今『阿蘇外輪山と「聖徳」ー 邪馬台国とたい(人偏に妥当の妥)国を求めて』という佐藤彰著の本を読んでいる。この手の歴史書にありがちな細かい脇道に逸れて延々と知識の海に溺れる悪弊が出ているが、それを我慢してじっと耐えて読み進めるとおぼろ気にではあるが真実の姿が見えて来るような感じである。古事記と日本書紀の違いで言えば、私は、古事記の方が真実に近いと思われる。それは古事記が撰進されてすぐ日本書紀が「訂正版」にように出され、宮廷で講義の対象になったのに比べて、古事記はその後は行方不明のように消えてなくなったのを見ても、大体推察出来るのである。もし古事記が間違っているのなであれば、それを直して正しい歴史書に書き直して出せばいいのではないか。古事記は撰進されたがいつのまにか消えて、天武天皇が意図して一大事業として作らせたのに、対立勢力の藤原不比等がによって全く別の日本書紀という本になって世に広められたのは意味深い。その辺りは追々答を出していこうと思っているが、まずは順々に読み進めていき、疑問に思っていたこと解決したことなど、思い付くままに書いていこうと思う。まだ始まったばかりである。
まずは大きな疑問点から
1 日本武尊(ヤマトタケルのミコト)とは、倭国の五王の「武」のことではないか?つまり倭武である。これはこの本の範囲外であるが、前からもしやと思っていた。しかし誰もこの事を書いていないのは不思議だ。私は日本書紀は、倭武の伝承か記録を変換して、大和朝廷の日本武尊の歴史として創作・偽装したと思うのである。これはまだ私の想像でしかないから、答は保留しておく。
2 大和を「ヤマト」と発音するのは今では当たり前のようであるが、考えてみればどこをどうひねってみてもヤマトという読みが思い浮かばない。昔からそう読んでいたようであるが、一体いつ頃からなのか?これも私の疑問の一つである。大和撫子などと現代では誰でも使っているが、実に不思議なことである。これも答は保留中である。
閑話休題、ここからは本を読んで思ったことである。
1 九州王朝は一つではない。私は大和朝廷と九州倭国政権の二つがあり、いつ倭国から大和朝廷へ変わったのかが関心事であった。しかし邪馬台国の頃は精々紀元3世紀だから、九州だけでもいくつかの国家が互いに争っていた筈で、巍の倭人伝にも書いてあるように数十国あったという。倭王「武」の頃は100国位を平らげて統一したそうだが、出雲や吉備や尾張や長野の方にも権力の集中があったのだから、信長の戦国時代さながらの群雄割拠状態だったのではないか。佐藤彰は、対馬・伊都・奴を中心とする天孫族と邪馬台国を中心とする熊襲が倭あり、その他に隼人族が居たとする。そして肝心の邪馬台国は「熊襲」だったとするのである。ええー?と耳を疑う。しかし諄々と説明して地名や歴史の事実を加えながら立証していく。神功皇后は天孫族で熊襲と戦い、敗れたのち応神が東遷して先住部族を倒して近畿倭国王朝を打ち立てたとする。何とも衝撃的な考えである。しかし神功皇后が天孫族という主張には、「タラシ」系の名前から説き起こしていく論理展開には感心させられる。そうかも知れないな、から「そうだったのか」へは、それほど時間はかからなかった。。
2 そこで熊襲の元々の本拠地はというと、阿蘇の外輪山一帯の直入・日田の辺りと言い切る。何故阿蘇山かというと、鉄鉱石が大量に出るからである。鉄分69%という。古代の勢力争いにおいて鉄製品が非常に有用であったことは、その後に熊襲族が徐々に西や北の方を征服していき、天孫族を追いやっていった事でも明らかである。また、卑弥呼は短弓の矢を魏に献上したとある。そして白珠青珠を献上、これも阿蘇外輪山周辺の産出品だという。それと桑の生産。倭錦の献上とあるが、これには桑の生産が必須である。額田王の有名な紫草の歌に詠まれた蒲生野だが実際には紫草はなかった、と土屋文明は言っていたそうである。紫草は直入地方が特産品で、近畿地方には無いらしい。紫草は火山灰の土地が良く育つらしいのである。直入郡の志土知神社の話とか青色に染めた絹織物の話とか、古事記や日本書紀や風土記など多くの書物を引っ張ってきて説得力ある自説を展開する力は並みではない。そういえば近畿地方には活火山は無い。
