。ところが時代が変わって見た目にも格差社会が激しくなり、生半可な贈り物などでは「到底追い付かないくらいに」収入格差が広がってしまって、我々労働者と資本家との溝が「日本海溝」ほどに深いのが現状です(日本海溝は6千メートル以上もあるそうです。富士山の倍ですね)。

なので孔子の世渡り術の一つであるコミュニケーション能力を活用せよ、という有難い話も「実際には難しくなってしまった」という訳です。しかし一方のしがらみの無い友人関係における暖かい人間関係の構築の仕方というのは、今でも十分役に立つと思って間違い無いのではないでしょうか。論語も時代によって「読み方が変わって行く」、そういう「成長する論語」もアリかな?、と思っています(孔子には悪いけど)。

(最終結論)誰もが基本的人権において平等であり、どんな好みや信念を持っていようとも同等に尊重される社会というのは素晴らしいものだとは思います。ですが、他人と違った考えや独自の個性を持っている人がそのまた別の違った個性の人と「理解し合う」というのは可能なんでしょうか?。そもそもお互いを知るというのは不可能じゃないとは思いますが、果たしてそれで日常的にストレスなく付き合うことが出来るかというと「難しい」のではないかと思います。まあ「単なる知り合い」と「恋人同士」ぐらいの幅の違いは当然あるでしょう。お互いがそのうちの「いずれかの段階にあるか」に応じて、コミュニケーションの度合いも異なってくる訳です。人となりを知るということはその人の「個人情報」を集めることに他なりません。ある人が集めた情報を「自分の利益」のために利用するのであれば、それは今流行りの「個人情報の悪用」にもなりかねません。

だから私は人への好意は意図せずさり気ない動作に「自然に現れる」というだけにして、普段は「心の内にそっと留め置く」のが本来の姿ではないか思っています(つまり個人情報は、むやみに表には出さない)。もし誰かからそれが感じられないからと言って、何とかして「その兆候」がどこかに無いものかとヤキモキするのは「無い物ねだり」です、諦めましょう。好意はねだるものではなくて「ふと気付かされる」ものです(これ、意外と名言かも)。

いつの日かそれが相手にも伝わる時が来る・・・かも知れないし、来ないかも知れない。見返りを求めない、それがコミュニケーションの基本であり、大体そんな程度の「ゆるい関係」で付き合うのが「気持ちを楽にしてリラックス出来る」秘訣だなって思います。むしろ自分と他人とは所詮は別人、違って当たり前なんだから「冷静になって、先ず『違い』を知ることが大事だ」と孔子は教えている・・・そう考えることにしましょう。

じゃあ、違いがわかった上で「その違いがどうにも我慢がならない」レベルの時はどうすればいい?

論語には「その先」は書いてないので、自分の頭で考えましょう。ちなみに私なら、こっそり気付かれないようにフェードアウトしますけど。

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