まだ36%しか読んでないので、これからどう展開するのか楽しみである。しかし近畿天皇家の歴史の大半は倭国の歴史と近畿に攻め込んできた元倭国の争いの歴史で、古事記が推古天皇までしか書いていないことに注目した一条このみ氏の慧眼には驚かされる。古代史はようやく真実の姿を表しし始めたところである。
まずは大きな疑問点から
1 日本武尊(ヤマトタケルのミコト)とは、倭国の五王の「武」のことではないか?つまり倭武である。これはこの本の範囲外であるが、前からもしやと思っていた。しかし誰もこの事を書いていないのは不思議だ。私は日本書紀は、倭武の伝承か記録を変換して、大和朝廷の日本武尊の歴史として創作・偽装したと思うのである。これはまだ私の想像でしかないから、答は保留しておく。
2 大和を「ヤマト」と発音するのは今では当たり前のようであるが、考えてみればどこをどうひねってみてもヤマトという読みが思い浮かばない。昔からそう読んでいたようであるが、一体いつ頃からなのか?これも私の疑問の一つである。大和撫子などと現代では誰でも使っているが、実に不思議なことである。これも答は保留中である。
閑話休題、ここからは本を読んで思ったことである。
1 九州王朝は一つではない。私は大和朝廷と九州倭国政権の二つがあり、いつ倭国から大和朝廷へ変わったのかが関心事であった。しかし邪馬台国の頃は精々紀元3世紀だから、九州だけでもいくつかの国家が互いに争っていた筈で、巍の倭人伝にも書いてあるように数十国あったという。倭王「武」の頃は100国位を平らげて統一したそうだが、出雲や吉備や尾張や長野の方にも権力の集中があったのだから、信長の戦国時代さながらの群雄割拠状態だったのではないか。佐藤彰は、対馬・伊都・奴を中心とする天孫族と邪馬台国を中心とする熊襲が倭あり、その他に隼人族が居たとする。そして肝心の邪馬台国は「熊襲」だったとするのである。ええー?と耳を疑う。しかし諄々と説明して地名や歴史の事実を加えながら立証していく。神功皇后は天孫族で熊襲と戦い、敗れたのち応神が東遷して先住部族を倒して近畿倭国王朝を打ち立てたとする。何とも衝撃的な考えである。しかし神功皇后が天孫族という主張には、「タラシ」系の名前から説き起こしていく論理展開には感心させられる。そうかも知れないな、から「そうだったのか」へは、それほど時間はかからなかった。。
2 そこで熊襲の元々の本拠地はというと、阿蘇の外輪山一帯の直入・日田の辺りと言い切る。何故阿蘇山かというと、鉄鉱石が大量に出るからである。鉄分69%という。古代の勢力争いにおいて鉄製品が非常に有用であったことは、その後に熊襲族が徐々に西や北の方を征服していき、天孫族を追いやっていった事でも明らかである。また、卑弥呼は短弓の矢を魏に献上したとある。そして白珠青珠を献上、これも阿蘇外輪山周辺の産出品だという。それと桑の生産。倭錦の献上とあるが、これには桑の生産が必須である。額田王の有名な紫草の歌に詠まれた蒲生野だが実際には紫草はなかった、と土屋文明は言っていたそうである。紫草は直入地方が特産品で、近畿地方には無いらしい。紫草は火山灰の土地が良く育つらしいのである。直入郡の志土知神社の話とか青色に染めた絹織物の話とか、古事記や日本書紀や風土記など多くの書物を引っ張ってきて説得力ある自説を展開する力は並みではない。そういえば近畿地方には活火山は無い。
まだ36%しか読んでないので、これからどう展開するのか楽しみである。しかし近畿天皇家の歴史の大半は倭国の歴史と近畿に攻め込んできた元倭国の争いの歴史で、古事記が推古天皇までしか書いていないことに注目した一条このみ氏の慧眼には驚かされる。古代史はようやく真実の姿を表しし始めたところである。
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